牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月25日(火) 「渡辺善太全集6<聖書解釈論⑦>」 渡辺善太著

2013-06-25 06:35:04 | 日記

 長い緒論が終わり、本論に入った。第一章は「聖書本文の意義決定的解釈」である。本からの引用。「聖書解釈は、解釈者の眼前に与えられている聖書の一文章の本文の意義決定に始まる。これこそ聖書解釈の鉄則である。この本文の意義決定的解釈が軽視せられるところに、正しい聖書解釈というものはあり得ない。既述せられたように、聖書は他のいかなる性格を持っているとしても、それが人間の文字と言語とで記されているということは、その基本的性格である。その意味において聖書は文字と言語とに関する限り「自然の文字」と「自然の言語」とをもって、記された書物である。聖書の所与の本文の意義決定的解釈とは、この人間の文字と人間の言語とをもって記されている本文の「直接的解釈」または「客観的解釈」をいう。「自然的言語は女王である」という、マルチン・ルターの言葉はこのことを意味したものである。」

 続いて本からの引用。「聖書の本文辞句の意義決定は、その語の示すごとく、どこまでも即物的に行なわれるべきである。これに当たる解釈者は、常に「所与の本文の辞句は何を言っているか」という問いによって、自分自身を支配させなければならない。したがって彼は最大限度にその対象に対して客観的立場に立ち、自己の主観の働きを、最小限度に制限しなければならない。すなわち彼は既述せられたごとく、その主観を「かっこの中に入れて」、その本文の辞句そのものをして語らせ、これに傾聴すべきである。解釈者が聖書に対して、まず第一にこの心的態度を取らない限り、その本文は決して彼に語りかけるものではない。」


 この原則は聖書を読むものにとって、特にクリスチャンにとって大切だと思う。キリスト教界には(特に福音主義の教会に)いわゆる「ディボーション」というものがある。私は聖書を通して神様からの語りかけを聞く「ディボーション」をすることに賛成なのだが、しかしここ数年、多くのクリスチャンが聖書そのものに何が書かれているか、聖書そのものは何を言っているか、ということをすっ飛ばして(無視して、軽視して)、それよりも神様は自分に何を語っているかということに集中しているのではないだろうか、ということを感じている。自分への語りかけを求めるのが聖書本文は何を言っているかという後にくるなら良いと思うのだが、最初から神の語りかけ、多くの場合は自分に都合の良い部分を持ってきて自分に当てはめていく、ということが起きていないだろうか、という危惧である。あまりにも自分自身に対して祝福を求め、平安を求め、慰めを求めていないだろうか。極端な言い方になってしまうかもしれないが、それでは占い的なみことば解釈となってしまう、と思う。「今日のラッキーみことば」というような。日本のクリスチャンが信仰を強めていくためには、聖書本文を読んで、自分への語りかけ以上に聖書は何を言っているか、という質問をしていく必要があるであろう。そうすれば自ずと自分に対する神様からの語りかけが聞こえてくるようになってくるものだ。