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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

受験

2019-02-20 00:03:18 | 言語



> □受験のためなら手段を選ばず、という考え方は正しい? >「●●さんはこんな簡単な問題で間違えているよ~」「ぼーっとしているなら、帰っていいからね」「下のクラスはたくさん空きがあるから(行けばいいよ)」という言葉群は、どのような文脈で使われたのかは定かではありませんが、重要な視点は、お子さんが、困惑した顔をして親に話をしたという事実です。 >塾の論理としては、「やる気にさせるため」「ハッパをかけるため」「叱咤激励」ということでしょうが、それはあくまでも塾側の論理であり、最も気になるのが、「ここは受験のための塾ですから」という言葉です。
>この言葉がすべてを物語っていると思います。 >つまり、この表現の奥には「受験のための塾だから、手段を選ばず、子どもの心が傷ついても受験に合格したいなら、このやり方は正しい」ということでしょう。

先の戦争で強調された精神主義に似ていますね。何が何でもこの一戦。

>このように解釈するとしたら、「そこまでして中学受験をする必要ってあるの? そうじゃないと合格できないの?」と吉村さんが疑問を持たれるのも無理はありません。

わが国は、序列社会で成り立っています。子供の受験が偽装された序列順位争いのために利用されている状態ですね。こうした励みは、教育の本質 (自己を伸ばす) とは関係が無いのでしょう。

>このような状況が事実であるならば、筆者であれば次のような対応を取ります。>「即刻、塾を辞めさせる」

そういうことになりますね。

>正確に言えば次のような考えを経ての決断になります。>子どもには大きく分けて2つのパーソナリティーがあると筆者は考えます。 >1つはセンシティブな子。 >周囲の人は自分をどのように見ているか、どのように感じているかを気にするタイプです。>このようなタイプの子は、自分がどう見られているかを気にするため、人の発言に敏感であり、自分の扱われ方によって、自己肯定感が上がったり下がったりします。>ご質問のような発言をされた経験を持つと、非常に深いダメージを受ける可能性があります。

そうですね。空気を読むタイプの子ですね。

>もう1つのタイプは、人の言うことや親の言うことを聞かない頑固なタイプ。 >このような子は、負けず嫌いであり、多少、ご質問のような状況下でもやっていくことが可能です。 >しかし、ご質問のような経験を子どもの頃に持つと、「人をさらしものにしたり、叱咤激励と称して罵倒することで人が伸びる」と勘違いして生きていくことになる可能性もあります。

自信満々のタイプの子ですね。

>したがって、どのような子どもにとっても、ご質問のような状況が与える影響は深刻であると考えます。

そうですね。深刻ですね。

>□時代錯誤な指導をする塾はすぐに変えるべき >いずれにしても、筆者であれば即、塾を変えさせます。 >なぜなら、目の前の勉強よりも、子どもの心の状態のほうが大切であると考えているからです。 >また、筆者は、「合格のためには手段を選ばず、やる気がないのは、子どもの問題」という考えよりも、「やる気を引き出せない授業や指導方法に問題がある」と考えてしまうため、このような結論になります。

そうですね。授業や指導方法に問題があるようですね。時代錯誤の指導というよりも、これしかない指導法ですね。

>子どもの心には、ワクワク感や、充実感、成長感、を与えるべきであって、挫折感、喪失感、劣等感を子どもの段階で教えるべきではないとも考えています。

そうですね。言うは易しく、行うのは難しい。日本語には、階称 (言葉遣い) があります。ですから ’上とみるか・下とみるか’ の判断は欠かせません。日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、下の者に挫折感・喪失感・劣等感を体験させる機会を作っています。

>叩いて叩いて育てるという根性論的指導法というのも世の中にはあり、それが正しいと信念を持っている指導者もいることでしょう。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人間には、方法がない。仕方がないから、無為無策でいる。
意思 (will) は未来時制の文章内容ですが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制がなく、日本人には意思がない。
日本人には意思がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。この窮地の打開策として精神主義が持ち出されてきます。これは、日本人の常套手段です。

>それはそれでその方法が正しいと思っている方にとっては是となるでしょうが、筆者は、そのようなあり方を是としません。>ご質問に登場してくる塾は、20世紀型の指導では通用したのかもしれませんが、筆者が見聞きしてきた素晴らしい学校や塾のあり方から判断すると、今やそれは時代錯誤のやり方となっています。>企業でも同様です。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>筆者は年間70回以上、上場会社の企業研修をお引き受けしますが、そこからわかったことがあります。>それは、いわゆる「気合い・根性・努力」型の20世紀企業は、減収減益となっているところが多く、逆に「ワクワク、楽しい、面白い」型の21世紀型企業は伸びているのです。

そうでしょうね。’意地・根性・大和魂’ の精神主義では、どうにもなりませんね。自分に意思がないからです。意思があれば、あたかも疲れを知らないかのように人は励みます。失敗しても後悔しません。
しかし、日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがなく、日本語の脳裏には未来時制がありません。それで、日本人には、意思がない。
成功のカギを握る個人の意思を調べようにも、日本人のように意思がなくては話にならない。個人の意思に焦点が当たらないから、わが国では面接試験は重要視されていない。受験者は、あらかじめ暗記してきた同じ内容を皆が述べるだけの検査になる。没個性であること限りがない。
そこで、意思の内容をほめて励ます代わりに、恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意地・根性・大和魂とする方法が採られる。これで危機を乗り切る覚悟でいる。しかし、これは滅亡への道でしょう。

>□不信感を持ったままでは好転する可能性は低い >受験はそんな甘いものではないという向きもあります。 >しかし、それも過去の幻想と思ったほうがいいでしょう。 >なぜなら、筆者がこれまで直接指導してきた3500人以上の子どもたち、さらには多くの東大生からヒアリングしてわかったことは、学力が優秀な子は、「勉強は苦しみであるというより、楽しい・知りたいという気持ちのほうが圧倒的に強い」のです。

それは、ありますね。自分の性 (意思) に合ったものは、寝食を忘れて励みますからね。

>そして、それがどこで作られたかというと子ども時代に出会った先生の影響が実は大きいのです。 >よく、数学ができないきっかけは学校の先生だったということを聞いたことがありませんか。 >逆に英語が好きになったのは、学校の先生や塾の先生に英語を楽しく教えてもらったからという経験を持った方もいらっしゃることでしょう。 >もちろん先生だけがすべてのきっかけではありませんが、先生がきっかけになることは少なくないのです。

そうですね。子供の時は、先生が全ての基準ですからね。

>今、吉村さんのお子さんが経験したことは、仮に塾がそのようなつもりがなくても、子どもがショックを受けている点、さらに親が塾に不信感を持っている時点で、今後、継続することで好転する可能性は極めて低いと考えていいでしょう。

そうですね。‘民 信無くば立たず’ ですね。

>安易に塾を変えたりすることはよくありませんが、信じてその塾に任せるという親の気持ちと、子どもの先生に対する信頼感がないようであれば、塾を変えるという判断は正しいと思います。>これらは、あくまでもいただいた情報に基づく筆者の考えですので、状況を鑑み、適切な判断をしてください。

そういうことになりますね。同感です。


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非言語

2019-02-18 03:16:21 | 言語

>お正月には神社に詣り、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、お葬式は仏教に則る。

日本人の行事は、多種多彩ですね。良いものばかりを各方面から取り入れている。

>こういった、生活の中にいくつもの宗教が混在する日本人の宗教観を、一神教を基調とする欧米人は理解し難いと感じているようだ。

そうですね。西洋人が宗教の混在を言語によって理解するのは無理ですね。日本人の言動は非言語に基づいていますから。

>その背景にあるものを、いくつかのアメリカメディアが探っている。

アメリカ人は、いつも探求心が旺盛ですね。感心しています。

>◆宗教が生活の一部として存在している日本 >クリスチャン・サイエンス・モニター紙(CSM)は、宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事を掲載した。>同紙は、世界の宗教に関するニュースを幅広く取り上げている。>CSMはまず、調査会社WIN/Gallup Internationalが発表した信仰心に関する調査結果を引用し、日本は62%もの人が信仰はないとしているにもかかわらず、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を説明する。>つまり、ある参拝者が述べるように「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」であり、宗教が生活の慣習の一部として存在しており、「聖と俗が分かちがたい状況にある」ということだ。

お詣りは言語による理解とは別である、わが国の行事は非言語の体得により執り行われています。

>その理由の1つとして、CSMは日本人の神社へのお詣りが現世利益主義的な側面が強いことを指摘する。

日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。だから、日本人は現世利益主義的になる。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。わかる為には理解が必要である。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は事実 (本当のこと) である。見ることにできないものは、’嘘’ である。
誰も、’見て来た事のような嘘’ をつきたくはない。だから、誰も、自己の考えを述べることはしない。それで、思考停止の状態になっている。日本人は、西洋人の理解の及ばないところにとどまっている。

>明治神宮に飾られた絵馬には、さまざまな願いごとが書かれている。病気治癒や職場での昇進に、嵐のコンサートのチケットまで。>宗教は、個人の信仰としてあるわけではなく、絵馬に書かれたように「願いごとがすべて叶いますように」と祈るためにある、というわけだ。

日本人は、他力本願・神頼みですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容になるが、日本語には時制というものがない。だから、日本人には、意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。

>またCSMは、2013年の伊勢神宮の式年遷宮の年には過去最高の1400万人もの人を集めたことに注目する。>その理由として、特に若い世代での参詣者の増加について、将来への不安が背景にあるのではと推測する。

同感です。日本人にとって一寸先は闇ですからね。日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。未来の世界の内容を脳裏に描くことが難しい。そして、一寸先が闇になる。

>伊勢神宮の神宮司庁広報課員の音羽悟氏は、20年もの不況で多くの人が目的を失い、将来について不安を感じているため「スピリチュアルな癒やし」を求めている、と同紙に述べている。

日本人は、泣き寝入るしかない。同病相哀れむか。これが、スピリチュアルな癒しになる。

>◆八百万の神でもってして異国の神を受け入れる >米公共ラジオ放送(PRI)は、日本の土着の信仰である、八百万の神を祀る「神道」に日本人の宗教観の背景を見出している。

日本語も土着であれば、日本人の信仰も土着ですね。

>PRIに詳細を語っているのは、東京都の渋谷に位置する金王八幡宮の田所克敏宮司。>彼の言によれば、「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう2つ加わった、というだけのこと」。

そうですね。わが国では、神も人もアニマルも、すべてを非言語の基準に従って受け入れらていますね。ですから、何事も自然に溶け込んで見えている。

>田所氏はさらに、こういった日本人の受容性の高さを、天ぷらを使って説明する。>もともと天ぷらはポルトガルから伝えられたものだが、日本人は受け入れ、文化の一部としている。

そうですね。日本人は、都合のよいものは何でも受け入れています。宗教も、儀式として受け入れられている。

>田所宮司はさらに、次のように述べる。>「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」。

そうですね。日本人は、言語の観点 (宗教・考え) からではなく、非言語の観点 (儀式・行動) から受け入れていますね。これは、アニマルにも通じる行動様式です。

>つまり、「この儀式(冠婚葬祭)はどう執り行うのか」が重要であるため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教の教会で挙げながら、問われれば即座に「仏教徒」と答える状況になっている、とPRIは論ずる。

そうですね。西洋人は、宗教を言語 (文章内容) で理解する。日本人は、宗教を非言語 (あるがまま) で受け入れる。

>◆荒ぶる神を受け入れ、内面の糧とする日本人 >しかし、この高い受容性が別の面で発揮されているのを、別のアメリカのメディアPBS(Public Broadcasting Service)が伝えている。>ケンタッキー州にあるベリア大学のジェフリー・リチー准教授が、2011年の東北大震災に見舞われた人々が見せた忍耐強さを、宗教的観点から論じている。>宗教学の准教授で、同大学のアジア研究プログラムの責任者であるリチー氏はまず、日本の『ゴジラ』やマンガ『アキラ』に見られるように、日本人の災禍に対する考えは、日本の伝統的な宗教文化に見られるような荒ぶる神としての姿に根付いている、と述べる。

そうですね。昔の八岐大蛇 (やまた の おろち) のようなものですね。

>そして、本居宣長の『古事記伝』に記した「神(古事記伝では「迦微」)」についての論述を引用して、日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないものだ、とする日本人の宗教観を示した。

そうですね。日本人には、意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。日本の神も同じ行動様式をとるのであります。

>だからこそ震災が起きた時に、一神教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者が持つような「震災は神の裁きなのか」という問いではなく、「震災をどう受け止めるべきなのか、震災はどう自分の内面のためにあるのか」という問いを、伝統的な宗教観をもつ日本人は抱きがちになるのではないか、とリチー准教授は問いかける。

日本人には意思がない。日本人の神にも意思がない。意思は、未来時制の文章内容により示されるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、わが国では、神にも人にも意思がない。
時制がなければ、非現実な独立した三世界 (過去・現在・未来) もない。世界観も想定外になっている。だから、わが国では、人も神様も現実の世界に住んでいる。

>西洋の基準からしてみれば、信仰心がないように見え、また日本人の自覚としても宗教に対する信仰心はないとしている人でも、人智を超えたものを畏れ敬う気持ちが日本人の中にあることは、以上の3つの記事からは示されているようだ。

そうですね。’祓い給え、浄め給え’ ですね。考えではなく儀式です。身体で覚えることです。


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閉塞感

2019-02-15 15:04:06 | 言語
 
>佐藤有志 ( 55 ) 19/02/15 AM10
>現代社会は、大衆の意識でできている。

そうですね。我々の意識で日本社会はできていますね。

>だから、閉塞感の強い今の社会を変えるには、大衆の意識を変える必要がある。

そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がないので、方法がない。仕方が無いので、無為無策でいる。だから、閉塞感を強く感じています。

>現在の社会閉塞の元凶は、学者・教師・マスコミだが、彼らを打倒すべく革命を起こしたところで、大衆の意識が変わらなければ意味がない。

インテリ (学者・教師・マスコミ) が社会閉塞の元凶であるのは、思考停止であるからですね。受け売り専門家ばかりでは、どうにもならないから閉塞する。自分自身の考えが必要ですね。Everyone needs a philosophy.
革命という名の 打ちこわし’ では、社会閉塞は変わりませんね。必要なのは、意識改革ですからね。頭の中への介入が必要ですね。大衆の意識が変わらないのは、国語が変わらないからでしょう。

>だから、素人である我々大衆が、国民の一人ひとりが、特にこれからの社会を担う若い世代が、学者・教師・マスコミが洗脳する旧観念の無効さ・犯罪性を見極め、認識力・追求力を自ら高めていく事が必要。

インテリのみならず、素人が考える人になることも必要ですね。洗脳と受け売りが流行るのは、思考停止の状態が国民の間に永続しているからでしょう。

>ただし、一人では追求活力も継続しない。

そうですね。でも、考える人間一人一人が大切ですね。国民全体が烏合の衆では、どうにもなりませんからね。

>これからの追求の中身は、教科書や既知の知識を超える未知領域に踏み込むことが必須。

そうですね。一人一人が独自に考えれば、教科書や既知の知識を超えることができますね。未知の領域には創造力が必要です。既知の領域には暗記力が必要ですね。

>一人では続かない、突破できない可能性が高い。

そうですね。でも、独りずつの考えが大切ですね。全体が一人ずつになっていることが重要ですね。個人主義 (individualism) を広めることが必要でしょう。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。思考停止の人は、議論しない。ただ、’やってみなければわからない’ とだけ答える。演繹力・洞察力がない。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。論旨を理解しなければ、話の内容はわからない。
非現実の内容は、時制 (tense) のある文章になる。非現実の世界は、独立した三世界 (過去・現在・未来) になっている。非現実の世界の内容は、世界観になる。時制は、英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから、英米人には世界観があるが、日本人にはない。だから、日本人の話は、とかく小さなものになる。夢と希望の内容は、こうした小さな枠組みの中には入らない。
現実ばかりが存在する日本人の判断によれば、見ることのできる内容は、真実・事実であると断定される。見ることのできない内容は、嘘である。考えは、見ることのできない内容であるから嘘になる。誰も見て来たような嘘をつきたくはない。だから、自分自身の考えの内容を語らない。これが、思考停止の状態に陥った状態である。この状態が長く続けば、もっぱら他から教えられる事実を暗記することが頼りになる。これが、洗脳である。そして、学生は、受け売りの専門家 (評論家・批評家) となる。これが、わが国の知的関係の仕組みである。

>だから仲間と一緒に追求する事が不可欠になる。

理解を深めて力を合わせることが必要ですね。我々は、仲間とも仲間でない人とも対話できることか必要になりますね。それは、伝統的なわが国の無哲学・能天気を撲滅することが目的ですからね。

>(以上は、2/9の実現塾で展開された内容の中でも、大きな気付きを得た一節)


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子供の描かれ方

2019-02-15 10:34:41 | 言語

(略)
> 欧米と日本では子供についての見方は大きく異なるようです。>「街場のアメリカ論」内田樹:著から紹介させていただきます。> 以下引用(順序入れ替えを含む)~~~~~~~~~~~~~~~~~
>アメリカの映画や漫画やテレビドラマを見て、そこでの子供の描かれ方がどうも「かわいくない」と感じるのは私だけでしょうか。

そうですね。かわいくないですね。西洋人の子供用の人形も、わが国の人形ほどかわいくないですね。

>ものすごくかわいい子供が出てきて、胸がきゅんと詰まって、ふれたい、抱きしめたい、保護したい・・・といった感情を無条件に発露させるような子供の描き方を私は見た事がないのです。

そうですね。西洋人は、子供に人間味のある接し方をしていませんね。客人が来ても、子供は挨拶だけして自分の部屋に引っ込んでいなくてはならない。子供を中心にして客人をもてなす日本人の習慣に、西洋人は戸惑いを覚えます。無意志の子供の行為が話題の中心になるのか、意思ある大人の行為が話題の中心になるのかが大きな違いになります。意思を中心にした話では、子供は出る余地がありません。日本人にも意思がない。だから、日本人は、話題が無意志の子供に向っても違和感がありません。

>アメリカの物語で描かれている子供は、みな生意気で、どちらかといえば邪悪なのです。

そうですね。漫画的ですね。子どもは、恣意により行動しています。これは、アニマルと同じです。そして、アメリカ人は、恣意 (私意・我儘・身勝手) を敵視していますからね。それを見て、日本の鬼は笑っているが、西洋の悪魔は笑っていない。
日本人は恣意を本音と呼んで、建前 (口実・言い訳) とセットにして容認する傾向にあります。恣意は、’出来心’ というのでしょうかね。恣意にはリーズン (理性・理由・適当) が無いので、説明責任はとれません。それで、信頼されません。とかくこの世は無責任’ となります。

>これは私1人の見方とは思われません。

そうですね。日本と西洋の根本的な違いでしょうね。日本人は、子供の世界に住んでいるのでしょうかね。’建前と本音’ の世界をおさらばできるのか。

(略)


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真の目的

2019-02-12 10:35:56 | 言語

>放送作家・戦略的PRコンサルタント、野呂エイシロウ氏の心に響く言葉より… >大企業への就職活動に失敗した僕が放送作家を目指した理由は、比較的自分が得意な分野でお金が稼げて、かつ楽しそうな職業だと思えたからです。>楽しそうだというのはおまけの理由で、第一義はお金を稼ぐこと。>僕が今でもなお放送作家としてせっせと原稿を書く目的は、ヒットを飛ばしてお金を稼ぐことにあります。

あなたの稼いだお金は、自分の夢と希望を実現するための手段になりますね。

>ところが、「放送作家になること」が目的になっている後輩が結構いるのです。>放送作家になることを目的にしてしまえば、小さな仕事が来た段階で目的は達成されてしまうから、大きく伸びていけません。>実際に、いくつかの番組に関わった後すっかり仕事が減ってしまって、年収200万円程度しかとれずにいる自称「放送作家」がゴロゴロいます。>医者になりたい。>弁護士になりたい、デザイナーになりたい。>かっこよくて聞こえのいい職業につくことを目的にしている人が、あなたの周りにもいるのではないでしょうか。>しかし、職業は目的ではなく手段です。>その手段の先にあるものこそ目的なのです。

そうですね。職業は金を得るための手段、金は手段にはなるが目的にはならない。金を目的にすると、不毛な人生を送ることになりますね。

>医者であれば「亡くなった父親と同じ肝臓病の患者を一人でも多く救いたい」というようなことです。>そこを勘違いしてしまうと、とても不毛な人生を送ることになります。

この国には何でもあるが、ただ、夢と希望だけがない。現実の中には、夢と希望は無い。非現実 (考え) の中にこそ、それらがある。
現実の内容は、和文で表現できる。だが、非現実 (考え) の内容は、表現できない。
現実は見ることができる。非現実は、見ることができない。見ることができるものは、本当のこと。見ることができないものは、嘘である。誰も見て来たような嘘をつきたくはない。だから、わが国では非現実は語られない。しかし、夢と希望の内容は、非現実の中にある。
非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制のある文章は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。夢と希望は、未来時制の文章内容になる。
時制は、英語にあって日本語にはない。だから、英米人は夢と希望を語るが、日本人は語らない。それで、アンハッピーな人生を送ることになります。

(略)
>ビジネスは、一人で行うことはできません。>お互いに目的を持った人たちが集まり、それぞれの目的を達成しようとすることで成立します。>だから、自分の目的はきちんと開示すべきだし、相手の目的もわかっていなければなりません。>それを曖昧にすると、みんながアンハッピーになります。>ところが、往々にして、お互いの目的をきちんと確認しないまま、一緒にビジネスを始めてしまうのです。>とくに、金銭的な面について日本人はストレートに言うことを避ける傾向にあり、後々禍根を残します。>仲がいい友人とのビジネスが失敗しやすいのは、お互い「わかってくれているはずだ」という甘い読みがあるからです。>自分の目的と相手の目的には、合致する部分もあるし異なる部分もある。>その異なる部分について、「わかってくれているはずだ」と考えるのは、非常にまずい。

そうですね。相手の忖度に不確かな期待を掛けることになりますね。日本人に未来時制の内容を聞き出すのは非常に難しいから。

>相手の目的をかなえてあげれば、その対価としてお金が儲かるというシンプルな法則を、僕は学生時代のアルバイト経験を通して学びました。>お金を払ってくれる相手の目的にシンプルにフォーカスする。>ここを間違えなければ、ほとんどのことは解決します。>もし、相手の目的が掴みにくいと感じたらどうするか。>答えは簡単。>聞けばいいのです。>『終わらす技術 (Forest2545Shinsyo 42)』フォレスト出版

そうですね。相手に目的を尋ねることが大切ですね。

>南の島のビジネスマンという、有名な寓話がある。>あるエリートビジネスマンが、南洋の島にバカンスでやってきた。>そこで、ヤシの木陰で寝転んでいる地元の漁師と出会った。>「どうして仕事もせず、昼間からのんびりと寝転んでいるんだい?」と聞くと、「午前中に漁を何時間かしたらそれだけで食べていけるんで、休んでいるのさ」と漁師。>「なぜ、もっと働かないのだい?そうすればもっと稼げるのに」とビジネスマンがいうと、「もっと稼いでどうするんだね」と漁師。>「もっと稼いで、お金をためて、もっと大きな漁船を買って、人を雇い、それを加工する工場も建てることだってできる。そうして、会社をつくって、それを大きくして、やがて会社を上場する。そして、その株を売って多額のお金を手に入れることができる」>「それから、どうするんだい」と漁師。>「そうしたら、もう働く必要はない。毎日、のんびりとバカンスができる身分になれる」とビジネスマン。>「それなら、もうとっくにやってるよ」と漁師が答えたという。

本当に賢い漁師ですね。

>「病気を治したい」という目的も、「お金を稼ぎたい」という目的も、すべての目的にはその先にある、本当に叶えたい真の目的や夢がある。

これら全ての目的は、手段と呼ぶべきものですね。真の目的や夢は、’あるべき姿’ の内容ですね。手段の目的化が起こって、日本人はそれ以上進むことができない。多くの人が不毛の人生を送っています。

>何のために病気を治したいのか、病気を治したあとに何をしたいのか、あるいは、何のためにお金を稼ぎたいのか、お金を稼いだあとに何をしたいのか、ということ。

金は手段になる。だが、目的にはならない。真の目的を考えよう。さすれば、建設的な人生を送ることができる。理想的な未来の世界が待っている。

>目的の先にあるものを考えない人は多い。>「本当に大切なものは」>「心から好きなことは」>「本当にやりたかったことは」>常に、目的の先にあるものを考える人でありたい。

そうですね。我々には、’あるべき姿’ (things as they should be) が必要ですね。日本人も、無哲学・能天気ではいられませんね。

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