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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

上下観・無哲学

2018-02-05 15:22:51 | 文化


>1924年にシュタイナーが述べた言葉より >「日本は完全にヨーロッパ文化に支配されました。日本という名は残っていても、まったくヨーロッパ化されました。日本人はヨーロッパからすべてを受け入れ、自らの古い文化は外面にとどまっただけです」

そういうことになりますかね。

>ここで「日本」という言葉はシュタイナーの演説から消えます。その後、中国やインドが繰り返し出てくる中で、日本は一度も出てこなくなります。

中国には孔子、インドには釈迦がいるからでしょう。彼らには万巻の書がある。

>まあ、それでも、ここには、「自らの古い文化は外面にとどまっただけ」とあり、表面的には日本人の暮らしや衣服や食事などの「外面」は生き残っていたこともわかります。

我々日本人には、外面しかありませんからね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>その外面さえも完全に破壊されて、日本が完全に白人支配下に置かれたのは、第二次世界大戦後からということになりそうです。

意地・根性の大和魂は残っていますがね。

>実際、私はずいぶん以前から「もう何も残っていない」とは感じています。

無哲学・能天気では、何も残らないでしょうね。

>・・・オリンピックのメダル、ノーベル賞、英語が話せる、アメリカの大リーグで活躍、欧州のサッカーチームで活躍、西洋的なルックス、白人の映画賞、白人の味覚基準(ミシュランなど)……。ついには、日本の遺跡や名跡でさえ白人観光客の数と評価で決まったりというのが現実です。

自分に基準が無ければ、世俗の上下が基準ということになりますね。どこかで品定めが行われているのでしょう。

>いつからこんなに植民地になってしまったのだろうとは若い時から感じてはいましたけれど、しかし、これらは「口に出して言うと責められるので言ってはいけないこと」になっています。

大昔からでしょう。

>今回はつい書いていますが、実際はこれらは「書いてはいけないこと」です。

我が国のタブーですね。

>ともかく、そういう「ヨーロッパ的(=白人的)価値観」で評価されたものは徹底的に賞賛され、世の中の頂上にまでまつり上げられる。

それが、世俗の上下観というものでしょうね。

>どの日本人もその人たちの前ではひれ伏さなければならないし、まして批判などとんでもない。

恐れ多くも、勿体なくも、畏くも、、、これは、口癖かな。

>テレビでタレントか何かがノーベル賞を受賞した方や、大リーグで大活躍されている方をこき下ろしたらしたらどうなるか。その日のその人の SNS がどうなるか。

モノ言えば、唇寒し秋の風。我々は、ご唱和の世界に住んでしますからね。

>「民主主義は自由な意見が認められている」と言われることがありますが、私は自由な意見が認められるような光景を日本で見たことがないです。

自由とは、自由意思のこと。日本人には意思が無いから、意思はあっても意味が無い。’不自由を常と思えば不足なし’ ということです。
日本人には、考え (非現実) というものがない。非現実の内容は、日本文中では、この世の真っ赤な嘘になる。

>若い時には表現のようなものをやっていましたが、いつでも遠回しにわかりにくくしていました。「自分の意見が伝わらないように」やらないと潰されることが明白だったからです。

我が国では、話にうつつ (現) を抜かしてはいけないと言われています。意見は考え (非現実) であり、うつつを抜かした内容になります。そのようなものが、我々の社会で公言を許されるはずがまりません。

>いずれにしましても、この 100年間くらいの日本の歴史は、そのようなかたちで「白人に褒められること」を目指してやってきたような気にさえなります。

日本人には、自分自身の基準が無い。他から、他人から上と見られることに期待をかけている。自主独立の気風に欠けている。これも、上下観と無哲学による禍か。


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奇妙な形式

2018-02-05 10:34:45 | 教育

>◆大学進学率増大ともに入試問題が奇妙化していった
(略)
>戦後でもまだ最初の頃は、出題形式において、わざと難しくするような、奇を衒っているような、入試の為の入試といった問題形式は、特に広まってはいない。

そうでしょうかね。

>入試の為の入試という形になって、入試問題の奇妙な形式的変化が現れるのは、団塊の世代として、ベビーブームの波によって日本で子供の数が急激に増えてきて、社会は高度成長の波に乗り、大学進学者数が増えてきた段階に生じてきたものである。>受験のための受験という形で、大量の進学希望者を捌くために、出題内容の奇妙な形式的難問化として進行した。

そうでしょうね。

>受験とは、極度に難しくなる、そこだけの、そこだけでしか通用しない近視眼的な知識の世界、その形式的世界を形成していった。

あくまでも上下の差を求める形式ですね。必要悪なのかな。

>入試問題の形式とは、日本人が背負った奇妙な無意識的発明の形式となっていく。

序列メンタリティによる発明ですね。

>◆欧米との違い
>大学の入学試験は、受験志望者の増大によって難易度を高くしてきた。

難易度が高ければ、差がつきやすいですからね。

>日本の大学制度で特徴的なのは、入試の時点でその階級的なランクを殆ど決めてしまうということにある。

日本人にとっては、何よりもランクが大切ですからね。身分格式の世の中への回帰ですね。

>つまり大体18歳から20歳くらいと想定される大学入学の時点で、その後の、労働力商品としての価値を決めてしまう。

日本人の求めているものは、哲学ではなくて、実学 (技術) ですからね。技術者の商品価値には着目していますね。

>最初に価値の指数を決定してしまう。

何事も、見ればわかる世界 (現実) に集約されていますね。考え (非現実) は、見ることが出来ない。だから、日本人には価値が無い。知的財産を考える事は難しい。

>こうして、日本の大学とは、入るのだけがやたら難しく、しかし入ったらもう勉強しなくても、学生の社会評価が特に落ちるということもなく、卒業後の労働市場に出て行くという現象が定着してしまった。

考えが目的になっていないから、学生の社会評価が特に落ちることはありませんね。民は、明盲のようなものか。

>これは大学制度の近代的に発達していた欧米の大学制度とは異なるものであった。>ヨーロッパの伝統的な、長い大学制度に起源をもつ欧米の大学とは、まず入学時点で、そんな難解な入試形式が課せられ、過度の、それだけのための知識競争が行われるというようなことはない。>有り得ない事態である。

あなたは、ヨーロッパの伝統に詳しいですね。歌詠みではなく、考える人の存在が重要ですね。

>欧米の大学では、入学の時点では学生はアバウトに入ってくる。

勉強は、してみなければ分かりませんからね。

>学生の真価として、学生の価値が決まってくるのは、大学に入ってから個人が如何に自分で勉強をしたかということであり、最終的な学生個人の価値とは、その後の本人の努力にかかっている。

そうですね。当然ですね。しかし、日本人には勉強の仕方が分からない。

>故に、欧米の大学では、大学を途中で移動するということは頻繁に行われており、一流大学と呼ばれるような大学であっても、最初からそこの生徒であったということは別に意味を為さない。>いろんな学校の経路でもって、下の段階から様々な通路で卒業資格を目指して、大学を渡ることによってキャリアを積み重ねるという在り方とは、普通のこととして通っている。>日本のように、最初に入った大学でそのまま最終学歴を終える数が殆どだというのとは違う。

日本人は序列形成が人生の目的ですから、移動したら自分たちの序列の外に出てしまいますね。元も子もない。

>◆空虚な受験システム
>入口のところでその後の価値も大体決めてしまうという、形式的排除の方法論において、このシステムは日本の特徴的な性質を決めてきたといえるのだ。

縦社会の伝統ですね。相撲界の枠組みの様なものですね。自由な参入は考えられていない。

>日本の大学受験形式が、そこでは受験独特の受験の為の受験といった複雑怪奇な問題形式を、形式主義的に生み出し、しかもこの奇妙で非合理的な形式主義は、人間の形式的排除の方法として、入口だけがやたらに難関で、しかし中に入ったら中味はほぼ空虚という、キャリアの通過の方法を編み出したのだ。

考える人を育成するのでなければ、大学は形式主義に陥りますね。日本人は内容を考えるよりも、形式を考える方が得意ですね。

>最初の時点で、個人における大枠の価値付けを決めてしまう。

そうですね。没個性的ですね。自由な参入が無ければ、安心できますね。お変りが無ければ、天下泰平です。

>この形式的難関だけがそこには口を開いているのであって、中に入っての出来事とは、ほぼ空虚である。

形式的難関もなければ、すべてが空虚になってしまいますからね。

>やってもやらなくても卒業資格の価値においては殆ど関係ない、意味を為さないという、体制である。

意味を求めているのではなく、体制の方を求めているのでしょう。無哲学・能天気ですから空しいですね。

>しかしこの形式的空虚の体制を実現してきたという意味で、それはとても日本的に特徴的な、独特の社会システムとなり、機能していたのだ。

世俗の上下というものは、そうしたものでしょうね。憂世は浮世ですね。それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。


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