戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

谷干城、江戸にて心配 板垣退助こぼれ話

2005年03月20日 | 板垣退助こぼれ話
さて、どうにか江戸に到着した板垣退助ら迅衝隊は、結局江戸無血開城ということで、戦闘はなく、江戸にてとりあえず「駐留」することになった。

しかし、土佐の南国で生きてきた迅衝隊の面々は江戸では方言による言葉の壁、土地勘やその習慣などになじみない者ぱかりで、迅衝隊の軍監・谷干城は隊員たちが要領が得ないだろうと心配して、土佐藩の支藩にあたる麻布の山内家に案内役を派遣するように要請する。

されど、支藩【高知新田藩】の山内家の家臣たちは土佐藩の支藩いえど一年のほとんどを江戸ですごすため、幕府に同情的で、本藩といえどまさに「田舎侍」の迅衝隊の要請には非協力である。

わざわざ谷干城自身が麻布の山内家に訪れて懇願しても、「大丈夫、大丈夫。徳川の御家来衆はみな恭順、しかも不逞なやからなどはいません」という。

それでも谷干城は粘る。「しかし、半蔵門や桜田門のあたりは、塹壕を掘り返したり、大砲を据えてあったり、さかんにやっているではないか。あれでも徳川の家臣は恭順したというのか」
というと、支藩の山内家の家中のものたちは、仰天して、舌を垂らして笑いだす始末。


こうして、谷干城は支藩の山内家の家臣たちに相手にされずからかわれて、すごすごと隊に帰ったという。