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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

戦時下の宰相  

2025-08-25 23:14:31 | 文化

MANTANWEB   >映像の世紀バタフライエフェクト: 「シリーズ昭和百年」1回目25日は戦争に突き進んだ宰相たちの決断を振り返る    >MANTAN Incによるストーリー・   >10時間   

> NHK総合の「映像の世紀バタフライエフェクト」(月曜午後10時)は825日、「シリーズ昭和百年」(3回シリーズ)の第1回「戦時下の宰相たち」を放送する。   

>平和から一転、国を挙げ戦争へ突き進んだ激動の昭和初期。   

>軍の圧力と国民の熱狂に抗しきれなかった宰相たちの葛藤と決断を振り返る。   

 

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)     

意思の無い人間には責任が無い。日本人は意思がないので責任者捜しに苦労する。    

たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

兎角この世は無責任。   

 

> 昭和初期、不況に苦しんでいた日本の状況を打破したのは、満州国建国だった。   

>軍需と輸出の拡大とともに、失業率は改善され、国民は戦争がもたらす好景気を実感する。   

>中国との戦争に歓喜し、さらにアメリカとの戦争を求めていく。   

 

好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 

残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。めでたし、めでたし。    

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。

人の命はどのように考えられていたのか。‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。 

 

>新聞も連日勇ましい記事で、国民をあおった。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)            

 

>近衛文麿は、外交で対米戦争を避けようと手を尽くすが挫折。   

 

日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。‘以心伝心・阿吽の呼吸・つうかあの仲’といったところか。     

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」    

 

>後継となった東条英機も対米交渉を続けるが、国民の熱狂を抑えきれなくなり、ついに開戦を決断する。   

 

我が国は権威主義国でありながら国民を黙らせることはできなかったのだろうか。

日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人間を信頼する人はいない。信無くば立たず。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)    

 

>語りは伊東敏恵アナウンサー。   

 

国民は騙された。騙したのは誰か。狐を放置したのは誰か。     

 

 

 

 

 

 

 


森正孝氏  

2025-08-25 13:16:27 | 文化

>新華社通信   >「歴史の欠如は悲劇招く」日本の学者 731部隊跡地で平和訴え   >新華社によるストーリー・   >8時間・   

> 【新華社ハルビン824日】静岡大元講師で第2次世界大戦時の日本軍の731部隊や細菌戦の問題を研究する森正孝氏がこのほど、訪問団20人とともに中国黒竜江省ハルビン市平房区の侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館を訪れた。   

> 訪問団は歴史教師やドキュメンタリー監督、反戦市民団体メンバーなどからなり、歴史を自らの目で確かめ、行動を通じて日本社会に平和を求める声を届けるため、海を越えてハルビンに赴いた。   

> 陳列館は、日本の軍国主義が犯した罪を史料や映像、実物を通じ、さまざまな角度から展示している。   

>「これは私が撮影した」。   

>陳列館で放映されている元隊員の証言映像は、森氏が撮影したものだという。   

>陳列館との関わりは1985年の同館設立にさかのぼるといい、より多くの日本人に歴史と正しく向き合ってもらうために731部隊を研究していると話した。   

> 訪問団は731部隊跡地の中心エリアも見学した。   

>かつての細菌戦の指揮中枢であり、本部棟は今も残るが、背後にあった「口」字型の実験棟は既に残骸となっている。   

>金成民(きん・せいみん)館長は、陳列館は後世の人に歴史を感じてもらい、血と涙の記憶を風化させないために部隊跡地の保護を最重要任務の一つとしていると説明した。   

> 森氏はその後の座談会で、歴史教師として中国各地を訪ねて生存者の聞き取りを行っただけでなく、危険を覚悟で元隊員の家を訪問し、カメラの前で過去の残虐行為を語るよう彼らを説得してきたと、自らの40年以上にわたる「闘い」を振り返った。   

> 森氏は、戦争犯罪に向き合うために日本政府がなすべきことは、侵略戦争を歴史の事実として教科書に明確に記すことだと強調。   

 

日本人は供養すれども学習なしですからね。   

日本人には意思がない。意思のない人間には加害者意識がない。罪の意識もない。原因の対する探究心もない。だから、学習にならない。過ちに歯止めがかからない。だから過ちを繰り返す。          

 

>それができなければ、若者は学校教育で歴史を知ることができず、歴史の欠如は悲劇の再来を招きかねない」と述べた。   

 

それはわが国における教育の貧困ですね。   

 

> 上海交通大学戦争裁判・世界平和研究院の楊彦君(よう・げんくん)研究員は、森氏と訪問団の来訪は日本の民間に揺るぎない反戦・平和の声が今も存在していることを改めて証明したと指摘。   

>この声は中日両国の人々の友好の基礎であり、地域、さらには世界の平和を守る重要な礎石でもあると語った。   

>(記者/楊思琪)   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明をうやむやにはできない様な心構えになる。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている。大型の子供たちである。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。    

 

 

 

 

 

 

 


学歴重視  

2025-08-25 02:38:58 | 文化

>キャリコネニュース   >母は東大、姉は京大… 家族が優秀すぎる専門学生の悩み「学歴が重視される事に気づき…」に寄せられた賛否の声   >キャリコネニュースの意見・   >19時間・   

>自分の家族や親戚の経歴が輝かしいと、誇らしい気持ちになる一方、かえってプレッシャーを感じてしまうこともあるようだ。   

>お悩み解決掲示板に7月下旬、「父は立命館、母は東大、姉は京大 を卒業しているのですが、私は、違います」という、痛切な書き出しのスレッドが立ち注目を集めた。   

>スレ主は現在、看護専門学校の2年生。   

>高校までの成績は悪くなかったものの、「人を大切にする」という自分の身上から看護師を目指したという。   

(以下引用)   

>「ですが最近、現実はそんなもの意味がなく、学歴が重視される事に気づき、高校の時、努力し家族と対等になれる大学を目指さなかった事をとても悔やんでいます」   

 

それは序列社会に生きる序列人間の苦しみですね。   

外国はため口社会ですからね。[ため口: 相手と対等の立場でものをいうこと]   

差別はあっても、一対一の差別ではない。   

我が国の国民も政治家も差別解消に力を入れるべきですね。   

この国民病は一朝一夕には解消しませんね。我々のたゆまぬ努力が必要です。      

 

(以上引用)   

>こう意気消沈し、このまま夢を追いかけるべきか、「家族に恥じることのないよう、今からでも大学を目指すのが良いのでしょうか」と問いかけている。(文:篠原みつき)   

>「社会に出たら学歴はあまり意味ありません」 と応援の声   

>ちなみに、スレ主の家族は学歴至上主義という訳ではないらしく、「好きな事をすれば良い」と現在の進路を心から応援してくれているようだ。   

>しかしスレ主は、「看護師は、立派な仕事です」と理解しつつも、「ただ、家族に比べ私は何も持っていません」と、コンプレックスを募らせている。   

>この切実な悩みに、コメント欄には応援や現実的なアドバイスなど、様々な角度からのコメントが入った。   

>まず目立ったのは、「学歴なんて関係ない」という励ましの声だ。   

(以下引用)   

>「親族がどこの大学だとか関係ないでしょ?好きな道を歩ませて貰えた事が幸せだよ」   

>「手に職って、やっぱりいつの時代でも強いよ」   

>「社会に出たら学歴はあまり意味ありません。(中略)夢を持っているだけで素晴らしいです。応援してます」    

(以上引用)   

>専門職である看護師の強みを挙げ、スレ主のそもそもの選択を肯定する意見が多く見られた。   

>「同じ仕事して給料違う」というリアルな声も   

>一方で、より現実的な視点からの指摘も少なくない。   

(以下引用)   

>「どうせなら大卒の看護師目指せばよかったのに」   

>「看護師も結局学歴です。   

>なるなら看護大学の方が良かったと思います。   

>同じ仕事して給料違うんですよ。   

>馬鹿みたいです」   

(以上引用)   

>特に、現役看護師だという人からのコメントは生々しい。   

>給与や待遇面で大卒との差が現実に存在することを指摘し、「もし、ご自身が結婚願望や子供を持つ事を考えているなら尚更保健師の資格の方がいいです」と、将来を見据えた具体的なアドバイスを送っている。   

>一方で、「大学行き直すなんて金と時間の無駄でしょう」という指摘もあった。   

(以下引用)   

>「学歴によって待遇に差があるとしても、これから4年間学費払うのと給料貰うんじゃ倍違うよ」   

(以上引用)   

>確かに今から専門学校を辞めて大学に入り直すのは費用も時間もかかる。   

>スレ主が最も悩める点もそこだろう。   

>しかし、現実的には看護専門学校を修了してから看護学部のある大学に3年生から編入することが可能だ。   

>大学では、専門学校では取得できない保健師や助産師になるための教育課程も履修することができる。   

>スレ主がそこまで大卒にコンプレックスを持ってしまうようなら、大学への編入は後悔のない選択肢の一つになるのではないだろうか。   

>いずれにしてもスレ主は、看護師を目指す気持ちは変わらず、「中途半端な人生を歩みたくないので、もう一度自分できちんと考えます」と様々なアドバイスに感謝していた。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)             

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。    

 

 

 

 

 


語り継ぎ  

2025-08-25 01:18:36 | 文化

>女性自身   >「戦中戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」の一節が加えられ両陛下 戦没者追悼式で見せられた平和への願い   >女性自身によるストーリー・   >13時間  

>日差しが強く暑い一日となった815日、日本武道館で開催された全国戦没者追悼式に出席された天皇陛下と雅子さま。   

>終戦から80年となる今年の追悼式には全国から遺族の代表などが参列し、およそ310万人の戦没者を慰霊した。   

 

供養すれども学習なし。   

謝罪するためには被害の調査が必要になる。日本人には罪の意識がないから、そのような掘り下げた調査をする真摯な意気込みがない。そこで、供養はすれども謝罪なし。       

 ‘唯一の被爆国・ノーベル平和賞受賞’だけをお題目として語れば ‘日本が・日本が’ と日本の被害だけを叫ぶことができる。南京大虐殺、731部隊、毒ガス戦、慰安婦などの調査はしなくて済む。人類の敵はわが国にはいない。   

根本的な再発防止策も望み薄である。そこで無能を露出する。過ちは繰り返しませぬからだけでは、過ちは避けられない。      

 

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

 

>追悼式は天皇陛下と雅子さまが壇上に着席されて始まった。   

>石破茂首相の式辞の後に、天皇皇后両陛下が全国戦没者之霊と書かれた白木の標柱の前に進み並ばれた。   

>正午の時報とともに戦没者の霊に黙祷を捧げられた。   

 

日本人の文化には形式があって内容がない。儀式があって教義がない。      

 

>注目された陛下のおことばには「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」と、これまでになかった一節が加えられ、「私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」と述べられた。   

 

日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」の考え (非現実) の内容を語る人が必要である。   

 

>このおことばを愛子さまもお心に刻み、守っていかれることだろう。   

 

愛子さまも苦難の語り部となられるか。   

高橋史朗氏 (1950- )は米国の戦後の日本占領政策について、米国が「日本が二度と立ち上がれないような政策」を行ったとしており、それがその後の日本人の「自虐意識」を育てることになったと主張している。  

意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、罪を知らない人たちの立ち上がりは恐ろしい。

‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。わが国からは戦争犯罪人は一人も出していません。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従ってわが国の全ての宗教は罪と距離をおいたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。日本人には贖罪の必要がないのです。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 


堀井憲一郎氏  

2025-08-24 05:13:04 | 文化

>現代ビジネス   >「スポーツではなく奇妙な祭祀」国民的イベント「甲子園」が持つ異様なまでの伝統と求心力   >堀井憲一郎 (コラムニスト) の意見・   >16時間・   

>高校野球は「何」を必死で守っているのか   

>高校野球は、なかなか変わらない。   

>どこか、必死で変わらないようにしているように見える。   

>夏の風物詩として眺めているが、あらためてみるとけっこう奇妙な存在である。   

>今年も夏の甲子園大会が開かれているが、今年の試合をモノクロにして、昔の映像です、と流されても、気がつかないようにおもう。   

>もしくは30年前の試合を今日の結果ですと見せられても納得しそうである。    

>ヘルメットとか、捕手の防具とか細かいものは変わっているが、それを避けてうまく編集したら、わからないだろう。   

>髪型がいまどきの若者ではない選手が多く、ユニフォームもあまり変わっていない   

>古風なものを守り続けている。

>なぜ昔のものを守っているのですか、と聞いてみれば、たぶん「伝統なので」と答えてくれそうである。   

>伝統を守るとはどういうことなのだろうか。   

>高校野球は何を必死で守っているのだろうか。   

 

そうですね。思考を停止しているからそれしかない。   

 

>「伝統を守る」ひとつの理由   

>伝統を守っているものはひとつには「その発祥を忘れないため」ということがある。   

>コトの始まりを長く伝えるため、発祥当時のものを変えないで伝えていく。    

>何年前のできごとであっても、そのコトを時を超えて運んでいくために変えない。   

>それが「伝統を守る」ひとつの理由である。   

>お祭りはそうである。    

>祭が発祥した当時のスタイルを守って、そのまま続ける。    

>二百年、五百年を超えていまに続く「お祭り」はみな、いまどきではない衣装を纏い、いまどきではないご神体を護ったものを担ぎ、そのあたりを歩く。   

>お祭りを執り行う人たちは、古いスタイルと、古いものを守るのが大事だとおもっているし、まわりの人も信じている。   

>高校野球スタイルはそれに似ている。   

>日本での野球の発祥(伝来)は明治時代、中等学校野球としていまの高校野球大会が始まったのは大正初期。   

>そのころのスタイルを守って、大正時代の球児に恥ずかしくないように、そのスタイルを守っているようにも見える。   

>それはそれでいいとおもう。   

>でも同時に、なんで、ともおもう。   

 

日本人の文化には形式があって内容がない。内容がないだけそれだけ強く形式にはこだわることになる。   

 

>我が国の「野球」の歴史   

>職業野球は、つまりプロ野球はまったくスタイルが違う。   

>ユニフォームが派手だし、髪型も派手だし、髭もたくさん生やかしている。   

>攻守交代のときなどの動きはあまりキビキビしていない。(キビキビ選手もいますが)。    

>それとの区別をつけたい、という意識はあるかもしれない。   

>ちなみに我が国の「野球」は、アマチュア野球が先に広がり、プロ野球ははるかに後輩である。   

>職業野球が定着したのが昭和になってから、リーグ戦を始めたのは昭和11年からである。   

>明治時代に始まった大学野球や、大正に入ってすぐ始めた高校(旧制中学)野球大会がにくらべてずっと遅い。   

>しかも最初は大学野球のほうがはるかに人気が高かった。   

>昭和の中ごろまでは、おそらくアマ野球は、職業野球を新参ものなんだからという気分で見ていたようにおもう。   

>だが、大東亜戦争として始まって負けて太平洋戦争と呼称される戦争のあとは、プロ野球に人気が集まりだし、長島茂雄(長嶋ではなく長島)の出現後は、プロのほうがアマ野球の人気を凌駕する。   

>そのおり、プロ側が規定を守らず、自分たちの利益を優先してアマ球団から勝手に選手を引き抜いた。   

>アマ野球界は激怒した。   

>そしてプロ球界と断絶した。   

>発端はたしかにプロが悪い。    

>でもそれを数十年を超えて断絶しつづけるアマの態度もあまり大人とは言えない。   

>昭和時代後半の断裂は酷かった。   

>徐々に回復してはきたが、でも野球界全体でひとつにまとまっている、というのにはほど遠い。   

>野球だけが完全に特別扱い   

>もともと高校野球精神はその断裂とは関係ない。   

>断裂以前にも「溌剌とした高校野球」は展開されてプロ野球とは別の人気であった。   

>でもその歪な断裂が続き、アマであるかぎりはプロと接触しないようにという指令が広く行き渡り、高校野球界の基調に染みこんだとおもわれる。   

>高校生はプロ選手のようには振る舞わないように、言葉にはしないが、そういう雰囲気がずっとある。   

>高校野球は高校生の部活でしかない。   

>その全国大会である。   

>部活の数だけ(競技部の数だけ)こういう大会は開かれているわけで、野球だけが完全に特別扱いである。   

>全国大会は全試合完全中継されるし、地方大会も場所によってはローカル局で中継される。   

>かなり異様である。   

>いまのところは許容されている。   

>「多くの日本人が楽しむイベント」と見られているわけだ。   

>夏の甲子園での全国大会が開かれているのは、8月上旬から20日すぎでお盆休みと重なっている。   

>帰省してお墓参りにいく季節でもある。   

>祖父母の家の見慣れないテレビで高校野球を見た、という記憶のある人もいるだろう。   

>戦争回顧と野球の関連性   

>また、戦争回顧のシーズンである。

86日と9日の原爆に日があり、15日に終戦の日がある。    

815日の正午には甲子園球場でも試合を中断して黙祷が行われる。(2025年は第2試合開始前なので中断はなかった)   

815日にかぎらず、国民が「死をおもう」シーズンである。    

>その心情と「大正時代からそんなに変わらないスタイルで続けている大会風景」とはとても親和性が高い。   

>「死をおもう」ことは同時に「しかし社会は続いていく」ことで、それを実感するのと表裏になっている。    

>「田舎に帰省して、お墓参りをして」そして「見たいわけではないけれど何となく高校野球中継が流れている」というのは、何となくそういう心情とシンクロしている。   

>帰省も墓参りもなくても、「戦争特集」で死んだ兵隊さんたちの若かったことを見て、翌日に高校生野球部員が懸命にプレーしているのを見れば、「死をおもい、社会は続く」ということをトレースしているようでもある。   

>このあたりの空気がまた、高校野球側に影響を及ぼし、なるべく昔ふうの伝統を続けたほうがいい、という空気を醸成しているように見える。    

>奇妙な熱気を作り上げたシステム    

>私が高校野球を見始めた昭和40年代は、まだ一県一代表ではなく、また完全中継もされていなかった。   

>でも昭和50年代に一府県一代表となり(都と道は二代表)、日本に住んでいるならどこかかのチームに肩入れしやすくなって、どの試合も完全中継される。   

>奇妙な熱気に包まれてしまった。   

>そのシステムが50年近く続いている。   

>高校野球は、何重かの「よくわからないもの」に包まれている。    

>大正からの伝統(卒業して2年で兵隊さんになる時代の雰囲気)や、昭和中期の勘気(職業野球とは完全に違う存在であるアピール)、昭和後期の熱気(全国を均等に扱おうとする全国的熱気)が加わり、誰のためのものかわからない「奇妙な祭り」が出来上がった。   

>死者の時期とかぶって、「祝祭」ではなく、「祭祀」として執り行われている雰囲気である。   

>ちょっといろいろ意味がわからない。   

>でも伝統になることによって、アンタッチャブルな雰囲気を勝手に纏っている。   

>高校生の部活だからぜんぜんアンタッチャブルじゃないだけどね。   

>でも祭祀だとおもっている信者たちには神聖さが見えているようだ。   

>たぶん、そこで行き違いが起こる。   

>高校野球精神を愛する人と、意味がわからない人は昔からずっと行き違ってきた。   

>土着的で、祭祀的で、競技で、スポーツで、観客が多く、高校生を中心として応援がまた華やかで、注目をあびる。   

>そういう祝祭性を帯びた「祭祀」のようである。   

>大正の伝統は昭和には受け継がれて、昭和の伝統は平成に受け継がれた。   

>そして平成の伝統はそのまま令和にも受け継がれるのだろうか。    

>長く浸透しているシステムは、そっちに気を取られると変えにくくなる。    

>でも高校生に部活動の集大成でしかないのもたしかである。   

 

現実 (事実) は頭の外にあり、非現実 (考え・哲学) は頭の中にある。日本人にも現実だけがあって、非現実がない。だから脳裏が空っぽである。これは日本語の文法には時制が無い。考えの内容が文にならないためである。   

日本人は思考を停止しているので、無哲学・能天気の人になっている。   

現実があって非現実がないと、宗教に儀式があって、教義がないことになる。   

日本人の生活は、生まれた時には宮参りをして、結婚式はキリスト教会で行う。葬儀は葬式仏式で済ませばよい。これで過ごす事ができれば万事万々歳である。

内容を考えなければ、矛盾ということも気にならない。 だから、思考を停止している日本人には理屈にも価値がない。     

思考を停止しているので考えが無い。であるから、考えを改めるということも上手く行かない。  

日本人は内容 (非現実) が無いだけに余計に形式 (現実) には拘る。それで改革運動の妨げになることが多い。結果的に日本人は守旧派の人達になっている。   

現実に過度に拘る結果、猿真似・後追いは得意であるが、創造力に乏しい。猿真似・後追いの優劣の争いは参入が容易で激しく、日本人の人間序列形成の判定に役立っている。