>「最近の医学生は学力が低い」と感じる教授もでてくるはずです。>ただ、その責任は大学生にはありません。>むしろ彼らは被害者です。>折角、優秀な頭脳をもって医学部に入ってきているのに、その才能を伸ばしてもらっていないのです。
今の制度では、医学進学課程で医学生は2年間教養をつける程度です。専門課程が半ば保証されていますから教養の勉強にも身が入らない。これが医学生の教養軽視の風潮につながっているようですね。’専門の先生は偉い’。’教養の先生は大したことは無い’ と一人で信じているようです。
>いま、考えるべきは、医学部教育の中味です。 >詰め込み一辺倒ではダメです。
医学部の教授内容ではないのですね。
>座学をやめて、実習で締め上げるのも同様です。
医療は技術 (実学) ですから実習 (実物教育) は必要ですね。
>しっかりした思考力、教養をもち、自分で考えることができる人材を育成しなければなりません。
そうですね。医育機関の学生を学士入学に限る必要がありますね。つまり、医育機関を大学院に格上げすることが解決法になりますね。これなら教養のある学生を入学させることができます。
>そのためには、学生自身の試行錯誤が必要です。>そして、彼らを指導する教員のレベルをあげなければなりません。
教養学部の先生方が医学進学希望者の教養指導に責任を持っていただくと専門課程の教育も順調にるでしょうね。
>医学部に必要なのは入試の改革ではありません。>教育的提供体制の改革です。
偏差値教育は、序列教育の言い換えに過ぎないですね。教育界が偏差値に囚われている限り、個性を伸ばす教育にはなないでしょうね。
必要なものは、学生の個人的な興味ですね。意思の無い日本人は、個人の興味の違いにも関心がない。だから、面接試験がおざなりになり貴重な才能を見逃しています。医育機関を大学院にして学卒を入学させると良いですね。
>ただ、それは一朝一夕にはできないでしょう。
そうですね。国を挙げての学制改革が必要ですね。
>医学進学を希望する若者は、教授の言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考えねばなりません。
そうですね。それは何処の大学生にも言えることですね。しかし、本格的な論文の書き方を習得する必要はどの学生にもありますね。
フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。
日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国内外の社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層大きな貢献が可能になるでしょう。
>以上
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