■【きょうの人】 0312 ■ 勝海舟 江戸城無血開城の立役者 ■ 小堀遠州 茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家
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そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 勝海舟 江戸城無血開城の立役者
かつ かいしゅう
1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)
江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。
初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。
幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。
一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。
嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。
海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。
目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。
長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。
咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。
咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。
アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。
海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。
明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。
文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。
家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。
家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。
佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。
慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。
幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。
官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。
その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。
晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。
最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。
■ 小堀遠州 茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家
こぼりえんしゅう
天正7年(1579)- 正保4年2月6日(1647年3月12日)
小堀遠州としられますが、名は、政一(まさかず)で、近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に生まれた、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家などとして知られる多才な人でした。
江戸幕府の作事奉行となり、優れた庭園を残しました。茶を古田織部に学び、将軍家茶道指南として、またのちに遠州流茶道の開祖となりました。
造園に造詣深く、作庭家として広く知られていますが、仙洞御所、二条城、南禅寺金地院などの庭を手がけました。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下遠江守に叙任されました。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになったのです。
小堀氏の本姓は、藤原氏で藤原一族の血統を引いています。最後は、伏見奉行屋敷にて69歳で死去しました。
「一芸に秀でる人は多芸に通ず」といいます。一方で、「器用貧乏」という言葉もあります。
ある経営士・コンサルタントですが、何をやらせてもそつなくこなし、一芸だけではなく多芸に通じ、コンサルタントとしての将来が嘱望されていました。
処々で光るものを見せていたのです。それが仲間やライバルからやっかまれるほどでした。
ところが、どういうわけか、ビジネスとして、なかなか芽が出ないでいるうちに、この業界から姿を消してしまいました。
なぜ、姿を消したのかは謎ですが、経営士・コンサルタントの世界では「専門性」というアイデンティティが重視される世界でもあります。
これは、ビジネスの正解でもいえることで、顧客から、認められるためには、差異化(差別化)されていることが重要なのです。
ビジネスの世界で生きていくためには、器用貧乏という面があることを知っておく必要があります。
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