牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月20日(木) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論③>」 渡辺善太著

2013-06-20 11:43:51 | 日記

 緒論第二節のタイトルは、「聖書解釈学の基準」である。

 著者は新約的旧約書解釈概観として、旧約聖書の解釈について述べている。特に旧約聖書が「キリストの預言」と呼ばれ、新約聖書が旧約聖書で預言されたことが「イエス・キリストによって成就」した、という解釈をしている。ヨハネの福音書の中で語られているイエス・キリストの言葉を引用してその神学的根拠を与えている。本からの引用。「その第一の言葉は「聖書は廃棄されるものではない」(10:35)という言葉である。これは言うまでもなく、旧約聖書全体に対して、これを神の言葉または正典として教会に対するその恒久的権威を宣言したものである。、、、、ヨハネの福音書の語っている第二の言葉は、「その聖書が、わたしについて証言しているのです」(5:39)という言葉である。この言葉こそ旧約聖書が何ゆえにキリスト教会に対して正典としての恒久的権威を持つかということに対する説明を与えるものである。同時にマタイの福音書の語る「キリストによる旧約聖書の成就」を、更に一歩進んで説明したものである。何ゆえに旧約聖書がキリストによって成就せられるかというと、それは旧約聖書が全体としてキリストをあかしする証であるからである。、、、、、ヨハネの福音書の記しているその第三の言葉は、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(8:56)という言葉である。この言葉は第二の言葉の意義を説明し、旧約聖書が「キリスト証言」であるということの根拠を解明したものである。、、、、、すなわち旧約聖書の著者ら(アブラハム)と今日の証言者(我々)とは、十字架を中にして、それより前後二千年ずつを隔てて、その彼方と此方との相対しつつ、信仰において、聖霊によって、同時的に十字架の現前に立たしめられているというのである。普通このことは、我々は「想起」として十字架を見ているのに対して、旧約の人々は「待望」においてこれを見ていたという言葉で表現せられる。」


 (旧約)聖書はまず「字義通りに」解釈するべきであり、次に「キリスト論的に」解釈するべきである。


続いて著者は新約的旧約書解釈結論として、このように述べている。「我々は新約聖書の旧約聖書解釈を、以上にように概観してきたが、この概観は現在求められつつある「正しき」聖書解釈に対して、基準としていかなる点を要請するであろうか。その第一の点は、そこでは旧約聖書が一巻の書として、一つの「全体」として見られているということである。、、、、その結論の第二の点は、新約聖書は旧約聖書を単にユダヤ人の経典としてでなく、また一つの宗教古典としてでもなく、「キリストによって成就せられたる新しき神の言葉」または「キリスト証言の書」として受け取り、これを信奉したということである。」

 すなわち旧約聖書には二重の意義があるということだ。一つはそれぞれの時代に対する直接的意義、もう一つは後の時代に対する預言的意義である。預言的意義とはキリスト証言、約束(預言)がイエス・キリストによって成就する(した)ということだ。旧約聖書を字義的(歴史的、文字通り)&キリスト論的の二重解釈で読むことができれば、「正しく」解釈することができるであろう。