センター試験国語(現代文)を極めたい!

センター試験国語の法則を解き明かすのが目標です(『ヘタレ競輪王のトホホ日記』のエントリも恥の記録として残しておきます)。

あ、そう……。

2007-03-19 21:36:46 | 教師ネタ
 とりあえず引用(『毎日新聞』より)。

>><教育再生会議>学年ごとの「到達目標」設定方針

>> 政府の教育再生会議は安倍晋三首相が掲げる「公教育の再生」の一環として、小
>>学校と中学校の学習指導要領に「学年ごとの到達目標」を設ける方針だ。新たに「分
>>数計算ができる」「漢字を覚えている」など学年ごとに子どもが習得すべき基準を設
>>け、読み書き計算でつまずく子どもがいれば、学校の判断で授業時間を増やすことも
>>できるようにする。5月の第2次報告で打ち出す「ゆとり教育」見直しなどの具体策に
>>盛り込む。
>>
>> 文部科学相の諮問機関である中央教育審議会は05年の答申で、義務教育9年間
>>を見通した到達目標の明確化を打ち出している。再生会議の方針はそれより一歩進
>>め、学年ごとに必要な資質・能力の水準を示し、落ちこぼれそうな子どもへの補習な
>>どを通じて学力の底上げを図る考え。現在は学習指導要領で学年ごとの「指導する
>>内容」が示されているだけで、再生会議は中教審が進める指導要領の改訂に反映す
>>るよう働きかける。
>>
>> また、指導要領を授業実施の「最低基準」とする考えを明確に打ち出し、それを上
>>回る学習内容は、学校独自の判断で教育課程(カリキュラム)に組み込めるようにす
>>る。比較的学力の高い学校とそうでない学校で教える内容に格差が生じることにな
>>る仕組みだ。
>>
>> 中教審が行う指導要領の改訂も「各教科ごとのエゴで横並びになりがち」(再生会
>>議委員)との理由から、教育関係者以外の大学研究者らの意見の反映を求める。
>>
>> さらに、1日7コマの授業実施や夏休み・春休みの1週間程度の短縮で、第1次報
>>告の授業時間10%増を実現。国語、算数(数学)、理科、社会、英語(外国語)の5
>>教科を「基本的教科」として重視する姿勢を鮮明にし、増加分の授業を優先的に振り
>>向けるよう求める。                               【竹島一登】

だってさ。

 ま、オレッチの考えは

好きにしてくれや

なんですけど、ちょこっと物申してみましょうかね。

 まずはコレ。

>>学年ごとに必要な資質・能力の水準を示し、落ちこぼれそうな子どもへの補習な
>>どを通じて学力の底上げを図る考え


 「学年ごとに必要な資質・能力の水準」ってカンタンに言うけどね……。

それがしやすい教科と異様にやりにくい教科がある

という現実はどーするのさ?

 現国でそれをやろうとしたら、

項目のあまりの膨大さに誰でもイヤになる

と思うんやけどね。

 それと、「落ちこぼれ」云々の箇所ですけどね、コレを考えた人、

落ちこぼれたことある?

 ……あのね、「落ちこぼれ」なんてのはね、大半が

好きで落ちこぼれてる

ワケなのよ。ま、コレはかなり誤解を招く言い方でしょうけど、

落ちこぼれまいと必死で努力している落ちこぼれ

なんてのは、あくまでも「観念上の存在」に過ぎないわけで、実際そんな殊勝な落ちこぼれなんて、ほとんどいないんと違いますかね?

 ま、少なくとも、

補習を行う→落ちこぼれ解消→バンザーイ!

などという単純至極な図式ではない、ということだけは明言しておきますわ。



 次、コレ。 

>>中教審が行う指導要領の改訂も「各教科ごとのエゴで横並びになりがち」(再生会議
>>委員)との理由から、教育関係者以外の大学研究者らの意見の反映を求める。


 ま、これも好きにしてくれたらいいんだけども、とりあえず断言しておきますわ。

安易に「教育関係者以外の」お方の意見なんぞとりいれた日にゃアンタ、もっとヒドくなりまっせ

と。

 確かに専門家といえども、「シロート以下の愚行」をやらかすことはありますけど、だからといって、

門外漢の意見が専門家を凌駕する

ことなんか、あんまりないと思うんですけどね……。




 さてさて、最後にもう一つだけツッコミ入れさしてください。

>>学年ごとの「到達目標」設定方針

 この標題に対してです。

 こんなこと考え出した人は、

指 導 の シ ロ ー ト

であると断言してもいいです。

 「生身の人間を教育すること」と、「プラモデルを組み立てること」とはハッキリ違うのにね。

 「学年ごとの『到達目標』を設定(してそれを徹底)すれば教育はうまくいく!」な~んて考えている人に聞きたい。

「じゃ、3年がかりで一つのことを習得するのはナシっすか?」

と。

 ちょいと抽象的なので、具体例を出しますね。

 たとえば、古典文法

 一応の順序から言えば、

①動詞の活用→②形容詞・形容動詞の活用→③助動詞の活用

とまあ、大雑把にいえば、こんな感じで学習します。

 だけど、別にこの順序でなかったら理解できないっちゅうもんでもない

 「①、②はサッパリだったけど、③をやっているうちに①、②も理解できるようになる」なんてことはザラにあります。

 要するに、

人間の「学習」という行為は常に合理的な手順を踏むとは限らない

ということだと思うんですよ……。

 この度の引用記事にはそこまでは書かれてませんけど、標題のような思想を教育全般について徹底するようになると、

カンタンな(とされている)ことがマスター出来ないヤツは先に進ませない!

という

公文式チックな教育

になりかねない。

 「公文式」という学習法が相当効果的なものであることは百も承知ですけど、

決してパーフェクト、普遍的なものではない

ということを忘れてはならないと思います。

 あいや、久々の長文、失礼しましたっと……。


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