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原田浩氏  

2025-07-23 04:17:25 | 文化

47NEWS   >「倒れた人を踏み、炎乗り越えて逃げた」二度と繰り返さぬために広島で被爆した元原爆資料館長の原田浩さん【被爆80年、伝えたいこと()】   47NEWSによるストーリー・   17時間・   

> 広島平和記念資料館(原爆資料館)の元館長原田浩さん(85)は、6歳の時、爆心地から約1.9キロの広島駅で被爆した。   

>熱線で焼けただれ、路上に倒れた人の体を踏んだ足の裏の感触、生きたまま焼かれる人の姿。   

>本当は思い出したくない体験を、核兵器廃絶のため伝えてきた。   

> 被爆50年には館長として、米国で企画された原爆資料の展示に関わった。   

>立ちふさがったのは、原爆投下を正当化する米国世論の「壁」。   

>被爆資料の展示は中止となった。   

>それから30年。   

>米国の原爆観は変わったのか。   

>被爆80年を前に、思いを語ってもらった。   

>(共同通信・玉井晃平)   

> 1945年当時は6歳で、広島駅から歩いて10分ほどの段原(現在の広島市南区)に住んでいた。   

>8月6日の朝、郊外の西条(現在の広島県東広島市)へ疎開しようと、親に連れられて広島駅に向かった。   

>戦争が激化し広島市内もいつまで安全か分からず、食料状況も厳しい。   

>両親は、幼い私の身を戦争から守るため、郊外の祖母宅に預けようとしたのだ。   

>親元を離れての初めての生活は不安で、私は心寂しい思いがしていた。    

> 広島駅に着き、山陽本線のホームで列車を待っていた。   

>予定時刻を過ぎても列車が来ず、待ち続けていた午前8時15分、ものすごい閃光が走った。   

>父がとっさに自分の上に覆いかぶさった。   

>父が背中に大けがを負いながら守ってくれたおかげで、奇跡的に私は大きなけがを受けることはなかった。   

> しばらく気を失っていたが、気が付いてがれきをかきわけ、はい上がった。   

>駅舎はコンクリート造りの強固な建物だったが、外壁だけが残り、天井は抜け落ちていた。   

>湧き上がったきのこ雲で薄暗く、目を凝らして見ると、街は何もかもなくなっていた。   

> しばらくすると、あちこちから火の手が上がり、炎が竜巻のように荒れ狂って襲いかかってきた。   

>父がとっさに判断して、私を引っ張り東の方向に逃げた。   

> その時点では何が起こったのかさえ、全く分からなかった。   

>もし西に向かっていれば爆心地の方面だったので、より強い放射線を浴びていただろう。   

▽多くの人を踏んで逃げた   

> 当時、ほとんどの道は、大八車や自転車がやっとという道幅だった。   

>ただでさえ狭い道が、倒壊した家屋でふさがれて歩けるところがなかった。   

>後ろからどんどん迫ってくる炎から逃げるため、路上で無数に倒れていた生死不明の人たちを踏みながら逃げるしかなかった。   

>  今でも、人の体を踏んだ感触を忘れることはない。   

>やけどで皮膚が溶けていて、踏むと足が内臓の中にのめり込んで、なかなか抜けなかった。   

>こんな悲惨なことは思い出したくない。   

>自分の命を救うため必死だったが、踏まれたせいで亡くなった人がいるかもしれない。   

> ひどいやけどを負い、皮膚が焼けただれて垂れ下がっていた人もいた。   

>炎の中で、倒れた建物の下敷きになり、救い出すことができず、生きたまま焼き殺されていく人々が目の前にいた。   

>逃げるため必死で、助けられなかったのが非常につらい。   

>本当は思い出したくない。   

> こんな悲惨な体験を繰り返さないために、核兵器廃絶の必要性を伝えていくことが使命だ。   

 

そうですね。   

 

> ▽米国で原爆資料の展示を   

> 戦後は、幸い原爆症の症状が出ることはなく、東京の大学を卒業して広島市職員に就職した。   

>1993年から1998年まで広島市の国際平和担当理事を務め、うち1997年までは兼務で原爆資料館長に就いた。   

> 就任時から「被爆体験を語れる最後の館長」と言われていた。   

>それまでの館長には、自らも被爆でけがを負い、体に傷痕がある人もいた。   

>傷が残っていない自分にこんな仕事ができるのか、と重圧を感じた。   

> 「最後の館長」と言われても当時は50代だったのであまりピンと来なかった。   

>しかし、後に続く館長はみな被爆後の生まれとなり、自身の被爆体験を語れたのは私が最後となってしまった。   

> 原爆資料館長になって間もない1993年4月、米国の首都ワシントンにある国立スミソニアン航空宇宙博物館のマーティン・ハーウィット館長(当時)らが自ら広島を訪れ、1995年に企画する「戦後50年展」への被爆資料の貸し出しを要請してきた。

> 就任直後で、戸惑いを覚えつつも対面した。   

>最初、米国側が資料を核兵器の威力を誇示するために使うのではないかと心配し、ハーウィット氏に「本当に原爆投下によってもたらされた悲惨さを知るためには、8月6日に広島に来るべきだ」と伝えた。   

> するとハーウィット氏は実際にその年の原爆の日に家族で広島を再訪し、平和記念式典などに参加した。   

> 私は彼と平和記念公園を回り、身元不明や引き取り手がない遺骨を納める原爆供養塔を案内した。   

>彼は、供養塔の前で開かれている各宗教団体の合同追悼行事に深く感銘を受けていたようだった。   

> ハーウィット氏の「原爆投下で米国は勝利したという栄光の歴史だけでなく、投下によって何が起こったのかを伝える必要がある」という思いを受け止め、私は「広島の願いを理解した展示になるなら貸し出してもいい。   

>そうでなければ断る」と、最終的に条件付きで応じた。   

> ▽原爆は、国民の命救った   

> 企画展は米国内で議論を呼んだ。   

>米国内で退役軍人会を中心に「原爆投下は第二次世界大戦の終結に必要だった」などと正当化する立場から展示に反対された。   

>正当化しないと、自分たちの行為が間違いだったことになり絶対に認められなかったのだろう。   

> そして挙げ句の果てに、米国の上院が展示中止を求める決議を採択した。   

>広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」は「第二次大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った」とする内容だった。   

> 紆余曲折を経て、計画にあった被爆資料や写真の展示は中止され、エノラ・ゲイの復元された機体だけが展示された。   

>米国の栄光の歴史だけが展示され、ハーウィット氏は館長の職を追われたのだ。   

> こうした結果に終わったことは、私はむなしいとしか言いようがない。   

>米国では、原爆投下は戦争の終結を早め、結果的に多くの人命を救ったとする主張があるが、原爆投下がなくても、1945年8月の時点で日本の敗戦は明らかだったと思う。   

>正当化論は間違いだ。   

> 米国の原爆観は変わらず、80年経った現在でも原爆被害は無視されている。    

 

日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」の考え (非現実) の内容を語る人が必要である。

非現実の内容 (考え) は高等教育の成果から得られるものである。   

政治には未来 (非現実) の先取りが必要である。だが、日本人には現実があって、非現実がない。だから、体験談ばかりの日本人は現実にとらわれ過ぎて行き先を見失い政治が迷走する。    

 

> 2023年に公開された原爆を開発した科学者の苦悩を描いた映画「オッペンハイマー」でも、きのこ雲の下の被爆地で実際に何があったかは描かれなかった。   

> 核兵器禁止条約も米国では知らない人が多いといい、関心の薄さがうかがえる。   

>今までわれわれは何をしてきたのかとむなしく思う。   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生   

 

御尤もですね。日本は加害者ですね。しかし、日本人には意思がない。だから、日本人には加害者意識 (罪の意識) がなくて、被害者意識だけがある。わが国は戦犯が存在しなくて戦争犠牲者ばかりのいる特殊な国ですね。     

唯一の被爆国と主張するのは被害者が被害を語る時の否定されることのない固い論拠であるとだけ信じているからでしょうね。   

日本人には罪の意識がないので悪びれた態度がない。だから、遠慮・ためらいもなく核兵器の悲惨さについてばかりを世界中に大声で言うのでしょうね。これは楽ちんな気休めであろうが奇異な態度にも見えますね。

 

>   ×   ×   

> はらだ・ひろし 1939年、広島市生まれ。   

>早稲田大を卒業し、広島市役所に1963年就職。   

>1995年の被爆50年事業や、国際司法裁判所(ICJ)での平岡敬市長(当時)による「核兵器使用は国際法違反だ」との陳述準備に携わった。   

>原爆ドームの世界遺産登録や市の被爆建造物の保存制度制定にも関わり、東日本大震災の被災地と震災遺構の保存を巡り交流している。   

>2024年8月には、原爆の父と呼ばれ、映画で描かれたオッペンハイマー氏の孫と広島で面会した。   

 

米大統領トルーマンは、極め付きの反日、侮日主義者で、原爆投下については、「獣を扱うには、獣にふさわしい方法でやった」と、日本人を獣扱いしていたと言われています。 

‘あいつ [J. ロバート オッペンハイマー] の手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん。’ (ハリー・トルーマン大統領)     

オッペンハイマーは原爆の父であり、トルーマンは原爆投下の張本人である。彼らには加害者意識があり、罪の意識もある。彼らのお陰で多くの日本人が一億総玉砕を免れた。   

 

好きで好きで大好きで死ぬほど好きな戦でも原爆投下にゃ勝てはせぬ、泣いて崩れた敗戦日。わが国は原爆開発において米国に遅れをとった。 

日本人以外のアジア人でアメリカの原爆投下を非難する者はいない。   

「歴史の皮肉の一つは、自国の人々に尊敬された裕仁が1989年に安らかに亡くなった一方、殺戮を終結させた英雄ハリー・トルーマンには今もなお道徳的な汚点がついていることだ。 ロバート・オッペンハイマーにもクレジット (栄誉) が与えられるべきだ。 ピースメーカー(平和をもたらす人)に祝福あれ」  (提供:The National Archives/ロイター/アフロ)    

あくまでも裕仁が自国民に尊敬されるのは日本人の序列メンタリティから得られる得点ですね。これは我が国民の島国根性の根源によるものですね。贔屓の引き倒しでしょうね。 

 

 

 

 

 

 

 

 



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