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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

島民の疑問  

2025-08-29 17:02:46 | 文化

>朝日新聞   >自衛隊の南西シフト 最前線で聞いた島民の疑問と外交的解決求める声   >朝日新聞社によるストーリー・   >22時間   

> 日本最西端で台湾に最も近い沖縄県与那国町と、尖閣諸島を行政区域に抱える石垣市で今月、相次いで首長選があった。   

>両自治体は、台湾有事をにらみ、自衛隊が進める「南西シフト」の最前線に位置する。   

>沖縄本島と与那国島、石垣島   

> 現地で取材して印象に残ったのは、急速な防衛力強化や日米の一体化を、どこまで受け入れればいいのかという人々の疑問と、外交による解決を求める切実な声だ。   

 

外交による解決は非常に重要ですね。   

しかし、我が国の防衛力強化は外交に代わるものではありませんね。防衛力強化はわが国が戦わずして勝つための手段です。強大な抑止力はわが国が善の善をなすための単なる手段ですね。   

 

> 与那国島は、台湾まで111キロ。与那国町の人口は、今年5月末現在で1655人。   

>そのうち約2割が、自衛隊員やその家族とされる。    

 

わが国が善の善なる国となるためには、それ相当の努力が必要ですね。隣国に付け狙われるなどもっての外です。      

 

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領)

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相 

戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。= 真に勝つことは自らの力を増すことで、戦わずして勝つことが最善である。      

わが国は平和国家であるから自国の強大な抑止力 (物量) を相手国に見せつけながら、国家の最善を目指さなくてはならない。  

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鳩山紀一郎氏

2025-08-29 15:05:41 | 文化

>産経新聞   >鳩山紀一郎氏、由紀夫氏に抗日戦争勝利80年行事欠席訴え「日本の元首相の出席必要ない」   1時間    

>国民民主党の鳩山紀一郎衆院議員は28日、鳩山由紀夫元首相が予定する中国政府による93日の北京での抗日戦争勝利80年記念行事への出席取りやめを要請したと、X(旧ツイッター)で明かした。   

>紀一郎氏は由紀夫氏の長男で「日本の元首相が中国政府の戦勝記念行事に出席する必要はありません」と指摘した。   

 

そうですね。元首相には自宅学習の方が大切なようですね。   

 

>紀一郎氏は戦争を繰り返さないために必要なことは「歴史から学ぶべきことはしっかり学びつつ、抑止を中心に、常に最大限の戦略的な準備を行うことです」と強調した。    

 

そうですね。日本人には学習が大切ですね。   

日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」に関する (考え・非現実) の内容を語る批判の人が必要ですね。   

わが国には最大限の抑止力が必要ですね。戦わずして勝つことが必要ですね。わが国は善の善を目指すべきですね。        

 

>中国政府は28日、由紀夫氏が80年記念行事に出席すると発表。   

>本人も産経新聞の取材に出席の意向を示した。   

>一方、紀一郎氏はXで、出席取りやめの要請に対し由紀夫氏がどう反応したかは明らかにしなかった。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 

 


靖国神社  

2025-08-28 17:12:22 | 文化

>朝日新聞   >8月15日の靖国神社 敗戦から80年、閉門後も続いた追悼    >朝日新聞社によるストーリー・   >8時間・   

> セミの鳴き声が響く8月15日、終戦の日の靖国神社。   

>強烈な日差しの下、車いすの高齢者、親子連れ、若いカップルなど、戦没者を悼む人たちが長い列をつくっていた。   

 

気分・雰囲気・感情の問題ですね。歌詠みの世界ですね。   

 

> 同神社によると、境内の神門より内苑側で参拝したのは、約6万3千人。   

>2024年の約3万2千人から、ほぼ倍増したという。   

>夕刻には、入場規制のためのフェンスも設置された。   

> その一方で、戦争を知り、体験や記憶を語り継ぐ人たちは急速に減りつつある。   

>総務省の人口推計によると、24年10月現在の戦前・戦中生まれは約1389万人で、総人口の11.2%。   

>人口推計をもとに算出すると戦前・戦中生まれの人は1987年に4割、2001年に3割、14年には2割を切り、近年は1年で約1ポイントずつ割合が減少している。   

 

日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」の考え (非現実) の内容を語る人が必要である。    

この非現実の内容 (考え) は英米流の高等教育の成果から得られるものである。 歌詠みには意味がなく考えの内容を得ることは不可能である。  

政治には未来 (非現実) の先取りが必要である。だが、日本人には現実があって、非現実がない。だから、未来社会が見えていない。日本人は現実ばかりにとらわれていて行き先を見失い政治が迷走する。   

 

> 東京都世田谷区から家族4人で訪れた中学1年生の九法歓さん(13)は、映画や本を通じて戦史に興味を持ち、東京大空襲の体験者から直接、話を聞いたこともあるという。   

>「経験した人が減るなかで、経験していない人が語り継いでいかなきゃいけない。   

>僕たちが、伝えていきたい」   

 

語り部はわが国の伝統ですね。昔から人気が衰えませんね。      

 

> 戦争の記憶が遠のく中、今夏の参院選では自国第一主義や排外主義を掲げる政党が躍進。   

>かつての軍国主義を支えた国家神道の中心的施設だった神社への国会議員による参拝は今年も行われた。   

 

供養に力が入る。供養すれども学習なし。これでは過ちを繰り返す。  

 

> 定刻を超えた午後6時19分、戦後80年の節目を終えるように静かに門が閉じられた。   

>(藤原伸雄)   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 


西田幾多郎  

2025-08-28 01:10:59 | 文化

FNN   >戦争責任を問われた哲学者西田幾多郎…軍の求めに応じて提出された文章『世界新秩序の原理』に秘められた真意とは   >FNNプライムオンラインによるストーリー・   >5時間・   

>石川が生んだ哲学者、西田幾多郎。   

>西田は終戦の2カ月前に病気で亡くなるが、戦後「戦争に協力した」として度々責任を問われてきた。   

>日本を代表する哲学者が戦時中、何を語ろうとしていたのか。   

>「全体主義は個人を否定する」    

>太平洋戦争に突入した1940年代。   

>この時代の日本はドイツやイタリアとともに全体主義国家と呼ばれている。   

>全体主義とは「お国のために」というスローガンに代表されるように、11人の個人よりも全体としての国家の利益や発展を優先する考えだ。   

 

そうですね。滅私奉公ですね。  

 

>こうした時代の最中に録音された、ある音声がある。   

>「全体主義というのは創造を否定する。   

>全体が個人を否定する」   

 

そうですね。   

 

>声の主は哲学者の西田幾多郎だ。   

>厳しい言論統制が行われる中で西田はなぜこのような発言をしていたのか。   

>新版の西田幾多郎全集を編集した1人、京都大学名誉教授の藤田正勝さんは「11人の人間の持っている創造性。   

>そういうもので人間の文化というものは豊かになっていく。   

>そういう道を全体主義は塞ぐものだという考えが西田にはあった」と話す。   

 

そうですね。創造性は個人主義の中か生まれますね。   

 

>武断的な校風になじめず退学   

>西田幾多郎は明治初期の1870年、加賀国河北郡森村で生まれた。   

>金沢の第四高等中学校でも学ぶが、規則づくめの校風になじめず友人たちと教官に反抗。    

>学業は優秀だったが素行不良で中途退学することになった。   

>その後、大学を出て40歳で京都帝国大学に赴任。   

>哲学科の教授として教壇に立つ。   

>学生たちには厳しくも温かみのある先生として慕われていたそうだ。   

>執筆活動も本格化し日本で最初の哲学書とされる「善の研究」を始め数多くの論文を世に発表した。   

>そんな西田が自由な創作活動を抑圧する全体主義に批判的な考えを持っていたのは自然なことだった。   

>「全体主義というのは創造を否定する。   

>つまりは動物的になる。   

 

そうですね。   

 

>動物には創造というものはないんだ。   

>創造というものは人間だけにある」時代の風潮を明確に批判していた西田。   

 

そうですね。   

 

>しかし戦後、西田は戦争に協力していたとして責任を問われることになる。   

1954年に刊行された文藝春秋。   

>掲載されたのは「西田幾多郎の敗北」。   

>記事を書いたのは昭和を代表するジャーナリストの大宅壮一。   

>大宅は西田を「日本最高の知性」としたうえで「博士は魂を売って肉体の保証を求めたのである」と、西田が身の安全を保証してもらう代わりに軍に協力したと告発した。   

>この記事が出て以降、西田幾多郎と言えば「戦争に協力した哲学者」というイメージが世に広まることになった。   

>軍に提出された文章の真意とは   

>戦時中、西田の周りで何が起こっていたのか。   

>神奈川県鎌倉市に西田が晩年、多くの時を過ごした家が残されている。   

>太平洋戦争に突入した日本が日に日に戦況を悪くしていた1943年。   

>西田の下に、軍の関係者が度々訪れるようになった。   

>追い詰められていく戦争に意義を見出そうと西田に思想面での協力を求めたのだ。   

>藤田さんは「西田自身、当時日本が後戻りできないところまで追い詰められているという意識を持っていたと思う。   

>自分自身の考えていることを何とか政策に反映できるのであるなら自分の意見をまとめてみたいと考えたのだと思う」と話す。   

>熟慮のうえ、筆を執った西田はひとつの文章を書き上げ、軍にその内容が渡った。   

>タイトルは『世界新秩序の原理』、西田が戦争協力の責任を問われる原因となった文章だ。   

>実際に軍に渡った文章は仲介者によって改変が加えられたものだった。   

>そこには「大東亜戦争は世界史的使命を遂行せんとする聖戦である」などと一見、戦争を肯定するような言葉が並ぶ。   

>しかし時代背景や軍に提出された状況を考慮せず、そのまま西田の戦争責任を問うことはできないとして藤田さんは「(聖戦などは)当時の政策を担っていた人やそれに賛同する思想家たちが盛んに使っていた言葉。   

>そういうものを手がかりにしなければ自分自身の考えを表明することができないという状況にあった」と説明する。   

 

そうですね。残念な世の中でしたね。   

 

>西田が政府に対して真に訴えたかったことは何なのか。   

>文章の中で度々使われているのは“世界”という言葉だ。   

>「もはやどの国も一国だけの意思で政策を進めることはできない。   

>他の国々とのつながりの中で初めてその国の果たすべき役割が見えてくる。   

 

そうですね。国際協力が必要ですね。   

 

>そういう考え方に立っていた。   

>英米の帝国主義や植民地主義ではいけないということを言っているが暗に日本の政策を批判する意味が込められていたと言えると思う」と藤田さんは話す。   

 

そうですね。大日本帝国は帝国主義で植民地主義の国でしたからね。   

 

>それぞれの国家に果たすべき役割があり共に協力し世界の発展の道を探っていくこと。   

>政府がこうした考えに立つことを西田は求めていたと、藤田さんは考えている。   

 

そうですね。日本には国際的な話し合いが必要ですね。   

 

19456月、鎌倉の自宅で息を引き取った西田。   

>軍に渡した文章が政策に反映されることはなかった。   

>世界が注目する日本発の哲学   

>戦後、そして西田の没後80年。   

>西田が残した哲学は近年国際的な注目を集めている。   

>アメリカの研究者は「最近の若い哲学をやっている連中は西田というとみんな『かっこいい』と思うようになった。   

>今は西田という名前を聞かないで哲学の学会は終わらない」と語る。   

>またイタリア人の研究者は「私が善の研究をイタリア語に翻訳したときベストセラーになった。   

>西田の哲学は日本文化に入るための入口の一つとして愛されているのではないかと思う」と話した。   

>軍に提出された『世界新秩序の原理』の冒頭には「真の世界平和は全人類に及ぶものでなければならない」と書かれている。   

>世界の発展のために日本が担うべき役割があると考えた西田。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。    

 

>戦後80年が経ち西田が残した独自の哲学が、そうした日本の可能性を示しているのではないだろうか。   

>(石川テレビ)   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


看過できない  

2025-08-26 00:18:28 | 文化

>東京新聞   >「追悼文送らない」小池百合子知事に「看過できない」追悼式典実行委が抗議声明 関東大震災の朝鮮人虐殺   >3時間・   

> 1923年の関東大震災の際に虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に、追悼文を9年連続で送らない意向を示した東京都の小池百合子知事。   

>式典の実行委員会は25日、抗議声明を提出した。   

>都庁で会見した宮川泰彦実行委員長は「看過できない。   

>都と追悼式典との関係は決して浅くない」として再考を求めた。   

 

そうですね。   

 

>◆「歴代都知事が追悼文を送ってきた歴史がある」   

> 実行委は毎年91日、墨田区の都立横網町公園内にある追悼碑前で追悼式典を主催。   

>宮川さんは「碑は都の所有で、歴代都知事が追悼文を送ってきた歴史がある」と強調した。   

 

現実肯定主義の強調ですね。   

 

> 小池知事は就任直後の2016年は追悼文を送ったが、2017年以降は「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災とその極度の混乱の中で犠牲となられたすべての方々へ哀悼の意を表している」などとして送っていない。    

 

日本人には意思がない。だから加害者意識がない。罪の意識もない。だから虐殺の内容を学習するこだわりもない。

震災は天災であり、虐殺は犯罪である。極度の混乱として一括して哀悼の意を表す性質のものでもない。これらを区別ができないのは野蛮国である。     

今回の事例は供養すれども学習なしということですね。これはいつものやり方ですね。これでは過ちを繰り返しますね。軽卒至極ですね。        

 

> 実行委は今月4日、小池知事宛ての追悼文送付の要請書を都に提出。  

12日に公園を管理する都公園緑地部から「送付いたしません」との回答があった。   

>抗議声明を受けた同部の担当者は「都庁内の関係部署に伝える」と話した。   

>(奥野斐)   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)