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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

エリート 3/4  

2021-06-09 21:16:28 | 文化

 

>いち早くアメリカ型のOJT を取り入れたのはやはり競争の激しい民間企業であった。 >戦後は大学の数がふえたこともあって、大卒がめずらしくなくなったこともあるが、民間企業では大卒は別に特別扱いされるようなこともなくなり、東大などを出たからといって特別なエリート教育を施すこともあまりなくなった。 >出身大学や学歴に関係なく、職務において優秀である、と認められたものが出世をするようになった。

 

我が国も実力主義の世の中になったのですね。    

 

>そうでなければ厳しい企業間競争に勝ち残れなくなったのである。> 本来人間の能力というのはペーパー試験では測れない。

 

そうですね。ペーパー試験は序列順位を決めるための単なる方便ですからね。   

 

>ペーパー試験だけで職務において優秀であるかどうかはわからない、ということはおそらく戦前からもわかってはいたのであろうが、国富の乏しい当時の日本にあってはアメリカのようにOJT で悠長に優秀な人物を見つけ出す余裕はなかったのであろう。  

 

我が国は序列国家 (縦社会) ですね。上意下達の習慣がある。縦社会には縦社会としての序列順位の決め方があります。それは同次元 (没個性) の順位争いですね。没個性はわが国の発展の足かせになります。   

 

>最善の策とは思えないが、とにかくペーパー試験を課すことによって優秀であると思われた少数の人物を若い時期からリクルートして乏しい社会資源を彼らに集中してトレーニングするしかなかったものと思われる。  

 

そうですね。我が国は資源小国ですからね。資源不足を補うために人材の活用が期待されますね。しかしながら、わが国には人手不足はあっても、頭脳不足の話しはついぞ聞いたことがない。天下の秀才が多数輩出されたからでしょうね。わが国において頭脳の活用は聞いたことがない。

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)    

新型コロナとの戦いにわが国は勝てるか。   

 

>そのためにペーパー試験には秀でてはいても本来職務能力に乏しい人間がエリート扱いされたり、逆に優秀なる能力を持っているのにたまたま若い時期の試験などに失敗してエリート路線に乗りそこなってあたらその能力を使う機会がなかった者がでるなど、人材のロスは相当あったと思われる。>(一番それが露骨に現れたのが旧陸海軍であろう) 

 

人材のロスはどうして旧陸海軍に露骨に現れるのですかね。   

 

> 戦後になり、日本も豊かになるにつれてアメリカ型のゆとりある人材教育ができるようになった。  

 

我が国のがり勉は無くなったのでしょうか。がり勉はわが国民の処世術ですね。       

 

>また企業間同士の競争、国際競争が激しくなるにつれ、戦前型の人材教育に伴うロスは無視できないようになり、コストをかけてでも真に優秀なる人物を上にあげていかなければ企業もたちゆかなくなったのである。>こうしたことが戦後日本でアメリカ型の人材教育がおこなわれるようになった原因であろう。

 

思考停止と暗記万能の人間にできることは他人の受け売りの専門家になることだけですね。このような状態ではわが国の進歩は期待できませんね。        

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)     

 

>戦前型のエリート教育の残る世界   

> こうして日本でも民間企業は競争に勝ち残るためにアメリカ型の人材教育にシフトしていったが、現在でも戦前型のエリート教育が残っている世界が二つある。 >役人の世界と医療界である。 >ともにコスト意識のあまり働かない世界である。

 

役所も病院も赤字経営ですね。どちらも崩壊しないことを願います。      

 

 

 

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エリート 2/4  

2021-06-09 17:17:54 | 文化

 

>これにはまたアメリカ型のエリートのリクルートの考えが入ってきたことも大きいかもしれない。 >前述したが、アメリカでは基本的には試験などにもとづく若い時期のエリートのリクルートはしない。>あくまでも社会に出てからの実績が勝負である。  

 

そうですね。実績は大切ですね。意思のあるところには方法 (仕方) がある。すると意思の内容が問題になりますね。だから面接 (interview) が大切ですね。             

 

>いい学校を出ようが能力がなければ落ちこぼれるし、能力さえあれば学歴などは関係なくエリートへの階段を上ることも可能である。  

 

いい学校とは序列順位の高い学校のことですね。学校の順位は個人の個性とは関係がないですね。いい学校を当てにしていては没個性の社会になってしまいますね。     

 

>さらにいったん高い社会的地位を得てもうかうかしていれば蹴落とされるし、逆に敗者復活の機会も多い。  

 

そうですね。それは実力主義の社会ですね。   

 

> こうした自由度の高い社会であるアメリカが結局は世界をリードするようになったわけであるから、戦前の日本の極端なエリート教育のありかたが批判されるようになったのもある意味で当然のことかもしれない。

 

そうですね。家畜・社畜ばかりの日本人社会では時代の変化に対応できませんからね。     

 

>また特に昭和に入ってからのエリート軍人によって指導された太平洋戦争が悲惨な結末をむかえたことなどはエリート教育に対する不信感をいっそう高めたといってよかろう。  

 

絶対に負けることのない戦争だと日本人は思い込んでいたのでしょうか。それとも、負けてもやりたい戦争だったのか。 

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)    

 

> しかし戦前の極端なエリート教育がすべて悪かったとは思わない。 >日本全体が貧しく、民度も今よりは低かった当時の日本にあってはやはり若い時期から特別な教育を受けたエリート層の存在は必要であり、彼らの多くはノブレスオブリジェ [noblesse oblige] の精神で日本を引っ張っていったと思う。>(ダメなヤツも多かったかも知れないが)

 

そうであると良いのですがね。日本人には自発性がないですからね。   

 

> たとえば太平洋戦争末期、米軍来襲を控えた沖縄県に、知事として家族を内地に残して死を覚悟で赴任した内務官僚であった島田叡氏などはその典型である。>彼は沖縄県民を守るために東奔西走した後、沖縄戦で殉職したが、「自分は選ばれたエリートである。沖縄県民の護民官たらねばならぬ」という強烈なエリート精神があったからこそあそこまでの働きができたにちがいない。

 

彼は運命論者でしたかね。   

 

>戦後の日本の人材教育   

> 戦後になり、アメリカの自由度の高い社会の効用が知られるようになると戦前型のエリート教育は日本社会から姿を消すようになった。  

 

自由とは意思の自由の事ですね。だが、日本人には意思がありません。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. ところが日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

 

 

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エリート 1/4  

2021-06-09 16:53:41 | 文化

>エリートについて  >マイエッセイのページへ

>エリートのリクルート     

> 明治中期以後、日本では若い時期にエリート層と非エリート層を試験により選別し、早くからそれぞれを分離した職業教育を行い、エリート教育を受けた人間は壮年期には日本の指導者層となっていった。   

 

新しい身分制度ですね。   

 

> 明治維新で階級というものがほぼなくなった日本では親の職業や生まれた地域に関係なく、とにかく試験で高得点を取る能力さえあれば誰でも平等にエリート層に入る道が開けていたのである。   

 

そうですね。ノラクロ (野良犬の黒) にも出世の機会が与えられましたね。   

 

>これは階級組織が歴然として存在し、貴族階級でなければエリートになれなかったヨーロッパや、若いうちからエリート、非エリートを分けず、社会人となってからのOJT ([On-The-Job Training] 職務をしながらトレーニングをすること)の中で次第に頭角をあらわしていった人間を社会の指導者としているアメリカとも異なるエリートのリクルートのやりかたであったといえる。 

 

そうですね。わが国は欧州型でもなく米国型でもありませんでしたね。   

 

> 特に太平洋戦争前の日本社会はこの少数のエリート層と大多数の非エリート層の峻別は現在では考えられないほどにきびしかったらしい。

 

昔の身分制度の再現のようなものですね。上意下達で問答無用ですね。上意は目上の者の恣意 (私意・我儘・身勝手) の事で、何やら危険がいっぱいですね。         

 

>たとえば役人の間ではエリートとその他では入る食堂やトイレでさえ区別があり、同じ役人でも高文(高等文官試験。現在の国家公務員試験Ⅰ種にあたる)合格者とその他では出世のスピードがまったく異なっていた。 >高文合格のエリートは旧内務省などでは40歳そこそこで知事に任命されていた(戦前は県知事は選挙ではなく、任命であった)らしい。 >また役人に限らず、民間企業などでも大卒エリートとその他では入社時点から受ける職業教育などが全く異なり、若い時点でエリート路線に乗らなかった人間は少なくとも大企業や役所という大組織の中では出世というものはまったく望めなかったのである。 > こうしたエリート層とその他の人間のきびしい峻別は当時は特に問題にはならなかったらしい。

 

勝てば官軍’ (Might is right.) ですね。明治政府のようなものですね。            

 

>昔は大学へ入る人自体が珍しかったし、とにかく高文などの難しい試験にさえ通れば家が貧乏だろうとなんだろうと誰にでもエリートになる道は開けていたのであるから、「自分は人よりも一生懸命勉強して高文に通ったのだ。他人より勉強したんだからエリートとして特別扱いを受けてもなんら不自然ではない」との意識がエリートにはあったのだろう。

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがあります。ですから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせません。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられます。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されています。わが国が学歴社会であると褒めていうのも、実は序列社会の言い換えに過ぎないのであります。  

 

>後藤田正晴氏の回顧録などにもそのようなことが書いてある。>庶民もまたエリートに対しては「あの人たちは自分たちとは違う特別な人だから」とのあきらめのような意識があったのだろう。  

 

身分制度の復活のようなものですね。五木の子守歌のようなものであんひとたちぁあよかしゅですね。     

 

>仮に家が本当に貧乏で大学などとても行けない状態であったとしても海軍兵学校や陸軍士官学校などは月謝が無料で生活費までくれたから、カネが一銭もなくともエリート軍人となることも可能であったのである。>(昔の海軍兵学校や陸軍士官学校は現在の東大並みに入学するのが難しかった)

 

序列順位により日本人個人の待遇は簡単に決められましたね。   

 

>エリート教育の功罪     

> こうした戦前の極端なエリート教育は現在では評判が芳しくない。  

 

序列順位を決めるためには学生に没個性の競争をさせなくてはならなりません。しかし、新しい時代を切り開く為には個性的な人物を育てる必要があります。この矛盾がエリート教育の評判を落としたのでしょう。   

 

>戦後は特に社会主義思想などの普及もあり、とにかく平等に、何でも平等に、という考えが強くなった。 

 

そうですね。教育は金太郎飴のような顔をした人間の製造になっていましたね。   

 

 

 

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