牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月2日(月) 「聖書的説教とは?③」 渡辺善太著

2013-12-02 15:01:44 | 日記

 前回の続きである。今回は聖書的説教の持つ「実際的価値」についてである。

 本からの引用。「聖書的説教の対内的価値の第一は、それが教会の信者の教育に不可欠だという点にある。信者はそれによって教えられ、戒められ、そして育てられる。、、、、その価値の第二は、第一につながり、それによって信者自身が、聖書に親しむようになり、これを未読するようになる、という点にある。これによってその信者は、本当の意味で独り歩きができるようになる。、、、、価値のその三は、教会の信仰告白の解説が、それと感じさせることなく、繰り返して話され、これを聖書の解説との連関において教えることができる、という点にある。このことはとくに今日のような信条軽視の時代には必要である。、、、、価値のその四は、きわめて牧会的のことだが、牧師がその説教中に、協会の大先輩または重要な長老に、個人的に当たることに触れることがあると、ことに牧師が若年の場合、問題になることがあるが、聖書の話の連関において語られる時、その問題を避けることができる、という点にある。、、、、、価値のその五は、説教者(牧師)自身に対し、聖書を勉強しないではいられなくする、という点にある。このことは、今日のように、社会的遠心力が強く、教会的求心力が弱い時代には、とくに必要である。」

 著者はこのようにも述べている。「 「聖書を知らない牧師ほど、教会における無用の長物はないと思う」と断言する。それはちょうど、法律を知らないで裁判官になっているようなものである。」

 この項の最後でこのように書いている。「要するに説教とは、牧師にとっては、対内的のそれが優位を持つべきであり、対外的のそれは、劣位におかるべきである。そしてその対内的説教としては、聖書的説教が、最優位を占むべきものだと思う。」

 聖書的説教が語られるなら、まず語る牧師(説教者)自身が準備を通して養われ、次に聴く会衆が養われることになる。更に説教を通して会衆が教義をも学ぶことになり、また個人的な生活の適用にまで結び付けられたら幸いである。