牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

6月6日(木) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑪」 渡辺善太著

2013-06-06 06:36:37 | 日記

 昨日はビニールハウス内に直売用のナスを定植した。


 さて聖書正典だが、伝統的教義的理解の続きである。著者は聖書正典の必然性について述べている。「古プロテスタント教義学は、聖書は与えらるべくして与えられたという意味において、聖書正典の「必然性」という語を用いた。これは極めて正しく所与としての聖書の意義を指示した用語である。そもそも聖書が世界に与えられているということは、それ自身神の恩寵によることであって、恩寵のゆえ以外に聖書なるものは存在しなかったであろう。」

 次に著者は聖書正典の権威性について述べている。「 「されば、次のことを定かなる公理たらしめよ。すなわち第一に律法と預言者たちとのうちに、次に使徒たちの文書のうちに包容されているもの以外のものを、神の言葉として、これに対し、教会のうちに場所が与えらるべきではなく、また彼の御言葉の規定と規範とによる以外には、教えることの正しき方法が教会のうちに無いということこれである」とは、改革者カルヴァンがその「キリスト教綱要」に記している言葉で、聖書「正典の」権威を最もよく解明した言葉である。この言葉はプロテスタント諸信条によって、それぞれの用語と表現とにおいて、告白せられたるところより裏書きせられている。、、、、換言すれば聖書という一巻の書物としての客観的存在が、「正典」として内的に権威としてのぞむこととなるのは、決して外的なるものへの盲従によって起こることではなく、前述せられた「聖霊の内的証示」によるものであることが、ここでもう一度明記せられなければならない。」

 そして著者は聖書正典の完全性と公同性についても述べている。「 聖書正典の公同性とは、前述の正典の完全性の必然的要請であり、相互表裏の関係にあり、一は他の別名であると言わなければならぬ。すなわち前述の「けだし聖書は聖霊の学校であって、このうちには、知ることが必要かつ有用であるものが一つも見過ごされていないように、知るを要すること以外のなにものもが、教えられていない」というカルヴァンの言葉が、更にもう一度この公同性との関係において再理解せられなければならない。」