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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

岡本一道氏  

2022-12-30 11:09:36 | 文化

>MONEY TIMES   >なぜ日本人は貧乏でもストライキをしないのか 原因は「ある風潮」   >1 時間前   

>長引く新型コロナウイルス禍で経済の先行きが見通しにくい中、物価高の一方で賃上げはなかなか進まないという現状が続いている。   

>労働争議によって「ストライキも辞さない」という強い姿勢をもって、経営者側に待遇改善を迫っても良いはずなのに、日本では「ストライキ」という言葉をほとんど聞かなくなった。   

>なぜなのか。   

 

日本人にはあるべき姿の内容がないからでしようね。   

 

>■労働争議の件数は直近10年間で半減   

>独立行政法人労働政策研究・研修機構のまとめによると、2021年の労働争議件数は297件で、調査を始めた1957年以降の65年間で2番目に低い水準だった。   

>このうち、ストライキやロックアウトなど争議行為を伴う「争議件数」が55件で、総参加人員は38,540人、行為参加人員は7,858人だった。

>調査の元データとなったのは厚生労働省の2021年労働争議統計調査結果。   

>この調査によると、過去に最も少なかったのは2019年の268件で、2020年が303件だった。   

>201718年も300件台であるところから考えると、2021年が特別に少なかったわけではなく、近年は過去最少のレベルで推移していることが分かる。   

>実際、10年前の2011年時の労働争議件数は612件、翌2012年の労働争議件数は596件なので、直近10年間だけで半減している。  

 

これは鎮静化ですかね。   

 

>■労働組合は経営幹部への「登竜門」?   

>日本でストライキが少ない背景には、「労使協調」という名のもと、正面からのぶつかり合いを避ける風潮があるだろう。   

>労働組合の幹部になると、自社の経営幹部と顔を合わせる機会が多い。   

>職場の体面を保つため、場合によっては自分たちを代表して労働組合の幹部になる人物として「デキる人」を選んでしまう。   

>そうした人材は日頃の勤務時から経営幹部による評価が高く、ゆくゆくは経営幹部になることを期待されている。   

>本人もまんざらではないため、経営幹部と衝突することを好まない。   

>労使交渉の場は「上に顔を売る場」「登竜門」のように有名無実化しがちだ。  

 

本人は争いを避けるのが身の上ですね。    

 

>そうなると、本来は労働者、使用者として異なる立場から意見をぶつけ合うはずの場で「なあなあ」の議論がなされる。  

 

人の考えは様々ですからね。お互いに意見をぶつけ合うのは良いことですね。これは西洋人の考え方。  

日本人は考えを停止している。だから無哲学・能天気の状態にある。だから、日本人には実のある議論はできない。 

日本人は議論をすれば喧嘩になります。日本人は喧嘩するために議論をする必要があるのかな。   

‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。これが日本人の日常である。   

 

>経営幹部の顔色を見ながら提案し、経営幹部がそれを受け取って応じるだけという消極的な交渉になるのだ。   

 

形式主義でお茶を濁すのですね。    

 

>近年は高学歴化が進み、多くの社員に出世の道が開かれている。   

>仮に上記のように「自分は一握りのデキる人であって、将来は役員になれる」とまで自覚していなかったとしても、数年後には労働組合の幹部ではなくなるし、「頑張れば、それなりのポジションには上がれるかも知れない」と考えれば、わざわざ経営幹部ににらまれるメリットはない。   

 

出る杭は打たれる。   

 

>こうして、やはり盛り上がりの少ない労使交渉が繰り広げられる。   

 

日本人の文化には儀式があって教義が無い。作法があって内容が無い。       

 

>■「足るを知る」   

>とは言え、今でも春になると、交通機関に「ストライキ実施の可能性」を書いたビラが掲示されることがある。   

>本当に実行されることはまれなので、経営層や組合員に向けた労働組合による「ポーズ」に近い行為とも言えそうだし、組合員たちによる自分の仕事への「責任感」の現れという見方もできそうだ。   

>経営層も労働者も、立場は違えども、広い意味で同じ会社を支えるメンバーだと考えると、仲間意識もないわけでない。   

 

そうですね。日本国は序列制で成り立つ国ですからね。日本人には自己の序列に対する強い帰属意識があります。         

 

>日本では聖徳太子が制定したとされる17条の憲法で用いられた「和を尊ぶ」という精神が行き渡っており、特に仲間内では面と向かって意見を言い合うのを避ける。

 

意見を言うためには喧嘩が必要なのか、喧嘩をするためには意見を言う必要があるのか。    

 

>さらに、中国の思想家・老子の言葉にあった「足るを知る」も、日本では広く知れ渡っている。   >現状あるものに満足して落ち着こう、という意味だ。   

 

不自由を常と思えば不足なし。    

 

>もっとも、これが行き過ぎると「確かに同業他社の給与水準よりは低いけど、生活できないわけじゃない」「休みは多くないけど、一応、子どもと遊ぶ時間はある」という感覚に陥る。   

>すると、身分相応どころか、最低ラインよりも上である自分の状況を無理に肯定し、慰めることになってしまうのではないか。   

 

上と見るか、下と見るかの考え方ですね。要は比較の問題であって、あるべき姿の提案がない。だから、日本人の進歩が滞りがちになる。         

 

>■ストライキがないと、一生待遇は改善されない?   

>ストライキが実行されると、鉄道やバスでの移動ができなくなったり、メーカーが作るはずの物が手元に入ってこなかったりする可能性がある。   

>だから、ストライキがないこと自体は、一消費者、一利用者からすると、好ましいことではある。   

>ただ、国内人口が減少局面に入り、他方で企業活動のグローバル化が進む中、悪い意味で「足るを知って」しまっては、長期的に優秀な人材が海外企業に流れ、また国内に人材が入ってこなくなり、企業の競争力を低下させる要因になる可能性もある。

 

そうですね。これは身内意識の副作用でしょうね。あっけらかんとした世界の中でドライに割り切る習慣が我々日本人には必要ですね。これが起死回生の手段です。           

 

>そこまで大げさなことを言わなくても、例えばバスの運転士の待遇が改善されなければ、長期的には運転士の成り手が減り、やがてバスは運行できなくなる。   

>これだけ経済社会に停滞感、先行き懸念が色濃くある中、本来なら多くの危機感を抱いているはずの労働者が声を上げにくい環境というのは、異常事態とも言える。   

 

そうですね。声を上げにくいのは考えの内容を説明できないからですね。       

 

>労働争議の件数が、単年度ではなく継続して過去最少レベルで推移し、ストライキが減少している状況は、もともとの国民性に加え、労働者が社内での出世などを意識した、内向きで短期的な発想をし過ぎることに起因すると言えそうだ。

 

そうですね。日本人は常に内向き姿勢ですね。内向きの比較ばかりで、あるべき姿の発想がない。だから、わが国には何でも揃っているが、只夢と希望だけがない。        

 

>文・岡本一道(政治経済系ジャーナリスト)   

>国内・海外の有名メディアでのジャーナリスト経験を経て、現在は国内外の政治・経済・社会などさまざまなジャンルで多数の解説記事やコラムを執筆。   

>金融専門メディアへの寄稿やニュースメディアのコンサルティングも手掛ける。   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

 

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

 

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