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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

何故弱い

2017-09-06 20:29:41 | 日本語脳
>日本のITは何故弱いのか >知り合いから紹介されて、「あるソフトウェア工学者の失敗、日本のITは何故弱いか」という論文を読みました。>京都大学の林普博士が書いた文章です。>数学からITの世界に入り、関数型プログラムの自動生成の方法などを研究していた方ですが、最後には「日本のITが世界で通じない理由は、技術的・産業的なものではなく、社会的・文化的なものである」と結論づけている点は素晴らしいのですが、ではその違いがどこにあるのか、というもっとも大切な部分に踏み込んでいないため、消化不良を起こしてしまいます。>そこで、補足として、私なりのその社会的・文化的な違いを列挙してみたいと思います。

よろしくお願いいたします。

>1. 意思決定プロセス
>日米の企業を比較した時に、もっとも違いが際立つのが「意思決定のプロセス」です。

そうでしょうね。
日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。我が国には、自分の意思を示す者もなく、相手に意思を問うものもない。だから、能動的な ‘決める’ がなくて、受動的な ‘決まる’ だけがある。

>ソフトバンクやファーストリテイリングのように、創業者が元気な会社を別にすると、日本のほとんどの大企業は、「サラリーマン経営者(創業者でも大株主でもない、雇われ経営者)」が経営しています。>彼らがとても重視するのは、社内のコンセンサスであり、さらにそのコンセンサスに到るまでのプロセスです。

コンセンサス・デモクラシーですかね。日本人の場合は、意思決定ではなくて、恣意決定ですね。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章にならないから、意味もなく矛盾も指摘できません。だから、失敗しても、説明責任はとれません。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>責任の所在が明確になるトップダウンでの決定(=鶴の一声)を極端に嫌い、市場調査や競合製品との比較をベースにした、「データに基づいた意思決定プロセス」を好むのです。

意思の無いところには、責任は有りませんからね。丁度、人は死んでも死刑執行人が殺人罪に問われないようなものです。彼らには、殺意というものが無いのです。だから、彼らに罪はない。

>米国の企業でも、市場調査はしますが、それは経営者が決定を降すための材料でありません。>データから自動的に「すべき決断」が導き出されることはほとんど無く、結局は、経営者が責任をとって「えいやっ!」と決断を下すしかないのです。

そうですね。意思のあるところに方法は有りますね。(Where there’s a will, there’s a way). 人々は、それを待ち望んでいます。

>優秀な経営者とそうでない経営者の差は、その決断のスピードと説得力の違いとして現れます。

そうですね。トランプ大統領の場合はどうですかね。

>不十分なデータしかない中で、素早く意思決定をし、かつ、その決断に基づいて社員全員が一丸となって働くために必要な「説得力」(有名なのは、Steve Jobs の「現実歪曲空間」とまで呼ばれた説得力)を持つ人が素晴らしいリーダーなのです。

そうですね。東条英機の場合はどうですかね。皆が一億一心で働いた。

>日本の、特にサラリーマン経営者が経営する大企業の場合、意思決定までの過程に膨大な時間が費やされます。>調査や資料作りもそうですが、大勢の人が出席する長時間の会議が数多く開かれます。

意思決定は、決めるのではなくて、決まるのでしょう。

>多くの場合、経営者の心の中では早い時点で方向性は決まっているのですが、それを全員に納得してもらうための、そして、その決定はトップの独断では無くデータに基づいたものだ、と言う「エビデンス作り」に膨大な時間とエネルギーが費やされるのです。

意思のない人は、優柔不断・意志薄弱に見えます。意思の無いところには、方法もありませんから、無為無策でいれば座して死を待つばかりです。

>ちなみに、今でも強烈な印象が残っているのが、菅直人総理による「脱原発」宣言です。>福島第一での過酷事故のあと、国のリーダーとして、(欧米であれば当然のごとく)「脱原発で行く」と言うトップダウン型の意思決定をしたのですが、日本で必要とされる、根回しやエビデンス作りを一切せずに行ったため、霞ヶ関の官僚たちからは完全に無視されてしまったし、民主党の中ですらうやむやにされてしまったのです。

菅直人総理の意思を金科玉条とは思っていないのでしょうね。それだけ、我が国の総理には国民から期待されることが少ないということになるのかな。

>「エビデンスありき」「責任の所在の曖昧な」の意思決定プロセスを採用していると、脱原発(日本政府)や、パソコン事業からの撤退(ソニー)、原発事業の損失の一括償却(東芝)などの「痛みを伴う意思決定」にやたらと時間がかかるようになります。

日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見えます。無能に見えます。

>また、まだ世の中に存在しない、ニーズすらはっきりと見えない新製品に投資することが難しくなり、「Windowsパソコン」や「Android ケータイ」のような、ライバルとの横並び製品ばかり作るようになってしまいます。

横並びの競争には、創造力がいりませんから、参入しやすいですね。でも、それだけに過酷な競争がつきものです。

>米国という「追いつき、追い越せ」という明確なターゲットがあった高度成長期には、そんな意思決定プロセスでも十分に世界で通用したのですが、バブル崩壊後は、それではすっかり通用しなくなっています。

模倣 (現実の内容) と創造 (非現実の内容) では、頭の使い方が違いますからね。

>未だにそんな悪習を続けているのが日本の大企業なのです。

言語が、我々の考え方を規定しています。言語の問題は、おいそれと変えられませんからね。
> ****************************

http://www.mag2.com/p/news/262075


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頭の活用

2017-09-06 14:41:44 | 政治
http://pret.yakan-hiko.com/2017/08/31/yamamoto_170831/

>先日、ブルームバーグで日本の地方経済の現実を端的に表す記事が掲載されていて、「ああ、これか」と膝を打ちました。
>もちろん、地方経済が人口減少で身動きが取れなくなっている、という本筋は同意するほかありません。
>日本一豊かなホタテの村も人手不足で四苦八苦、オホーツク沿岸の猿払
>しかしながら、この記事には「最低賃金では日本人の若い労働者が来ない」ので外国人実習生などに頼らざるを得ない、高齢者はこの先何年いられるか分からないという流れになっています。

同じ仕事の失敗の繰り返しに未来はない。自爆攻撃に次ぐ自爆攻撃、玉砕戦法に次ぐ玉砕戦法の様なものか。’頑張って!’ の一つ覚えでは、助からない。

>実のところ、私がほんのり福島県の復興のお手伝いをしているときに、地方の産業に貸し付けている金融機関の諸情報を拝見する機会があり、ほぼ相似形の問題を起こしていたのがこの「奴隷労働」問題です。

この国には何でもあるが、ただ夢と希望が無い。だから、人間は奴隷になります。

>もちろん、使用者側は適法な賃金で労働者を雇うわけですから、本件北海道の事案も復興途上の福島も決して悪い話でもまずいことでもないのです。
>経営判断として、必要な労働力を入れてくるにあたって、最低賃金でも働き口を求めて人がやってくるのであれば、そんなに給料を上げないという選択肢もあるでしょう。
>しかしながら、地方経済においてはいずれも事業継承ですらも満足に進められないぐらい、人材不足、後継者不足の状態です。

我が国には、人材不足の話はあるが、頭脳不足の話はありませんね。頭の活用が切り札になります。

>経営を続けられるだけのオーナーシップが存続できない以上は、身動きが取れなくなるのは当たり前のことです。>身売りしたくても先がなく、継がせたくても継ぐ人がいない経営者は孤独です。

そうですね。経営者にも、未来社会へ移行する発想が必要ですね。

>もしも、本当の意味で仕事を継続していきたいと企業努力を払うならば、常識的には最低賃金にこだわらず、雇用のために給料を引き上げたり、職場を魅力的なものにするために投資をしたり、地域の活性化のために利益を放出して人が働きやすいように、定着するように、未来が見えるように経営することが求められます。

そうですね。未来社会に関する構想が欠けていますね。新しい企業には頭が必要です。小国オランダは、米国に次ぐ世界第二の農産物の輸出国になりました。(See NATIONAL GEOGRAPHIC, SEPTEMBER 2017 p.82-109)

>地方経済の現実は人口減少で労働力が足りないことそのものよりも、働く人がより良く働ける仕組みを構築するための知恵がないことのほうが多いのが現実なのです。

そうですね。あるべき姿の社会に関する考察が必要ですね。

>「なんてひどい話なんだ」と肩をすくめるのは簡単ですが、問題はそういう地方経済の劣化の上に、我が国の都市生活が成り立っているという現状をどう判断するかです。

地産地消になるのかな。

>私が感じるのは、日本には「社会に生きる人を幸せにする技術を欠いている」のではないかという問題意識です。

明らかに、欠いていますね。日本人には世界観 (非現実) が無い。もっと良い世界の内容を個人的に発想する力がない。
発想は実現しない。発想には、正しい (矛盾のない) 考えと、正しい (忖度のない) 理解が必要です。矛盾のない考えは、すべて正しい。それぞれの個人の考えを護るために、個人主義が必要です。

>なぜもっと、よりよい社会にするために何が必要であるかを考えないのでしょう。

無哲学・能天気な人間には、未来社会に関する構想を発展させることは無理でしょう。英米流の高等教育が必要です。

>そこにあるのは、地方経済の担い手が高齢化していることそのものではなく、むしろ「自分たちの時代は、やりたいこともできないなか、我慢して努力してここまでやってきた」という自負の問題です。

自己の経験に自信がありますね。天下泰平の夢に裏切られることが無ければ良いのですがね。

>つまり、俺も苦労をしたから若い奴らも苦労をするべきだという考えが、どうも日本社会、とりわけ問題を抱えた地方経済のリーダーに多いように見えるのです。

悪平等の習慣ですね。これでは進歩が無い。

>おそらくは、人口も増えて右肩上がりであった時代の経済で生き残った人の知恵が、高齢化と人口減少社会にはマイナスの効果しか及ぼさなくなっていることに気づくことが無い、気づく機会も無いまま十年、二十年と経営を続けてしまい、いざ安い給料で働いてくれる若い人が身の回りにいなくなってみて初めて嘆いているのが現状だとするならば、日本にとってはまことに不幸なことだと強く感じるわけであります。

そうですね。まことに不幸ですね。脱出の努力を致しましょう。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)



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