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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

パントー・フランチェスコ氏  

2024-06-15 18:11:10 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン  >【イタリア人精神科医が指摘】日本人を「孤独に闇」に突き落とす奇妙な文化とは?   >パント―・フランチェスコによるストーリー・   >9時間・   

>なぜ日本人は「他人に迷惑をかけること」を過剰に恐れるのか。   

>そして、なぜ自己感情よりも社会的アイデンティティを重視するのか。   

>心の診察を通じて多くの日本人と向き合ってきたイタリア人精神科医が、日本社会特有の奇妙なコミュニケーションについて問題提起する。   

>本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。   

>「迷惑行為」を過剰に心配する世界的に特殊な日本社会   

> 筆者の私見では、自己記述に「関係性」「状況」を重んじる日本社会は個人的アイデンティティをないがしろにし、社会的アイデンティティを過剰に発生させる環境にある。   

 

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。考え・哲学がなければ個人的アイデンティティも無い。だが、事実があれば社会的アイデンティティはある。        

 

>その傾向ゆえに、パーソナルなコミュニケーションの機会が少なくなってしまう。   

 

そうですね。   

 

> この持論の根拠を、違う角度から説明してみたい。   

> 日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされている。   

 

日本人は序列人間ですから、他人に迷惑をかけることはマイナス点になりますね。   

 

>他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、社会的アイデンティティに偏りやすいと思う。   

>というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自己の感情表現を優先しないからだ。   

>「迷惑をかけたくない」という日本人の気持ちが最もよく表された日本語は「遠慮」だと思う。   

>他者に助けを求める行為、自分の感情をあらわにする行為は必死に避ける。   

>なぜなら、他者に不愉快と思われるのは最上の罪とされているから。   

 

迷惑は避けるべきですね。    

 

> ここでは迷惑をかけることを、相手の気を悪くする行為と定義したい。   

>この相手とは個人の場合もあれば集団の場合もある。   

>別に「迷惑行為」は日本社会に固有なものではないが、自己の感情を犠牲にしてでも懸命に迷惑行為を避けるほどの「迷惑(忌避)文化」は特殊なものかもしれない。   

 

日本人は負債を負いたくないですね。    

 

> 迷惑をかけるのが良くないということ自体は、常識のある人間なら誰だってわかる。   

>自分本位で欲望におぼれ、礼儀作法を忘れ、道徳をないがしろにすれば、どの社会でも戒めを浴びせられることになる。   

>その「罰」をおそれ、人間は常識の範囲を外れた迷惑をかけない。   

> 迷惑を避けることは社会学的なメカニズムである以上に、生き物の共存に必要な生物学的な機序である。   

 

そうですね。迷惑はお互いさまですね。   

 

> とはいえ、どうして日本社会には強力な「迷惑文化」が存在すると主張したいのか。   

>日本社会は迷惑行為によって起こりうる他者への不利益を、過剰に案ずる傾向があるのではないかと思う。   

 

そうですね。日本人の業績は点数の積算方式ですからね。みなさんそのことを忘れない。      

 

>たしかに相手のパーソナルな部分に触れることで、相手が不愉快になる可能性はどうしてもある。   

>しかしながら、それはポジティブな刺激をもたらすかもしれない。   

>他者のパーソナルなスペースに足を踏み入れることで初めて、その人を助けることができるだろう。   

>遠慮は思いやりではなく恐怖から成り立っている?   

 

そうですね。序列順位の低下は一生涯続きますからね。一時の恥が、一生の恥になりますね。         

 

> 相手のパーソナルなスペースに入ることは「侵略」ではあるが、健康的な行為ともいえる(図参照)。   

> ここでの「侵略」とは、迷惑行為になることをおそれず、知らない相手の自己感情を探る能力もしくは「勇気」のことである。   

>物理的にも感情的にも距離を詰めない限り、有意義なコミュニケーションは生まれにくい。

 

侵略は馴れ馴れしい図々しさでしょうね。   

 

> とはいえ無制限に相手のパーソナルなスペースに入っていいわけでもないし、立場と関係性によっては適切な距離を保つ必要があるかもしれない。   

 

親しき仲にも礼儀ありですね。日本人の礼儀は序列作法の励行ですね。      

 

>相手が望んでいないときには「余計なお世話」になってしまうだろう。   

>だから、相手の同意さえあれば自分は助けになるよ、という姿勢でコミュニケーションに臨むのが良いと筆者は考えている。   

> 困っている他者の「心の縄張り」に足を踏み入れる行為は、相手との信頼関係を築くきっかけになることもあれば、相手を不愉快にしてしまうこともある。   

>どちらの帰結もありうるが、必ずしも「お節介」になるばかりではない。   

>日本社会の「迷惑文化」は相手に嫌われたくないばかりに、後者の結果をおそれすぎてはいないだろうか。   

> もしこの仮説が本当であれば、遠慮とは相手に対する純然たる思いやりではなく、己を否定される恐怖から成り立っている。   

 

まさにそれですね。恐怖ですね。      

 

>迷惑をかけたくない、相手に嫌われたくないからパーソナルな部分には立ち入らない。   

>言い換えると、自分の個人的アイデンティティを、自己感情を否定されたくないから、当たり障りのない社会的アイデンティティで無難な会話を選ぶ。   

 

そうですね。日本人の社会は一種の点数社会ですからね。点取り虫が多いですね。          

 

> ちなみに、日本語の「お節介」に該当する英語はない。   

>お節介の概念自体は「meddling」にあたるだろうが、これは直訳すると「過干渉」である。   

>なかなかに興味深い。   

>「showing interest」はときに相手のためになる   

> 筆者が「侵略」という一見ネガティブな言葉で示したいのは、むしろそのポジティブなニュアンスだ。   

>英語でいうと「showing in-terest」(他者に対して興味を示す)が近いだろう。   

>相手の事情に積極的に関わる行為である。   

>それはあくまで、「相手のため」の意味合いが強い。   

>お節介は相手に関わることで不愉快さを与えるリスクに注目するのに対し、showing interestは相手のためになる可能性に注目する。   

> showing interestは家族、友達、恋人などの親しい間柄だけではなく、知らない他者にも可能な行為である。   

>欧米社会と日本社会の人間関係における大きな違いの一つだが、欧米社会は知らない他者に対しても「お節介」ができる。   

>困っている人を見れば、それが知らない人でも、余計なお世話と思われることがあったとしても、相手のパーソナルなところを「侵略」しても大したこととは思われない。   

> 例えば道端にカップルがいて、Aさん(女性)がBさん(男性)の攻撃的な態度に、明らかに困っているとしよう。   

>このとき、ヨーロッパだと赤の他人であっても「大丈夫ですか?」といった確認の声かけぐらいはする。   

>むしろ、そうしないとバッシングされるかもしれない。   

> 短絡的な考察は良くないが、とにかくここで言いたいのは、個人のアイデンティティを表現するポジティブなコミュニケーションのためには、ある程度お互いのパーソナルスペースへの「侵略」が必要だということだ。   

>日本ではこの「侵略」行為のすばらしさがあまり注目されていないと筆者は考えている。   

>それはどうしてだろうか?   

> このような、侵略行為が迷惑やお節介、ひいては自己否定につながるという「恐怖」を「迷惑ノイローゼ」と命名したい。   

>大げさに聞こえるかもしれないが、日本社会のコミュニケーションに対して問題提起したい一人の学者の、挑発を込めた気持ちが含まれていると思ってほしい。   

> 迷惑ノイローゼとは要するに、大したリスクがないのに、自分のせいで他者に不愉快な思いをさせるのではないかと過剰に心配することだ。   

>これのせいで、他者に共感したい、興味を持ちたい、関わりを持ちたい衝動があっても、言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままにしてしまう。   

>対人恐怖症に類似するところがあるかもしれない。   

>対人恐怖症は世界的にも日本の文化依存症候群の一つとして認められ、過剰な不安から他者と関われないことを意味する。   

>「自己感情」よりも優先される「社会的アイデンティティ」   

> 食事会の後、終電を逃した2人の同僚がいる設定で迷惑ノイローゼを例示しよう。   

>先輩のAさんは後輩のBさんに対し「もう電車ないよね、どうやって帰る?   

>私は車だから、よかったら送るよ」と言うが、Bさんは「いえいえ、自分は家が近いから歩いて帰ります。   

>大した距離じゃないし、ちょうど散歩したいし、本当に大丈夫です」と返す。   

>「本当に大丈夫?   

>遠慮しなくていいからね」   

>「ありがとうございます。   

>でも本当に大丈夫ですから」

> 先輩の提案を感謝しつつ断る後輩。   

>ごく普通のやり取りに見える。   

Aさんの提案は思いやりから生まれ、Bさんの断りは礼儀正しさから生まれているように見える。   

 

そうですね。   

 

> Bさんにとって大したことはないのかもしれないが、それでもBさんが車に乗らないのは奇妙なことだ。   

Bさんは徒歩で帰宅する労力よりも、先輩に迷惑をかけることへの心配をより大きな苦労と捉えているのだから。   

Aさんの立場も難しい。   

>提案を押しつけすぎるとお節介と受け取られかねないし、相手が異性だった場合は下心の疑惑が浮かんでくる。   

> このシチュエーションにおいて一番の問題は、両者のやり取りが「自己感情」に基づくものではなく、社会的アイデンティティの押しつけ合いになっていることである。   

> 日本社会的な振る舞いの特徴として、親しい人を「内」とみなして本心、つまり個人的アイデンティティを見せる一方、親しくない人を「外」とみなして、それらを一切見せないところがある。   

 

そうですね。日本人の社会は相対序列の社会ですからね。内外の区別はハッキリしていますね。      

 

>これは極端な二者択一ではないだろうか。   

>このような対人関係のあり方は、同一性を保てない主体を生み出すリスクを抱えている。   

>本音と建前にこうしたスイッチをつけることは、精神を不健全に追い詰めかねない。   

> 心理学において、社会から求められている行為を「社会的期待」(social expectations)というが、社会から求められるふさわしい反応を示さなければならないという葛藤から、社会的アイデンティティしか表出できないAさんとBさんは社会的期待に束縛されているのだ。   

 

そうですね。序列社会の期待される人間像ですね。   

 

> たかが食後の会話から飛躍していると感じるかもしれないが、こうした日常の連続から私たちは社会的期待の罠にかかり、孤独の闇に落ちてしまうのである。   

 

そうですね。それだけにわが国では一族郎党の団結は強いのかもしれませんね。序列協力のお陰でわが国には老舗が多いですね。  

 

 

 

 

 

 



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