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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

儒学の教育

2017-06-14 21:12:37 | 教育

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>昨日、「日本的思考とは何か」をテーマにした勉強会に参加しました。
>日本的な思考とは、実は自由な精神による自由な思考であったということがメインメッセージです。

‘不自由を常と思えば不足なし’ ではなかったのですか。

>自由とは権威からの自由であって、権威から学ぶもそのまま鵜呑みにするのではなく、そこから自分なりに解釈、飛躍していく自由さが、儒学や仏教などにもみられたそうです。

時は封建時代、序列の権威には逆らえないでしょう。

>江戸初期に活躍した儒学者、伊藤仁斎を採り上げて、その論を解説していただきました。
>確かに、我々は今でも輸入したものを「日本化」して取り入れてしまうことが得意です。

日本化とは、日本人の勝手な解釈ということではありませんか。取り入れるということは、猿まねになるのかどうかということですね。

>思想においても、そうなのです。
>同じ儒教圏でも中国や朝鮮では、そのような自由な展開は見られないのだそうです。

そうかもしれませんね。我々は言語の習得が苦手ですからね。

>ところで、その講義の中で江戸時代の教育方法についての話がありました。
>私のイメージは、論語などの本を生徒が先生の後について皆で一斉に音読し、記憶しておくというものでした。
>自分の学生時代をダブらせていたのでしょうか。
>実は、商人によってつくられた私塾では、もっと生徒の自発性を基本に教育がなされていたそうです。

そうですか。それは初耳ですね。

>当時の学校は、基本的には儒学を教えていたわけですが、儒学の教育とは、一方通行型ではなく、各自に思考させ教師はヒントを与える役割にしか過ぎないというものでした。

音読・記憶はなかったのですか。ヒントは、小言・片言・独り言のようなものだったのでしょうか。

>実際、論語には以下の記述があります。

>曰(いわ)く、憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。
>悱(ひ)せざれば発(はっ)せず。東京都
>一隅(いちぐう)を挙(あ)げて、三隅(さんぐう)を以(もっ)て反(かえ)さざれば、則(すなわ)ち復(ふたたび)せざるなり。(論語述而より)

>「先師がいわれた。私は、教えを乞う者が、まず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。
>また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。
>むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。
>しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない」(下村湖人現代訳)。

三隅は、自分勝手な解釈になるのですか。

>先生の講義から入るのではなく、まず生徒が独力で考えに考え抜く。

もっぱら教えの解釈ですね。

>それでもわからず苦しみ抜く。>そこでやっと先生が、少しのヒントを与える。>苦しみ抜いていた生徒は、そのわずかのヒントで「一を聞いて十を知る」ことができる。

教えに関する忖度 (推察) が必要ですね。

>そのくらいの段階まで生徒が思考を重ねていなければ、二度とその生徒にヒントを与えることはしない。>つまり、相手にはしないということです。>非常に、生徒個人の自発性に委ねる教育方法と言えるでしょう。

それで、落ちこぼれはいないのでしょうか。

>生徒は先生から知識を教えてもらうという、今一般にイメージされる日本人の教育方法は、明治以降に出来上がったもので、江戸時代以前はこういった教わるのではなく学び取るスタイルが一般的だったようです。

師には権威はなかったのですか。学びとるのには、常にお手本が必要なのですね。

>もしそうだとしたら、江戸時代の私塾で学んだ生徒のレベルは非常に高く、だから明治維新も実現したのかもしれません。

そうですかね。生徒には自己の独自の発想はなかったのですよ。

>では、なぜそのような教育スタイルが失われてしまったのか。4つの仮説があるそうです。

>1)西洋列強に追いつくため、知識吸収スピードを重視したため

追いつけ、追い越せですね。それはわかります。詰め込み主義ですね。

>2)一方的に考えを伝える「演説」が重視されたため

日本人には世界観がありません。ですから議論は苦手です。自分さえ良ければ、、、というところの演説ですね。

>3)「学び」が立身出世のツールとなり、それには知識量が重視されたため

詰め込み主義ですね。詰め込み高によって出世の順位が決まりましたね。序列社会において、一寸法師たちが向上心を満足させましたね。

>4)政府が「思考する」国民を警戒し、弾圧したため

自己の発想というものには、期待がなかったのですね。烏合の衆はそのままでしたね。

>いずれにしろ、この明治のスタイルは今でも、学校教育には色濃く残っています。

そうですね。同感です。師に教えを乞うスタイルですね。

>ただ、実践と成果を重視する企業教育の分野においては、先述の儒学的教育も以前から重視されていますし、その重要性は高まっていると言えるでしょう。

そうですかね。落ちこぼれはいないのですか。残酷物語は無いのですか。

>考えてみれば、職人の世界では明治以降もずっと師匠と弟子の間は「教えない」「自分で盗み取れ」という教育スタイルでした。

以心伝心・不立文字ですね。物に心を込める日本人の技術は国際間の言語障壁を乗り越えて、外国人の心をとらえています。日本製品の評判は良く、我が国は技術立国を経て、経済大国にまでなりました。

>(近頃は、そこでも「教える」ことが時代にあった新しいスタイルだとの意見もありますが、果たしてそうでしょうか?)

教えることは必要ですね。各種のマニュアルが出回っていますね。

>先生が「教える」という教育方法は案外新しいもので、我々日本人に合った教育方法は「考えさせる」の方だという気もします。

日本人は、考えるのは苦手ですね。
日本語は、現実描写のための言語です。和文は、実況放送・現状報告の内容を示します。
現実の内容は、頭の外にあります。しかし、非現実の内容は、頭の中に在ります。両者の所在は違います。
非現実の内容は、頭の中の内容であり、考えの内容を示します。非現実の内容を文章にして示すためには、時制というものが必要です。文法に時制があると、過去・現在・未来の三世界を独立して表現できます。
時制は日本語文法にはなく、英語には有ります。だから、日本人には考えが無く、英米人には考えがあります。
文章が無ければ意味もなく、意味が無ければ矛盾も指摘できません。矛盾を含まない文章は、出しい考えを示しています。
日本人の想いは、文章にならないバラバラな単語で、話にならない。筋が無い。単語は腹の底にたまります。頭の方は、空っぽです。

>きっと他にも、明治の混乱期に出来上がった即席スタイルを、日本古来のものだと誤解し有り難がっているものがあるような気がします。

そうとばかりは、言い切れませんね。日本人は元来考えるのは苦手です。考えようとすると禅問答になります。

>常識や思い込みに囚われないためにも、歴史に学ぶことはまだまだたくさんあるのです。

そうですね。いろいろありますね。



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不立文字

2017-06-14 11:05:36 | 文化
>心身一如(身体で覚える)になるには修業が不可欠なのだろうなーとは思うのですが、ただ、日常的には、身体と向き合うこと、身体を感じること(内なる感覚に耳をすませること、みたいな)という感じではないのかな?と思います。

そうでしょうね。神経を集中する修業が必要でしょうね。

>そうやって感じ取った言葉にならないものを、先人がやっとのことでなんとか表したものが、伝統芸能の「型」だったりするのでしょうね。

そうかもしれませんね。’型’ は非言語ですからね。非言語の技術・芸術に反映されます。

>昨日、身体知に関する勉強会(上智大学大橋教授主宰)に参加しました。とても刺激になりました。
>身体知には、「身体を知ること」と「身体が知ること」の二面があります。私は仕舞の稽古をしながら、毎回「身体を知る」ことに楽しみを感じています。西洋の常識に捕らわれがちな現代人にとって、中世日本人の身体の使い方を知ることで、自分自身の身体を発見することがあります。例えば、いわゆる「ナンバ歩き」は、身体が本来持つ力を感じさせます。

ナンバ歩きは、右手と右足、左手と左足を同時に出して歩く歩きかたですね。

>昨日の勉強会のテーマは後者、「身体が知ること」の方でした。頭ではわからないが、なんとなく体がわかるってことありません?頭で迷った時は、体の声を聞いてそれに従うようにしています。勘といえば勘ですが、その成功率は高い気がします。

>身体が知る「何か」、それを「原事態」と呼びます。問題は、それを言語で表現できないことです。日本人は、元来それを諦めていたようです。「背中で語る」とか「芸は盗め」など、言語を使わず理解することを当たり前としてきました。

心から心へと伝えられるものですね。

>一方、西洋はそこに科学を持ち込み、何らかの言語化をし、再現可能にしてきました。逆に言えば、言語で表現できないものの存在は認めない。

そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではありません。

>日本人も特に戦後は、科学万能主義のもとで、言語化を模索します。その典型がマニュアルです。しかし、マニュアルで表現できるのは原事態を100として、10以下でしょう。
>それでもゼロよりはましです。
>ただ、問題は10を理解して100を理解したと勘違いすることです。
>マニュアルやルール万能主義とはこのことです。

自転車の乗り方を実技なしでマニュアルにより覚えるようなものですね。

>謡を最初に学んだとき、なぜ五線譜で表現してくれないのかと、不満でした。
>先生に尋ねると、謡では西洋音楽のような絶対的な音の高さは決まっておらず人それぞれだ、またたった五線では表現できない、との回答。
>あくまで便宜的に西洋で開発された表記法を、当たり前のように使おうとする自分の愚かさに気づきました。

大変な理解ですね。

>西洋では割り切って五線譜ででも表現するのに対して、日本では言語化できないものは言語では表現しないのです。
>そこには大きな違いがあります。
>では、日本人はどうやって原事態を伝えてきたのか。
>基本は先生による口伝えです。
>もっと本格的には、長い時間を一緒に過ごす(でも教えない)という内弟子というシステムです。
>理屈はいいから、とにかく真似せよ。
>どんな芸能も技術もそうでした。

非言語の成果は計り知れないものがありますね。日本人は、心を物に込める技術を乞っています。心の働きは非言語の成果となる。細工物の仕上りが良い。非言語による日本人の心は国際間の言語障壁を乗り越えて外国人の心に伝えられ、そのセンス (判断) の良さが高い評価を受けています。おかげさまで日本製品は売れて、我が国は技術立国を経て、経済大国にまでなりました。

>禅にも「不立文字」[ふりゅうもんじ] という言葉があります。
>言葉では伝えらないので、師匠が弟子に口伝えで教えるということです。
>言語化を諦めているのです。

そうですね。日本人の精神活動は文章・言説では表現出来ませんね。以心伝心の方法で心から心へと伝えられますね。この方法なら外国語の不得意な日本人も、外国人にしたたかな影響力を及ぼすことが出来ます。
現実の内容は頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。内容を言語化しないと頭の中には入らない。その内容は疾く風化する。

>では、原事態を全く「形」にしないで伝えるのか?
>私は、言語ではないが形にする方法もとっていると考えます。

そうですね。非言語の形式ですね。心を形で伝えます。

>例えば公案。
>禅には公案があります。
>師匠が弟子に対して与える課題です。
>例えば「隻手の声」。
>(両手で打ちあわせば大きな音がなるが、片手ではどんな音がするか?)
>言語ではなく、公案という形の課題を与え、考えさせることで伝えるというアプローチです。

難しいですね。考えさせるが、考えにはならない。考え (非現実の文章内容) とは別次元の精神活動ですね。
矛盾を含まない内容は、すべて正しい考えであります。英米の高等教育は、言語による理解を発展させていますからね。英語を知らなければ、学問はできません。

>もう一つは「型」です。仕舞とは多くの型の組合せでできています。
>型とは非常にシンプルなもので、それを覚えることはそれほど難しいことではありません。
>だから、型さえ覚えれば、私のような素人でもひととおり舞うことはできます。
>しかし、当り前ですが、先生が舞う仕舞とは全く別物です。
>型は正しくても所詮先生の100に対して10以下なのです。
>それを埋めるのは、やはり稽古です。

稽古・稽古ですね。力士の励みの様なものでしょうか。

>思うに、型とは先生の仕舞(原事態)を圧縮したものにしか過ぎず、学ぶ私は圧縮された型の複製を、解凍しなければならないのです。
>その解凍するプロセスが稽古なのです。
>解凍するということは、シンプルな型からどれだけ原事態を想像し再現できるかということでもあります。
>しかもその想像とは、頭によるものでなく身体によるもの。
>言葉にできないものを、頭では理解できないからです。

そうですね。非言語は理屈で理解できないですね。学問ではないが価値が有る。

>言葉にできないものを、わずか10という言語で理解したつもりになってはいけません。
>わずか10なのだと謙虚に認識した上で、100に近づけるよう想像力を身体にはたらかせるのです。

忖度 (推察) を働かすのでしょうね。
非言語に強い日本語と、言語に強い英語を二刀流として使うのが良いと思います。さすれば、我々日本人は ‘鬼に金棒’ の国民になります。



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