牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月26日(水) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑧>」 渡辺善太著

2013-06-26 07:55:57 | 日記

 昨日の続きである。本からの引用。「この聖書本文の意義決定的解釈は、おのずから二つに分かたれる。一はその「辞義」の解釈であり、他はその「象徴」の解釈である。第一の辞義の解釈とは、聖書中の個々の一文章の辞義そのものの直接の解釈であり、その辞典的解釈とその文法的解釈とからなっている。第二の象徴の解釈とは、聖書中のこれらの個々の文章が、一文章として、あるいは一群として、その辞義的意義以外のある意味を表している時、その意味を解釈する解釈である。」

 続いて本からの引用。「聖書の意義決定的解釈は、まずその辞義の解釈に始まる。その辞義の明確にせられないところに、その意義決定はあり得ない。この辞義的解釈は、まず所与の「一文章」の解釈に始まる。、、、、個々の「文章」の解釈は、一応前述したところによって、その文章の構成すなわち文法的条件から決定せられることとなる。しかしこれはこの「文章」の基礎的または文法的解釈のみのことであって、いまだこの解釈は、この文章の「文形」の問題にはふれていない。したがって問題は次にこの「文形」の問題に進まなければならない。およそ一文章の解釈に当たって、その文章が「散文」であるか、「詩文」であるかを決定することは、その解釈に対して決定的の意義をもっている。言うまでもなく、聖書中の一文章が、散文として解釈されるのと、詩文として解釈されるのとでは、その解釈に非常な差異がある。ことにそれが神学的基礎とせられるようになると、そこから重大な問題が起こってくる。叙上の意味において聖書の辞義的な解釈は、第一「辞句的解釈」と第二「修飾的詩文的解釈」との二つに分かたれる。」

 
 著者はこのように述べ、聖書の辞句的文法的解釈と修飾的詩文的解釈の二つを説明している。