牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月7日(金) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑫」 渡辺善太著

2013-06-07 06:32:25 | 日記

 著者は続いて聖書正典の明瞭性について述べている。「聖書は「明瞭」である。この言葉の意味は、聖書がその目的たる罪人の救済に関する限り明瞭であるという意味である。このことはプロテスタントの聖書信仰の根本であって、聖書を教会の絶対的基準とする以上、罪人の救済に関してその聖書の示すところが、明瞭でないというようなことは考えられないのである。」

 そして結論として以下のようにまとめている。「キリスト教会は聖書を結集した。しかるに聖書はその結集者に対峙して、これをさばくものとなった。、、、、、かくして教会は聖書に対する歴史的形態的保持者であり、聖書は教会に対する神学的信仰的規定者となった。この不可分離的関係は、聖書結集以来今日まで続いてきたが、なお将来においても必然的に続かなければならない。」

 「この聖書の正典としての本質究明の問題は、更にプロテスタント教会に対して本質的課題であるとともに、不断の責任となる。繰り返して述べられたように、プロテスタンティズムは聖書に始まり、聖書により、聖書に終わる。そこにプロテスタンティズムの本質があるとともに、そこにプロテスタンティズムの困難がある。すべてのプロテスタンティズムはその正典としての聖書を、その信仰と良心との自由によって解釈する。彼は必然的に聖書の一部分において、聖霊により、神の言葉を聞かせられ、そこに彼の信仰の根拠を与えられる。彼はこの神の言葉の根拠に立つ限り、彼の信仰の絶対的なることを確信し、なにものに対してもこの点については、ゆずることなく妥協することをしない。このことは彼に、彼の隣に立つ、彼の信仰と異なる信仰を持つ者の存在を許さないという、強い排外性を彼に与える。ここにプロテスタンティズムの「必然性」と通俗的に言われてきた「分裂」の根源的理由がある。しかしこの分裂は本質的には、「必然」ではあるが、「悪」ではない。それは信仰なるものの必然的性格であり、それが要請する態度である。」

 「このプロテスタント教会の本質的あり方は、一に聖書を正典として受け取り、これを正典として理解することによってのみ可能とせられる。聖書の正典的理解はキリスト教会にとり不可避的責任であるが、ことにプロテスタント教会によっては、絶対的責任である。」

 聖書66巻のみを正典(神の言葉)として受け取るクリスチャン&教会と聖書66巻は神の言葉を含むと考えるクリスチャン&教会は決定的に違う。聖書正典においての理解と信仰を間違えると、そもそもその人がクリスチャンであるかどうかも疑問である。私たちの開拓する教会では聖書正典を死守する。すなわち聖書66巻のみを霊感され啓示され権威ある神の言葉とする。これは著者が主張しているように私たちの責任である。
 以上を持って著者の「聖書正典論」が終わりになる。次は「聖書解釈論」である。