牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月18日(水) 「聖書的説教とは?⑫」 渡辺善太著

2013-12-18 09:10:52 | 日記

 「聖句説教」の次は「段落説教」である。本からの引用。「ふつう講解説教とよばれるものの多くは、この聖書中の書物の「段落段落」を講解するものである。「講解」とは、注釈に立脚し、その段落に関する説教者自身の味わったところを、説教として構成し、これをのべるものである。この説教においても、聖句説教の場合と同様、まずその段落と段落との前後関係が理解され、その一書におけるその特定の段落の位置と意義とが十分に把握されなくてはならない。講解説教なるものを、一般的にみる場合、この段落が取り上げられても、前述の前後関係が無視され、ことにその一書全体における、その位置と意義とが全く無視されている場合が多い。」

 「ここでしかし聖句説教ではみられなかった一つの重要な点をみよう。それは聖句説教の場合には、どうみようと、その一節の「主意」は、決まっている。ただその主意の受け取り方が説教者個人個人によって個性的になるだけである。しかし段落説教となると、その特定の一段落の「中心」または「重点」を、どこにおくかということが非常に難しくなってくる。」

 説教で取り上げた段落の、一書における位置が無視されると、その説教は危うい。聖書が伝えようとしているメッセージからずれる可能性が大いにある。だから例えばヨハネの福音書3章から説教する場合でも、3章だけではなく、ヨハネの福音書全体を学び全体像を把握しておかなければならないし、ヨハネの福音書全体における3章の位置づけを知らなければならない。更にヨハネの神学を学んでおく必要がある。その上で取り上げるテキスト(ここではヨハネの福音書3章)を注釈して、講解するなら大きな間違いをおかすことは少なくなるだろう。


 「端的にいうと、インテリ教会では、このやり方(講解説教)は、よほど巧みにやらないと、会衆に倦怠を感じさせる。来る日曜も来る日曜も、これをやられると、そのやり方も、その主題の取り方も、そう違えることができるものではないから、聞く者は、「またか」という感じをもつ。そしてそれなら「注釈書を読めばよいではないか」という気持ちをもたせる。、、、、こう考えてくると、どうもインテリ教会においては、連続段落講解は、よほど説教者自身がその味わい方において、独創点がないと、あまり効果はないのではないかと感じさせられる。」

 「しかし下町教会または庶民教会においては、話は全く別になる。すなわちそこの人々は商売や勤めに忙しく、かつ読書力もそうない人が多いから、そんなに注釈書をあさり、読むということはできない。したがって牧師先生が続いて聖書中の書物を、講解して下さると、「聖書知識ができてありがたい」と感じる。この意味において、ここでこの種の説教をすることは、牧会的に実りあることであり、大きな効果を持つと思う。しかしこの講解説教を連続的にするという場合、説教者にとって、知らず知らず陥るワナのあることに注意する必要がある。それは一言で言うと「楽だから」という安易な気持ちが、無意識の間に自分のうちに巣くうことになるという一事である。」


 埼玉の教会での説教は、初期の頃は「聖句(主題)説教」だった。これだとまず説教するテキスト(聖書箇所)を選ぶのに相当の時間がかかった。また私が関心がある主題(テーマ)にかたよることを覚えた。そこで講解説教にきりかえた。私が取り上げたのは、ルカの福音書、創世記(段落ではなく1章ぐらいを取り上げおおざっぱにした)、ヨハネの福音書、使徒の働き(これも段落ではなく1章ぐらいを取り上げおおざっぱにした)からメッセージをした。教会暦(クリスマス、イースター、ペンテコステなど)にはそのテーマで話したし、本当に伝えたいメッセージが与えられた時(年に数回だが)にはそのテキストからまたは主題説教をした。

 これによってテキストを選ぶ時間がなくなり、その分、選ばれているテキストの学びに時間をかけることができるようになった。説教に慣れてきたこともあったと思うが、学びと思索に時間をかけることによって、説教の内容が主題説教の時よりは深くなってきたと思う。またこれだと自分が選んでいる時には選ばなかったようなテキストにもあたり、自分の学びにも益になったし、また信徒の方にもバランスのとれた説教(食事)になり、栄養のバランスがとれてきたように思う。私が一番気をつけたのは、無味乾燥でつまらなく退屈な説教にならないように、語る私も聞く会衆も講解(こうかい)説教をしてまた聞いて後悔(こうかい)しないようにということであった。

 著者が書いているように、陥りやすいワナもある。著書は「楽だから」と書いていたが、私は「説教するメッセージを牧師が持っていない」危険が大きいと思う。聖書から説教(メッセージ)をしているのだが、メッセージになっていない、メッセージにならない。私はこれを一番危惧する。それは本来的に説教ではない。講演や講義になってしまう。

 著者は講解説教は都会より田舎に向いていると書いているが、もし著者の言うとおりであるなら、北海道の田舎町における説教は私が考えていたように主題説教よりも講解説教が良いということになるだろう。