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河嶌太郎氏  

2024-06-01 10:06:32 | 文化

AERA dot.   >東大文Ⅰは「正念場」か 開成、筑駒、聖光学院 上位を首都圏の難関校が独占した理由【東大合格者高校ランキング】   >河嶌太郎によるストーリー・   >1日・   

> 2024年度になり、大学の高校別合格者の大勢が判明している。   

>中でも最難関大学である東大の科類別の合格者の様相はどうだろうか。   

>今回のランキングでは、文系最高峰と呼ばれる文科Ⅰ類の高校別合格者ランキングを並べた。   

> 文科Ⅰ類は、主に法学部に進学する学生を集めた科類で、言わずとしれた多くの総理大臣や官僚などのエリートが輩出している。   

 

そうですね。日本人序列の最高峰を目指す人たちの集まりですね。   

 

> 全体のランキングは頻出だが、科類別に見ると、どういう傾向が浮かび上がるのか。   

>なお、東大の推薦入試は科類ではなく学部別で合格者を出しているため、本ランキングは一般入試の合格者のみを対象とした。   

> 1位は開成(東京)の19人、2位が筑波大附駒場(東京)の15人、3位が聖光学院(神奈川)の13人と続いた。   

4位は日比谷(東京)の11人。5位が早稲田(東京)、西大和学園(奈良)の10人。7位は桜蔭(東京)、駒場東邦(東京)と灘(兵庫)が9人で並んだ。   

> 上位9校を見ると、5位の西大和学園と7位の灘以外は東京・神奈川の高校が並んだ。   

10位は筑波大附(東京)、渋谷教育学園渋谷(東京)、豊島岡女子学園(東京)、ラ・サール(鹿児島)の8人で、ラ・サール以外はいずれも東京の高校だ。   

> ここまで東京の難関校に偏っている点で考えられる要因が一つある。   

>それは首都圏以外の地域では、地域の高所得者層は医療従事者が多いため、文系の難関大学に進学するキャリアモデルを見いだしにくい点だ。   

>一方一都三県では、文系の職業でも高学歴高所得の大人が身近にいるため、文系の進路選択をしやすい影響も考えられる。   

> 近年では医学部志向の高まりがあるのと対照的に、文科Ⅰ類の人気が低下している。   

 

医学部志向ですね。命あっての物種ですからね。    

 

>かつては自他共に文系の最難関として君臨しており、受験するだけでもセンター試験や共通一次テストで第1段階選抜を突破する必要があった。   

>ところが近年ではない年があり、今年も8年ぶりに第1段階選抜が実施されなかった。   

 

勉強も選抜試験ばかりでは面白くないですね。   

 

> 文科Ⅰ類に入学しても、法学部に進学しない学生も増えてきている。   

 

それは学問の自由ですね。   

 

>背景には東大生の官僚離れが進んでいることや、弁護士などの法曹の人気が低下している点がある。   

 

我が国は政治か優位の世の中になりましたからね。  

 

>そうなると文科Ⅰ類の存在意義も揺らぎかねない。   

>東大の筆頭科類でありながら、正念場を迎えている科類とも言えるだろう。   

 

そうですね。我が国の受験生の励みは学問への励みに繋がらないですからね。常にその存在意義に疑問を感じますね。   

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに言語能力の発達する頃を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

日本語は現実の内容だけを表す言語である。哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実ばかりの言葉 (日本語) を話す人が非現実の内容を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っていては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。それで日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国の有権者はあらかた高等教育の真価を体得していない。だから高等教育の無償化は国民の総意を得ることが難しい。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗し続けているので、何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制の下にある。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。彼等の出世は高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまもなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。これは日本語文法に階称 (hierarchy) がある為である。’上と見るか・下と見るか’ の判断に囚われざるを得ない。 難関出身者が序列社会でどれほど優位に立つているかの話ばかりで持切りである。それで入試地獄が起こる。世界に関する注意力の不足で日本人は井の中の蛙になっている。国際社会で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )   

 

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー   

 

我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応える必要がある。事実の山と木鐸不在だけがあったのではわが国は立つ瀬なし。‘それがどうした’‘それでどうした’の問いに答えが出せない。我々には絶望の未来が待っている。今こそ我が国民の自覚すべき時である。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

>(ライター・河嶌太郎)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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