私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

ミーティング14

2007-01-16 21:26:00 | ミーティング
今年、最初のミーティングということで「これから」というテーマで最初に話していきました。
昨年のクリスマスに教会に行ってから、自分自身を許していく、認めていくことを心がけていることを話し、今年は「赦し」をテーマに過ごそうと思っていることを話しました。
自分を許すということは、他者をも許し、認めていくことにつながるのではないかと思います。

今までは、両親に対しても、必要以上に期待してしまっていたことや依存してしまっていたこと、ようやく親であっても一人の人間であると思えるようになったこと。
良いところと悪いところ、それぞれを見ることが出来るようになったように思います。

今日のステップは
「今までの生き方の誤りが、『真の自己』を見失い、傷つけ、成長の最後の段階を踏み損なったことに由来することに気がついた。」というものでした。
「洞察のステップ」で、今まで「黒か白か」「いいか悪いか」というような、二分律的な考え方をしていたかもしれないという内容でした。

私にとっては、「いいか悪いか」というのは、母親との関係の中で培われてきたように思います。
母が言う「親子は一心同体だと思っていた」という言葉。
そして、母の一部を否定すれば、すべてを否定されたように受け取ってしまわれていました。
環境の中で、それを学んでしまったこと、そしてマイナスの感情を伝えると、すべてを否定されてしまっていたようでした。

年末、私は万引きを目撃して、見て見ぬふりをしてしまった自分を責めました。
そして、先日、また万引きを目撃し、今度はその様子を店員に告げたのですが、また同じように罪悪感が宿ってしまいました。
今までの私がどうしてきたかを考えたとき、ルールを守らないことは怒りとなって、考えぬままに捕まえるという行動に出ていたような気がするのです。
そして、それは当たり前の行動と思っていました。
「1か10か」、「いいか悪いか」の判断しか出来なかった時には、反応として行動していたのに、その怒りが取り払われてしまうと、どうやって行動するのかわからない私がいました。
「1か10か」の行動は「2から9まで」を選ぶ必要はなかったのです。

本来なら、成長する過程において、臨機応変に「1から10まで」を選択することを学んでいるのでしょうが、私は、「1か10か」しか選択することを学ばずにきたのです。
それを学んできた人にとっては、どれを選んで行動したとしても、自然に自己責任として受け止めることが出来るのに対して、私は、どれを選んだとしても、罪悪感が伴ってしまう。
これからは、親から学ぶことの出来なかったことを、人間関係の中で少しずつ学んでいくことになるのかもしれないなと思います。

今、体調においては最悪で、子どもがいなかったら、ずっと布団の中に入ったまま食事もせずに引きこもっている状態かもしれません。
でも、朝、布団から抜け出すことが出来るのも、食事を取ることができるのも、子どもがいるおかげだなと思います。
それまでは、子どもがいるから、しんどくてもしなくてはならないと思っていたことが、子どもがいるから、出来るんだという気持ちに変わってきています。
そして、本当に出来ないときには、自分を責めることなく、「ごめんね」という言葉や、代わりに動いてくれる子どもに対して、感謝の気持ちを伝えることが出来るようになったように思います。

自分を責めていたときには、子どもの非難めいた言葉にも傷つき、怒りが噴出してしまっていたのに、子どもの言い分を素直に認めることが出来たり、激しい怒りではなくて、きちんと自分の気持ちを説明できるようになっているのかなと感じます。
まだまだ、怒りが噴出す部分もあるのだけれど、意味もなく怒りを噴出して、それを相手のせいにするのではなく、冷静に自分の行動を分析出来るようになってきているのかもしれないと感じます。

今回は、体調が堕ちてしまっても、精神的に堕ちることがなく過ごせています。
何かのきっかけで堕ちそうになることもあるのですが「赦す」という言葉がおまじないのように、私の心を支えてきてくれるような気がします。
先日、長男が
「お母さんは、今まで頑張ってきたから、神様が助けてくれたんよ。」
という言葉を発してくれました。
それが、とても嬉しくもありました。
長男のように神様が与えてくれるものを信じてみたいと思います。



ポチッと押していただけると嬉しいです。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ メンタルヘルスジャンル   人気blogランキングへ 恋愛・結婚(離婚)ジャンル