牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月1日(日) 「聖書的説教とは?②」 渡辺善太著

2013-12-01 08:50:52 | 日記

 今日から12月。すでに雪が少し積もっている。いよいよ長い冬の到来である。 


 本論に入る。第一は、聖書的説教の「性格」について、である。

 本からの引用。「聖書的説教とは、どういう説教か。それは定義的に言えば、徹頭徹尾聖書に始まり、聖書により、聖書に終わる」説教である。そして構造的に言えば、そのテキストが、聖書の聖句からとられるだけでなく、そのテキストが示している主題が、首尾一貫し、一つの論理によって貫かれ、そして高められ、深められ、広げられて、その全体が上昇的にまたは下降的に、あるいは帰納的にまたは演繹的に発展させられ、そして全体が徐々にしぼられて、聖書的に結論づけられる説教である。」

 著者も書いているがこのような説教を語るのは至難のわざである。だからこれに近づけるように説教者は努力する必要がある。


 続いて本からの引用。「ここで我々は少し、説教者(教会)と、聖書と、時代(世界)とその三者の関係を考えよう。説教者は時代に生きている。しかしその生き方は他の普通の人々とは違う。というのはおおよそ人間であれば、時代に生きていない人はない。しかしこの生き方には大別して三種類ある。「無関心に生きる人」、「広く浅く生きる人」、狭く深く生きる人」とがある。「広く浅く」とは、社会の現象のみに気をとられて生きる、類型的に言えば新聞記者的とでもいう生き方で、「狭く深く」とは、その視野は狭いが、社会的現象の裏または基礎に、「デモーニッシュ(悪魔的)なもの」の働いていることを注視している生き方で、説教者(牧師)とは、この生き方をしている人であるはずである。」

 時代に生きつつ、時代から離れて生きる。これが説教者に求められいる資質である。私は個人的に著者がこの世界にはデモーニッシュ(悪魔的)なものが働いていると表現していることに意外さを感じたが、まさにそれは真実である。


 「この状況に立たせられる説教者は、必然的に彼の立っている「時代」から、否、人間の集団としての教会からも、様々な挑戦を受ける。それは彼の信仰的「課題」となる。彼はこの課題をひしひしと感じさせられる。同時に彼は彼の密室において、聖書を研究し、これを味読しつつ、生活している。そこで彼の「課題」と、「聖書の言葉」とが、上よりの力(聖霊の力)で「結びつけられる」。ここに彼の説教のテキストが生まれる。この「結びつき」による力が、彼の聖書的説教を、「始めから終わりまで」支え、かつ支配する。」

 著者の聖書的神学的知識は圧倒的だが、上よりの力すなわち聖霊の力をも強調していることに共感を覚える。

 「彼はその「結びつき」を、彼の持つ聖書全体の知識によって、その結びつきを部分として、聖書全体から、これを見直し、これを位置づけし、その前後関係的意義を、祈りつつ考えなければならない。これがテキストが定まった次の彼の仕事である。かくして前述した構造のように、その説教全体が、「聖書的」に発展させられ、また結論せられるのである。」