牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月23日(月) 「聖書的説教とは?⑮」 渡辺善太著

2013-12-23 09:20:09 | 日記
 
 昨日語った自分の説教を振り返っていたのだが、やはり会衆の反応が大事であることを改めて感じた。昨日の会衆は私の説教に応答してくれたので(アーメンと積極的に応答したり、うなずいたり、内容によっては笑うなど)、私も語りやすかったし、自分の持っているものがうまく引き出されていった。そのことによって会衆も私の説教を通して更に恵まれていくのである。この説教者と会衆の協力関係(一体感)がとても大事であることを覚える。

 
 さて本書だが、結論部分に入る。タイトルは「聖書的説教の福音的両極挑戦」だ。本からの引用。「聖書的説教を論じつつ、我々が最後にどうしても直面せざるを得ない問題が残されている。「神学もせんじつめれば、最後には宣教の一語になる」と前述した。この「宣教」なる語も、その意味するところは、分かりきったようだが、しかしそれはもう少し絞らなければならない。すなわちそのしぼった結果は、「説教」となる。この説教は今まで論じてきたように、聖書的説教を、その重点としている。」

 「この聖書的説教の問題として残されているというのは、私の用語で表現すると、「両極挑戦」という一点になる。この語をまず結論的に解明しておこう。この両極の一方の「極」は、宇宙的悪の根源としての「悪霊」であり、他の「極」は、個人を捉えている悪霊である。この個人を捉えている悪霊については、序文に述べたトゥルナイゼンが、「赦罪」とは、主権の交替である。人間にご自身(神)の平和を与えんがためには、キリストはまず悪霊の支配をお破りにならなければならなかったのである。、、、悪霊に憑かれた状態にある人間は、、、、何かあるものが、彼の中に住んでいるのである(『牧会学』)」。 つまりサタンの働きは宇宙的のものであるとともに、個人のうちにも働いているというのである。私がここに言っている「両極挑戦」とは、この両極に対して、教会の説教ことに聖書的説教はそれ自体において、挑戦を意味し、かつ打倒力を持っているということであり、それがあまり言われていないのは、後に述べるように、説教者自身がそれに気づいていないからである。以下この「両極挑戦」について述べてゆく。」

 知性にあふれた日本基督教団の渡辺師が説教において悪霊を打倒していくということを結論として、つまり非常に重要なこととして述べていることに驚かされた。「さすがだ」と思った。普通のありふれた日本基督教団の牧師ではこのことを理解することはおそらく無理であろう。しかし、本当に聖書を理解し、聖書を知っている渡辺師だから教団の信仰を超えてこのことを書けるのである。私は著者のこの意見に大きなアーメンである。これは真実である。
  

 「聖書的説教の主題(中心)は、「イエス・キリストとその十字架につけられ給いしこと」すなわち「十字架の福音」である。、、、教会の福音的説教の向けられる面は、他にもう一つ「悪霊への挑戦」という面がある。ゆえにこの戦いは「個人救済」と「悪霊打倒」という両極挑戦として確認されるべきであり、新約聖書は実にそう教えているのである。、、、、この「悪霊打倒」が、聖書的説教の重要な挑戦の他の一極であるということは、重大な意味を持っている。すなわち宇宙におかれているキリスト教会は、ことに現在地上の特定の国家内におかれている教会は、実に微々たる存在のごとく見えてはいるが、実は神の創造を汚した、悪の宇宙的力に対する神的挑戦の「城砦」である、ということを意味している。、、、、この一連の悪霊または悪の王国が、キリストの十字架によって打倒されるものであることは、福音書においてたびたび指摘されている。」

 福音書における主イエス・キリストの働きを見ると十字架以外では、神の国の宣教(教え)、悪霊を追い出すこと、病の癒しの3つが中心であったことははっきりしている。そのことを弟子たちにも伝えている(マルコの福音書16:15-18)。現在の多くの教会(牧師や説教者たち)が著者が書いているように、十字架の福音を語ることだけで満足してしまっている。私は十字架の福音が最も大切であることを信じている。だからクリスマス礼拝の説教で十字架のメッセージをした。しかし、説教は言葉だけではない。目に見えない世界(霊的世界)を見て、すなわち悪霊の働きを洞察して、説教を通しても悪霊を打倒しなければならない。それが神の国の福音である。サタンが支配している領域において神の支配を打ち立てるのである。ヨハネの手紙第一3章8節にはこのように書かれている。「神の子(イエス・キリスト)が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」


 「神が蛇に言い給うた言葉「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)を、このキリストの十字架の福音宣教が悪霊を打倒するということの預言として解釈し、これを「原初福音」または「第一福音」として、理解したのは、極めて興味ある信仰的洞察なりというべきである。聖書的説教とは、キリストの十字架を中軸として回転し、その個々のテキストによって、この中心の個々の面を叙説するものである。この「悪霊打倒」をその見えざる対象とするものであることを不断に自覚して高壇に立つべきである。」

 著者は悪霊の働きを特に政治的な領域で論じているむきがあるので、やはり日本基督教団的であると感じる面はあるが、それでも著者の洞察は鋭いと思う。この本が出版されたのは1968年である。今はこの領域における研究もかなり進んでいて、私たちは更に多くのことを学ぶことができている。
 
 私は本書を通して日本においても教団教派を超えて大事な真理は共有されていることを感じ、とても励まされた。世界に比べると日本は遅れているのだが。例えば以前に言及したイギリスロンドンで牧師をしていた偉大な説教者チャールズ・スポルジョンはバプテスト教会である。バプテストは日本では一般的にはこれほど研究が進んでいるのに、また世界の教会には浸透しているのに、悪霊の働きなどには目が開かれていないことが多い。しかし、さすがはチャールズ・スポルジョンである。19世紀のバプテスト教会なのに、聖書だけでなく、聖霊と悪霊の働きをしっかりと理解していた。私が惹かれる説教者は霊性と知性のバランスが取れた人物である。私が説教の領域において実際的に最も影響を受けたのは、現在ハワイのホーリネス教会で牧師をしている説教者である。日本のホーリネス教会はこの領域において一般的には目が開かれていない。でもこの牧師は両方のバランスが取れている。そもそもホーリネス教会やメソジスト教会の創立者である18世紀イギリスの説教者・伝道者ジョン・ウェスレーは聖霊運動を推し進めた人物であった。傑出した人物で霊性と知性のバランスがとれた非常に優れた人物だ。でも一般的に日本の説教者はジョン・ウェスレーの知性の部分だけから学ぼうとする。そして彼の霊性からはあまり学ぼうとしない。本当に不思議である。私はホーリネス教会やメソジスト教会ではないがジョン・ウェスレーから、またバプテスト教会ではないがチャールズ・スポルジョンから学ぼうと思って必死に彼らの本を読んでいる。もし彼らから聖書の解釈だけを学ぶなら彼らから学んだことになっていないと私は確信している。彼らから本当に学ぶということは、この二人の説教者の中心にあった優れた霊性(聖霊の働きを重んじる信仰、悪霊の働きに対する洞察力)に目を向けることだと思う。

 もし知性と霊性のうちどちらか一つを取りなさいと言われれば私は霊性を取る。それが実は何より大事なのである。それは使徒の働き1章8節を読むと分かる。すなわち聖霊の力である。それが福音宣教に最も大切であるとイエス・キリストは弟子たちに教えたのだ。聖霊の力がイエス・キリストの十字架と復活を深く理解させ、その福音を大胆に伝えることを可能にし、また悪霊を打倒するのである。