牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月29日(日) 「ふしぎなキリスト教③」

2013-12-29 17:52:51 | 日記

 本書第3部のタイトルは、いかに「西洋」をつくったか、である。第3部の議論が一番まともだと感じた。それはおそらくキリスト教を社会学的に論じているからだ。これなら彼らにもできるだろう。しかし、第1部と第2部の内容を論じるには、彼らには荷が重すぎたようだ。キリスト教の歴史についてはある程度論じることができるが、「唯一神」や「イエス・キリスト」などの神学的なことは論じる力がなかった、と見るのが自然だと思う。


 彼らは聖書をユダヤ的視点で読むことが全くできていない。現代の日本に住むクリスチャンの多くもそうではないかと感じる。私も含めてもちろん誰でも完全に自分が生きている時代と文化から自由になることはできないだろう。しかし、聖書を読む上で(学ぶ上で)一番大事なことは、聖書をそのまま受け取ることである。すなわち聖書66巻はすべて神の言葉である、ということを信じることだ。それも基本的には文字通り受け取ることである。これが多くのクリスチャンという人たちには難しいようだ。これは私の牧会経験から言えることだ。

 現代の(自分の)フィルターを通して聖書を読んでしまうわけだ。例えば、癒しについて。聖書では、神は癒し主(出エジプト15:26)であると書いている。これが神の名前なのだ。またイエス・キリストは多くの人々の病を癒している。それが神の御心だからだ。なぜならイエス・キリストは父なる神の願っていること以外はしない、と言っている(ヨハネの福音書5:19)。そのイエスが弟子たちに病を癒すことを命じた(マルコの福音書16:18)。ここから分かることは、病の癒しは神の御心(神が願っていること)だということだ。しかし、多くのクリスチャンと教会がすることは何かというと、こういうことだ。現代は医者がいるから、病気の癒しは医者と病院にまかせるべきで、クリスチャンと教会は癒しに関わるべきではない、またアフリカなどの発展途上国には癒しが必要かもしれないが、日本は先進国だから必要ない、もっと心の問題を扱うべきだ、新興宗教が熱心に病の癒しをしているから、癒しをすると怪しまれるからするべきではない、といったものだ。本当にそうだろうか? 医者と病院には大いに感謝するべきだと思うが、だからといって神の計画と神の心が変わり、イエス・キリストの命令は無効になってしまったのだろうか? 答えは、ノーである。今でも癒しは神が願っていることであり、教会にして欲しいと思っているのだ。聖書は時代と文化を超越しているからだ。もちろん心の問題も大事である。だからといって病の癒しという体の領域を軽んじるわけにはいかない。

 あともう一つ例をあげよう。平等について。神から特別に愛され選ばれている国があるか。現代の考えから言えば、人間皆平等ということになるかもしれない。しかし、聖書の主張は明らかに違う。神はアメリカ人よりも日本人よりもヨーロッパ人よりも特別扱いしている国があるのだ。それはイスラエルであり、ユダヤ人だ。現代の考えから言えば、それは違う、ということになり、パレスチナを擁護したくなるだろう。でも聖書は疑うことができないほどイスラエルを特別に扱っているのだ。それは変わってしまったのだろうか?答えは、ノーだ。神の心と計画は全く変わっていないのだ。

 思いつくままに二つの例を挙げたが、考えればいくらでも例を出すことができると思う。クリスチャンでない人ならそれを信じなくて別に良いのだ。私が念頭においているのは、クリスチャンと自分で思っている人たちだ。クリスチャンとは、聖書が神の言葉である、と信じている人のことだ。こういう人もいる。聖書をすべて信じていないが、イエス・キリストを信じています。このような考えが成り立つと信じているクリスチャンは論理というものを全くといってよいほど理解できていない。

 聖書を信じるから、聖書に書いてあるイエス・キリストの言葉と行動を信じることができるのだ。これが順番だ。逆はあり得ない。今の時代に生きている限り、それ以外の理解の仕方はできないだろう。今は2000年前なのではないから。実際にイエス・キリストをこの目で見ることができないのだから。なぜイエス・キリストを信じることができるかというと、イエス・キリストに近くいた使徒たちのキリスト証言である福音書、または復活のキリストと出会ったパウロが書いた書簡(手紙)が、聖霊に導かれて書かれ、同じ聖霊が特別に働いた教父たちの教会会議によって、聖書に残る福音書や手紙が選ばれたと信じることによってである。もしこれを抜きにして、使徒たちによって書かれた自分が理解できない箇所を信じないが、イエスだけを信じます、というなら、その人はそのイエスの言葉と行動も使徒たちによって書かれたものでことを覚えなければならない。私が言いたいことは聖書に優先順位をつけることはできない、という事実だ。もし聖書の一箇所を否定するなら(信じないなら)、他の聖書箇所も正しいかどうか疑わしい、ということだ。

 すなわち、聖書の一部分を信じるが、一部分を信じないという道はないのだ。100パーセント信じるか、信じないか(一部分しか信じないということは、実はその信じている一部分も正しいかどうか分からないということになる)の道しかない。だからイエスだけを信じます、というのは成り立たない論理なのだ。このように表現することが許されるのであればそれはイエス教であり、キリスト教ではない。私が願っていることはクリスチャンと自称する人たちが三位一体の神(父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神)を信じることができるように、また聖書をすべて神の言葉と信じることができるようになることだ。そうでないなら、自分がクリスチャンであることを疑うことが必要になってくる。それが論理というものだ。その上で信じるか、信じないかは各個人の自由である。しかし、聖書の一部分だけを信じることができるという、愚かな考えだけはやめた方がよい。何がふしぎと言えば、そのように考えることが可能だと思っているクリスチャンがいることが、一番ふしぎである。