牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月26日(木) 「聖書的説教とは?⑯」 渡辺善太著

2013-12-26 09:25:06 | 日記
 
 結論の最後の部分(前回の続き)で著者はこのように書いている。「上記述べきたった聖書的説教の「両極的福音宣教の確信」の有無は実に、この説教者の説教に対する「動因」であり、そしてその説教構成に対する「動力」なのである。もし我々が、我々の説教する聖書的十字架のメッセージが、「個人救済」を目標とするだけでなく、「悪霊打倒」もその目標とするということは、我々の「個人的確信」となった場合を考えれば、上述の意味は直ちに分かる。我々が高壇に立って、いざ説教するという時、見えざる天的悪霊に「挑戦する」のだと確信する時、それは実に、我々を「戦慄させる」力を持つ動員となり、動力となるのである。」

 「これを本気で信仰的に受け取るのと、しからざるのとでは、説教者としての「確信」において、驚異的な差異を持つ。パウロがローマ教会に宛てた手紙に、その結語として、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ人への手紙16章20節)と書いたのは、単なる辞令としてであったろうか?」

 イエス・キリストは悪霊を打倒することを使命としてこの地上に来られたが、イエス・キリストの使徒パウロも同様に悪霊を強く意識して、説教を語り、宣教し、教会を形成していった。しかし残念ながら現代の日本教会の多くは、悪霊がいないかのように説教し、宣教し、教会を形成してしまっている。それは主イエス・キリストが意図した(ご計画された)教会とどれほどずれてしまっていることか。イエス・キリストはこのように語っている。「わたしはこの岩の上に教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイの福音書16章18節) 分かりやすく言えば、サタンは教会に打ち勝てません、と言っているのである。すなわち教会はサタンに打ち勝ちます、ということだ。これほど明確に打倒サタン&悪霊のことが聖書に出て来るのにそれを無視している教会は何かがおかしい。霊的に鈍感である。

 著者はC・S・ルイスの『悪魔の手紙』から引用している。「悪魔に関して人間は二つの誤謬に陥る可能性がある。その二つは、同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわちその一つは、悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度のそして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらいに喜んで歓迎する。即ち唯物主義者と魔法使いとを同じように喜んで歓迎する。」

 クリスチャンでない人はいいとして、クリスチャンで悪魔の存在を信じない霊的鈍感な人々が大勢いる。彼らは目に見えるものしか信じないのである。それではノンクリスチャンと同じではないか。また悪魔の存在を何か比喩的なこととして理解しようとする。このような人たちは聖書(の本質)をほとんど何も理解できていない。また福音派の教会でもあまりにもヒューマニズムに陥ると悪霊の存在を無視して説教し、宣教する。それでは主イエス・キリストの説教と宣教とは全く違うものになる。もう一方で聖霊派の教会で異常に悪霊を強調するグループがある。これも不健全だ。何が不健全かと言うと、悪魔の方が主イエス・キリストよりも力があるような錯覚に陥るからである。私たちはC・S・ルイスが指摘しているようにバランスを保って悪霊の働きを聖霊の助けによって霊的に洞察していかなければならない。

C・S・ルイスは『ナルニア国物語』(最近映画化もされている)の著者として有名だが、私はC・S・ルイスは文学者としても優れているが、むしろ神学者としての方が優れているのではないかと思っている。彼は20世紀を代表する非常に優れた神学者の一人だ。「悪魔の手紙」は視点(切り口)が面白い本である。


 「本書の最後に私が願っていることは、聖書を正典とする信仰に、「神学的」に耐えうる説教者たらんことであり、そして正典としての聖書が語っている「両極挑戦」の確信に生きる説教者たらんことである。」