蛇使いのたわごと  (ツインスパークな人生)

自称イケメンITコンサルタントのアルファ147との生活(ブースト圧低め)。
ガジェット情報もあり。

アルツハイマーの介護を振り返る。

2010-09-07 00:55:05 | 江戸切子
土曜日は7年在宅介護してきた母親をグループホームに入居させた。

治療を開始したのは父親が亡くなってからなので、発病はそれより3年くらいはさかのぼるだろう。
当時は父の看病でそれどころではなかったが、落ち着いたら母がかなりおかしくなっていた。

母も父の看病のストレスは相当あったんだろうと思う。

どうも様子がおかしいので、嫌がる母を無理やり脳検査をしたら案の定アルツハイマー病と診断。しかも中期。その時点では要介護2。


早速ケアマネージャと相談してヘルパーさんの手配。アメリカ在住の自分と韓国駐在の姉と分担して在宅介護が始まった。

しばらくしてデイケアセンターを申し込み、最初は難しかったが、段々となれてきて昼間はおとなしくデイケアで過ごすようになった。そうして月日が流れて病状は少しずつ悪くなっていった。。


介護すべき子供たちはいずれも海外在住。姉弟のどちらかがしばらく預かるか、同居するかで家族会議を重ね。しばらくはローテーションを組んでいた。時はアメリカや韓国に旅行できて一時は楽しそうだったが、それもできないようになった。

病状は悪化し要介護3まで言ったときに、自分は一時帰国して自分が同居することを決意した。2007年の春のことである。


昼はデイケアがあるので朝と、夜だけそばに見ておけば大丈夫だろうと。。それほど大変じゃないだろうと思っていた。しかし現実は。。


仕事を本格的に日本中心にシフトしたのは2007年。ちょうとグリーカードが取った直後だった。


気がつけば妻子をアメリカに残し、逆単身赴任となった。

仕事仲間には恵まれて、仕事にも恵まれたので生活に困ることはなかったが、介護と仕事の両立はつらいく切ない日々であった。母とっても不幸な時代だったと思う。

1年前に7年の韓国駐在を終えて、姉夫婦が姉が帰国した。近くのマンションに住んでくれたのは助かった。夕食の世話をしてくれた。夕食後迎えにいくまで待たせておける。しかし今度は姉のストレスは想像以上だった。


新しく認可された薬が使えることにもなったが病状はよくならず、父親の7回忌までということで意見は一致。それが昨年の11月。グループホームを探しはじめた。
この夏でさらに病状が悪化し、もう眼界というところでようやく条件の合うホームが見つかった。

いくつか候補が上がり、最初に申し込んだところには病状が悪く断られた。

でも捨てる神あれば拾う神もある、2番目のホームが空きがあることがわかりすぐに見学に行き、翌週には契約までこぎつけた。

しかし、最大の問題が待ち構える。どうやって母親を連れていくか。契約時は本人をつれたいったのが失敗。頑なに拒んでいた。ホームの方も心配していた。


そこへ救世主が現れた。急遽アメリカから帰国したかみさんだ。

さすがにアメリカのデイケアで10年もボランティアをやっている経験はすごい。

誰が最後に付き添うかの家族会議では、俺は一番に駄目出しをされた。荷物の搬入係りになる。
結局姉とかみさんと付き添うことになった。姉のことはすでにわからなくなっている。母にとっては他人なのだ。かみさんのことは当然わからない。

聞いた話では、かみさんはトランプを取り出して、初対面の認知症のご老人たちといきなりゲームをはじめたらしい。その隙に姉が退出し最後にかみさんが見届けて去ったとのこと。自分は事前の荷物運び専門で母にはあってない。

こうして我が家の長い一日が終わった。かみさんは強行日程で月曜日に帰米。そして実家で一人暮らしが始まった。

7年におよぶ介護生活を振り返ると、親孝行をしたという気分にはなれない。この生活が何時まで続くのかという、言い知れぬ恐怖との戦いだった。他に方法があったのかもしれないし、自分の選択が正しかったのかどうかもわからない。ただ自分なりに納得して出した結論で。母の残りの人生もより幸福感が得られるものと信じている。

今、この空虚感を埋めるものが見つからない。時間が解決してくれると思うが。



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