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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

野党ぎらい

2018-07-13 15:22:04 | 政治

(略)
>「アクティブ・ラーニング」と野党ぎらい >野党があまりに「だらしない」から、野党の支持が低迷しているという説明が見落としていることがある。>野党という存在やそれがそうせざるをえない振舞い方が嫌われているので、野党が何を言っても、何をしても嘲笑されるという連関である。

野党は、庶民の同情が得られないのですね。

>そしてこの「野党ぎらい」はコミュニケーションを過剰に重視する風潮と無関係ではない。>「コミュ力」が高いとされるのは「野党」にならないように振舞うことができる人のことであり、会話の中で地雷を踏むことにビクビクしている人は「野党」の役回りに追い込まれることを全力で避けようとする。

野党にならないように、草木もなびくということでね。

>近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。>基本的には肯定的に捉えてよいだろう。

そうですね。我々は、主体的に学習する必要がありますね。

>しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。

あたりの空気を読む練習ですか。忖度 (推察) は、歌詠みの始まりですね。現実離れは、避けられませんね。

>政党政治のロジックは、皆で仲良く建設的に「会話」することと同じではない。

そうですね。考えの内容は、一人一人で違っていますからね。それぞれの人が建設的です。

>現在の「政治教育」では、「野党」の意義はむしろますます見えにくくなる。

没個性的ですからね。意見なしで野党は見えませんね。

>政治家の感覚が庶民感覚からズレていることを問題にすることも、ときには大切である。

そうですね。日本人には、意思がなくて・恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。だから、政治家に対する注意は必要ですね。

>しかし政治を身近なことに引きつけて「わかりやすく」論じようとするがあまり、自分たちのコミュニケーション・スタイルの基準でしか政治を論じられなくなっているとすれば、それも政党政治を閉塞させる。

そうですね。日本人には世界観 (非現実) がないから、’あるべき姿’ の世界 (非現実) を政治で論ずることは難しいでしょうね。非現実の内容は論ずることができない。非現実の内容は聞いても理解できない。

>「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。

一人一人に哲学が必要ですね。Everyone needs a philosophy. 哲学 (非現実) があれば、時流に流されない。現有の処世術 (現実) に頼れば、時流に流される。だから、哲学の勉強は必要です。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)

>違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。

そうですね。非現実の内容を持たない人には、考えに奥がない。浅薄である。だから、真面目な議論はできない。

>相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。

感情を理性で抑える訓練が議論には必要ですね。

>こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。

大政翼賛会になるのか。この道は、いつか来た道。没個性の禍は、どこまでも我々を追いかけてくる。

>いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。

考えは、個人個人で違っている。没個性の世の中では、この個人主義の前提が成り立っていない。だから、欧米社会の猿真似も成功しない。


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盲目の判断

2018-07-13 11:08:30 | 教育


(略)
>最近、知人の会社の跡取り問題について、話を聞く機会があった。>社長はもう60代の後半で、引退を考えており、跡継ぎを息子にしようと思っているという。

よくある話ですね。

(略)
>そこで、何人かのアドバイザーは、こう聞いたらしい。>「会社をどこかの大手に売却するのが一番良いのでは?」>すると、社長は首を振った。>「会社を売却すれば、我々創業者一族の手元に多くのお金は残るだろう。だが、残された社員はどう思うだろうか。自分たちが売られた、と思う人もいるだろう。」>「それは、会社である以上、仕方ないのでは?」>「私にそれはできない。今の基盤があれば、息子に継がせても会社は10年は持つだろう。「創業者一族だけ逃げた」と思われるより、どうせ私が作った会社なのだから、息子が潰すほうがまだマシだ。
>面白い考え方だ、と思う。>社員たちも社長と同じように考えるかどうかはわからないが、結局の所、この社長は、合理性よりも、利益よりも「義理」「人情」を重んじる人物なのだ。

理性判断 (rational judgment) によらないものは、盲目の判断 (blind judgment) ということになりますね。

>そして、彼はそれを極めることで、今の地位を築いた。>これは美しい話、なのだろう。

極上の話ですね。

(略)
>つまり「社長」は、社員たちの親分なのである。

そうですね。社長は序列社会の頂点に立つものですね。

>親分が自分についてきてくれる子分たちを、どこか別の組織に売るだろうか?まずありえない。>親分はどこまで行っても頼れる親分であり、息子がその後を継げば、子分たちはその息子を全力でサポートし、組織の秩序を保とうとするだろう。>それが義理と人情、というものだ。

序列信仰のようなものですね。親子心中の原理でしょう。

> *
>しかし、「親分」と「子分」で出来上がっている組織や、コミュニティは、必ずしも優しいわけではない。>ときに、義理人情を欠くもの、親分の意向に背くものには、私刑がくだされる。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。世俗の序列判断がなくては、日本語も自由に使えない。人を見損なってはいけないという想いは、脅迫観念にまで達している。

>会社のオキテである経営方針を記憶していなかった、という理由で低評価にあえいだ新人。>成果を残していたにもかかわらず、「生意気で態度が悪いから」という理由で会社を追われた営業マン。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいていますからね。人間の世俗的序列を心得ていなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。

>「やる気を見せなければ」という空気を読んで、必要ない残業をする事務員。

出る釘は打たれる。

>田舎で村八分になる移住者。>組織のトップが「合理性」「客観性」、ときに「法」よりも、「正義」「義理」あるいは「秩序」を重視していたため、不利益を被る人間がいるのもまた、事実である。

序列社会には、序列秩序が必要ですね。序列からはみ出せば、天罰てきめんである。

>作家の橘玲氏は「愛は世界を救う」のではなく「愛」を強調すると、世界はより分断される、と述べる。>原因は「ホルモン」だ。>「オキシトシン」というホルモンは「愛と絆」を育むが、同時に「より身内贔屓になる」という効果がある。>たとえば2つの敵対する集団にオトキシトシンを噴霧して愛情を高めると、かえって対立が激化することがわかっている。>親分が子分に愛情を注げば注ぐほど、あるいは子分が親分に忠義を尽くせば尽くすほど「それ以外の人」には排他的になるのだ。

そうですね。愛情も対立も生理現象ですかね。

>合理性や法律・規範より、共同体と親分のメンツを重んじたために大事になった事例は数知れない。>東芝の粉飾決算、日大のタックル、相撲部屋の不祥事……

浪花節の題材には事欠きませんね。

>上の著者は「忠臣蔵の本質はテロ行為」と断じている。>「恥をかかされたので、殿中で吉良上野介に切りかかかった浅野内匠頭はテロリストである」>「浅野内匠頭の仇討ちをした赤穂浪士たちはテロリストである」>という文には、何も間違いはない。>どんな理由があれ、法の手に解決を委ねず、「私刑」や「復讐」に走るのは、「違法」の一言である。

そうですね。ノー・ミステイクですね。

> *
>翻って、企業の世界で最も強力なのは「義理」や「人情」などといった無駄な考え方を持たない、テクノロジー企業だ。

ドライに割り切る社会ですね。

>彼らの論理は、「親分」「子分」の文脈とは、全く異なる。

そうですね。親分・子分の関係は、世俗の序列関係ですからね。データに基づく判断とは無縁ですね。

>つまり、>「義理人情」より「合理」>「絆」より「能力」>「場の空気」より「法律」>「経験」より「データ」>「感情」より「論理」>「勇気」ではなく「リスクマネジメント」>「親分」ではなく「リーダーシップ」>Google、Facebook、Amazonなどのテクノロジー企業が強いのは、合理的だからだ。

そうですね。理性判断がないと戦争にも敗れますね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、理性判断を喪失した日本人の有様を指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

>当然だ。義理人情に流されず、無駄なものを省いて、徹底してデータを基に成果に突き進むほうが、知識社会、資本主義社会強いに決まっている。>また、そういう会社には「義理人情」よりも「合理性」を重視する人が集まるため、より成功しやすいだろう。

成功への道は拓けていますね。

>だが、徹頭徹尾合理性を貫くと、上で言うところの「普通の人」は強い不満を持つ。

そうですね。我々は、感情的な人間ですからね。理性の教育が必要ですね。

>例えば、ピーター・ドラッカーは著作「マネジメント」の中で「無能なものを忠実さだけで雇っておく慣行は真摯ではない」という企業の考え方に触れている。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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