牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月29日(土) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑩>」 渡辺善太著

2013-06-29 05:25:04 | 日記

 さて聖書本文の意義決定的解釈の結論である。本からの引用。「以上聖書の意義決定的解釈を概観してきた。その結論として解釈者は、きわめて矛盾した結論にいたらざるを得ない結果に立ちいたった。すなわち聖書の意義決定的解釈は、それが徹底すればするほど、その対象たる聖書の意義を決定することができないという不十分なることの暴露である。今やこの部分の終わりに当たって、この矛盾せる結論について述べなければならない。聖書の解釈はまず何よりも先に与えられた一節の文章の語句の意義とその文法的構成とが決定せられなければならないと言われ、これこそ聖書解釈なるものの第一歩であると言われた。しかしこのことは、聖書が一巻の書物であり、六十六冊の書物の、しかしてその部分なる一節一節の文章の集合からなっているものであり、これを読むには、その一節から読み始める以外には読みようのない、また解釈しようのない書物であることを考えれば、なんら反対せられるべきことではない。しかしてこの一節または一文章の解釈は、その文章それ自身が何を言っているかを聞くことによってのみ、解釈せらるべきであり、それ以外のいかなることもそれに読み込まれてはならないと言われた。これまたきわめて当然のことであってなんら問題とせらるべきことではなかった。しかるにそれにもかかわらず、その聖書解釈における当然の出発点たるべき所与の一節または一文章の解釈が、その一節のみの解釈からでは解釈し得られないという、不思議な方法論的不十分性が感じられざるを得ないのである。

 聖書に書かれてある一文章(一語句)は文法的に解釈されるべきであるが、また聖書は一文章の解釈から始めるべきであるが、しかしあくまでその一文章は聖書全体の一部分であることによって解釈されなければならないので、その一文章のみでは解釈できない、という聖書本文の意義決定的解釈の不十分さと矛盾について著者は述べている。


 続いて本からの引用。「換言すれば、解釈者はこの解釈の論理を徹底することによって、この解釈自身の不十分性を暴露させられ、更にその暴露を徹底することによって、その不十分性を解消すべきより高き解釈へと、進ませられることになるのである。」