歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(1)

2009-05-17 08:15:28 | アタテュルク像問題

最近までよく知らなかったのですが、ネット上でこういう↓珍しい騒ぎが持ちあがっているらしい。産経に詳しい記事があったので、ちょっと長いですが、全文引用してみます。

「トルコ建国の父」救え 銅像の寄贈先破綻…「友好危機」ネットで署名活動 2009.5.6
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090506/trd0905060153000-n1.htm

屈指の親日国、トルコ共和国の親日感情が悪化しているのを憂慮し、インターネット上でつながった有志が立ち上がった。トルコから新潟県柏崎市のテーマパークに寄贈された建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルク初代大統領(1881~1938年)の銅像の行き先がテーマパーク破綻(はたん)をきっかけに決まらない問題が影響しているとみられ、ネット上で署名活動を始めたのだ。有志らは「1人1人が声に出して行動することで、解決に向けて前進する」と協力を訴えている。

署名活動を始めた「ムスタファ・ケマル像を移転する会」の代表は、愛知県大口町の会社員、江口保さん(20)。ネット上で知り合った有志8人が中心となって運営している。 江口さんは英BBC放送の調査で、世界有数の親日国トルコの対日感情が年々悪化し、今年は「肯定的30%、否定的47%」と大きく逆転しているのを知った。その原因を調べるうちに、アタチュルク像問題に突き当たった。

アタチュルク像は平成8年、柏崎市にテーマパーク「トルコ文化村」が開園したのを祝い、トルコが寄贈した。2度の閉園で再建を断念した市は18年、トルコとの友好関係に配慮するとの条件を付け、上越市のプラスチック製品製造業「ウェステックエナジー」に像も含めて売却。ウ社は19年6月、施設を改装して結婚式場を始めたが、1カ月半後に中越沖地震が発生。倒壊の恐れがあったとして像は台座から外され、当初は屋外に横倒しにされた(批判を浴びたため、現在は屋内で保管)。「建国の父」に対して非礼だとして、トルコ紙でも報道された。 

さらにウ社と柏崎市、敷地内の民有地地権者の3者の間で訴訟合戦が勃発(ぼつぱつ)。訴訟と切り離して像の譲渡を求める市に対し、ウ社はその条件として市の謝罪を要求。会田洋市長は「市が引き取ってしかるべき場所に移設したいが、市の落ち度を認めると裁判で不利になる」と対応に苦慮している。 柏崎市などに電話して問題の背景を知った江口さんらは「自分たちにできることから始めよう」とネット上に経緯をまとめたサイトを立ち上げ、4月11日からは署名活動に乗り出した。 

像の移転先に挙がっているのが和歌山県串本町だ。明治23年、遭難した軍艦エルトゥールル号の乗組員を住民総出で救助したのが縁で、串本町はトルコと100年以上にわたり交流を続けている。来年は遭難から120周年を迎え、「トルコにおける日本年」も開かれる。昨年3月にはトルコ大使館が「像の移設費用は負担するので、土地を提供してほしい」と町に要請し、町議会は全会一致で賛成したが、「裁判の結果が出ないことには動けない」(町総務課)のが現状だ。 事態打開に向け、江口さんらは訴える。「事は両国の外交、友好にまで及んでおり、まず銅像を訴訟から切り離してほしい。一致団結してトルコとの友好を取り戻そう」と。 

会は目標の署名を集めて会田市長とウ社、外務省に提出する予定。署名目標数は1万人で、5日現在で2200人を超えた。署名サイトのアドレスはhttp://www.shomei.tv/project-932.html(永岡栄治)


ここに至るまでの全体的な経緯は、この辺↓のサイトがもっと詳しいですかね。
アタテュルク像事件のまとめサイト:http://www19.atwiki.jp/torco/pages/12.html
J-castによる記事:http://www.j-cast.com/2009/02/20036358.html

自分なりにこれまでの経過をまとめると、

ある民間企業が新潟県柏崎市にトルコを題材にしたテーマ・パーク「柏崎トルコ文化村」を創設。
           ↓
 トルコと日本の交流を促進する上で有意義な試みだということで、トルコ政府が大使館を通じてアタテュルクの銅像を寄贈。
           ↓
融資元の銀行が破綻したこともあって経営難に陥り、倒産。柏崎市が土地と建物を買い取り、地元の観光業者を中心に設立された新会社に貸付け、村の運営を続けさせる。
           ↓
でも、やっぱり経営は立ち行かず。中越地震による打撃が決定打となって、その新会社も倒産。柏崎市は園内の施設を他の企業に売却したが、その際にアタテュルク像も一緒に売りとばされてしまったこれにはトルコ大使館からのクレームがつくも、売却先が「トルコとの友好関係に十分配慮するとともに、アタチュルク像の今後の取り扱いは十分、市と協議する」という条件を付けることで何とか合意。
           ↓
売却先の企業は“村”を結婚式場に改装。アタテュルク像はそのまま放置されていたが、2007年の中越沖地震で被害を受け、台座から降ろされて横倒しに。補修されること無くそのまま野ざらしにされるなど、色々と粗末な扱いを受けている。トルコ大使館はもちろんのこと、今では柏崎市も銅像の補修・移設を望んでいるらしいが、件の売却先の企業は、「売却の際の条件に食い違いがあった(“村”の敷地内には市と関係ない民有地が含まれていたらしい)」として市に対し訴訟を起こしており、両者の関係はぐだぐだな状態。直ちに市へ銅像が返還される可能性は低い。

なお、銅像は現在施設内のどこかに保管されているらしい。←今ここ

このトルコ文化村には、実は閉園前に一度だけ行ったことがあります。もう10年くらい前になりますか。東京から青春18切符を使って、日帰りで。当時、件の銅像は村の入口に立っていたのですが、タキシードを着て背中にマントを装着したアタテュルクが馬に乗っているという、何というか奇天烈なシロモノだったという印象が強いですね。

トルコ本国でアタテュルク像といえば、軍服を着て馬に乗っているか、軍服か背広で立っているかの2パターンが普通なんですよ。そちらを見慣れているからか、あたかも“ジーンズ姿のカジュアルな毛沢東像”みたいな違和感がありました。

ああいう像は、“本場”でもまず無いんじゃないか。あちらに無いということは、世界で唯一ということです。その意味では大変貴重な像だと思うのですが、まさかこんな騒ぎの元になっていようとは.....。

↓在りし日のアタテュルク像



まあ、くれた国がどこであれ、また貰った物が何であれ、柏崎市の対応はダメダメですね。もしこれの寄贈元が米国や西欧諸国、中国みたいな大国だったとしても、彼らは同じような扱いをしたでしょうか?

“俺たちはそんな差別はしない!相手がどこであれ、市場の論理に従って売りとばすだけだ!”とニヒルに言われたらそれまでなんだけど、彼らの意図はどうあれ、少なくともこの騒ぎによって、大使館の関係者や在日トルコ人の中に感情を害している方が多々おられるのは事実な訳です。何らかの感情的な手当ては必要でしょう。

↓参考:在日トルコ商工会議所の陳情書
http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071203_seigan.pdf


それを考えれば、銅像を和歌山県の串本町に移転するという案は良いと思います。あそこはエルトゥールル号事件以来、トルコとの交流の歴史も長い。これ以上の適地は無いですよ。

↓参考動画:エルトゥールル号と串本のことを扱ったトルコのTV番組
ただですね、一つ気になるのは、いかにこの事件がトルコのメディアで報道されたとはいっても、上の産経の記事にあるように、そのために“屈指の親日国、トルコ共和国の親日感情が悪化“したとかいう話は事実なのか?ということです。

いったい何が基準で“屈指の親日国”なのかとか、そういう細かい話はさておき、現時点でいかに銅像がぞんざいに扱われているとは言え、それは地震という、ある意味“不可抗力”によるものだったわけです。別に日本人が積極的に銅像を壊そうとしたとかそういう話ではない。トルコ人というのはそれほど不寛容な人々なのか?そもそも、あちらではいかなる報道がなされたのか?

とりあえず、ネット上で確認できる事件についてのトルコのメディアや掲示板を検証してみることにしましょう。 まずは、事件について最も早く報じた日刊紙「サバフ(Sabah)」の、2007年10月8日付けの記事の全訳です。

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「倒れたアタテュルク像、日本との間に危機をもたらす」

サバフ紙、2007年10月8日 ハサン=エルシャン記者
原文:Devrilen Atatürk heykeli Japonya ile kriz çıkardı
http://arsiv.sabah.com.tr/2007/10/08/haber,8729D0E359D24EE892A589BD7C18ED3F.html
日本における“トルコ‐日本友好の村”(“柏崎トルコ村”)のあるニガタケン(新潟県のことらしい)で(2007年)6月に起きた地震では、村にあったアタテュルクの銅像も被害を受けたが、その像が台座から転落する危険があるとして地面に横たえられたことで、日土の間に危機が生じている。

銅像は長きに渡って地面に倒れたままであり、抗議が寄せられたにも拘わらず、起こされることはなかった。その地面に倒れたままの姿を日本のメディアが報道。在東京トルコ大使たるセルメト=アタジャンルはこの6トンもの銅像を引き起こし、倉庫へと移動させたのだ。友好の村は、1996年に開設されたものである。
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柏崎市による銅像の売却問題とかそうした一連の騒動についての説明は無く、ただ日本の地震で被害を受けたアタテュルク像が粗末に扱われているという話が、手短に述べられているだけですね。写真付きで。 トルコの新聞のサイトには大抵コメント欄が付いていて、読者の関心を集める記事の下にはずらずらとコメントが連なっているものなのですが、この記事のコメント欄には未だ書き込みがありません。記事がアップされてから1年半も経つというのにです。

また、グーグル等で調べてみた限り、この記事がネット上で他の新聞サイトに引用されたり、掲示板等で2次利用された形跡もほとんどない。つまり、この記事はトルコのネット民にはほとんど影響力を持たなかった、と考えてよいでしょう。

これとは対照的に、翌2007年10月9日にアップされた大手日刊紙「ラディカル」の記事は、他の新聞社のサイトをはじめとして、ネット上のいたる所で転載・引用されています。これ以降、他の新聞社が独自に記事を発信した形跡はないので、事実上、この記事こそ事件についてのトルコのネット世論を方向付けたと思われますね。以下はその記事の全訳。
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「アタテュルク像で日本が大騒ぎに」
ラディカル紙 2007年10月9日
原文:Atatürk heykeli Japonya'yı karıştırdı
http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=235217

地震で横倒しになったアタテュルクの銅像が、日本で騒動を巻き起こしている。 日本の新潟市(←原文ママ。正しくは新潟県柏崎市)における地震で、アタテュルクの銅像が横倒しとなった。地震と救出作業の混乱の中、像は倒れたままの状態で忘れ去られていたのだ。

日本のジャーナリストらは、このために自国政府の対応を批判。現地の新聞に“アタテュルク像がないがしろにされている”と題した写真入りの記事が掲載されたことで、一般人の間からも“これではアタテュルクに対して失礼だ”と非難の声が生じている。

昨日、在アンカラ(トルコの首都)の日本大使館はこの事件に関する声明を出した。その声明において、日本政府と柏崎市長から説明を求めることを明らかにするとともに、状況がいかに明るみに出たかについては、以下のように説明した。:

“新潟中越地震において、アタテュルク像を台座に繋いであったボルトが損傷しているように見受けられた。像を放置しておけば、落下して破損するのではないかとの懸念から、台座から取り外され、横たえられたのである。銅像をそのように放置する意図など決してなかったのであって、柏崎市は人命救助の努力を最優先せねばならなかったのだ。”

日本大使館は、アタテュルクが日本に於いて愛され、敬意を払われている指導者であること、また(日本人の間では)彼に対する侮蔑など、まず口の端にも上らないことなどを強調した。

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どうでしょうか?

日本で銅像が粗末に扱われていたことよりも、それがわざわざ新聞記事になったり、またそれに世論が反応していることに力点が置かれています。つまり、日本社会において、アタテュルクはそれほどまでによく知られ、高い関心を払われているのだとトルコの読者に強調したがっているわけです。実際には、そんなことはないんだけど。

全体としては“日本人というのは、地震で困っているにも拘わらずアタテュルク像の安否を気遣ってくれるような感心な人たちだ”と、どちらかと言えば“美談”のような、好意的な調子でまとめられているのが分かるかと思います。

ブルサ(トルコ西部の都市)の掲示板”Life in Bursa”には、以下のようなコメントが付いていました。いずれも好意的です。というか、いかに熱心なアタテュルクの信奉者でも、これを読んで“日本人は許さん!”みたいに反応する人って、そうそういないんじゃないでしょうか。

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<ハルクのコメント>※ハルク(Halk)=トルコ語で“人民”の意。
http://www.lifeinbursa.com/haberx/24606/32/ataturk_heykeli_japonyayi_karistirdi.htm

論評ハルク1号
日本にアタテュルクの銅像なんてあったんだなあ……知らなかったよ。


論評ハルク2号
日本人は大したものね。向こうにアタテュルク像があるなんて知らなかった。


論評ハルク3号
日本人たちは俺らのアタテュルクを俺ら以上に気にかけている。何と素晴らしいことか。

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(2)に続く 


ユダヤ人はなぜ日本に住まないか?(2)

2009-05-05 15:48:37 | ロシア関係

(1)からの続き

こんなの↓もありました。
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<教えて!ナロード>


「ところで、日本と中国にユダヤ人って住んでるの?」

原文:а в японии и в китае евреи живут?
http://otvet.mail.ru/question/19864076/


<ナロードの答え>


回答ナロード1号

どこにでも住んでるでしょ!


回答ナロード2号
ユダヤ人はあらゆる所に住んでいる!!


回答ナロード3号
当たり前だろうが!


回答ナロード4号
中国については知らない。で、日本なんだけど、あそこはユダヤ人のいない国だ....

※前回の記事にも書いた通りで、中国には千年くらい前からユダヤ人が住んでいます。中にはキリスト教やイスラームに改宗した人もいますが、現在でも僅かながら残っている模様。


回答ナロード5号
あの人らはどこにでも住んでるでしょwwww。ヨーロッパにも、もうどんだけ居るんだか!考えてもみなさいよ。なにせ名前が“ヨーロッパ”なんだから....。

※ ロシア語でヨーロッパは「イヴローパЕвропа」、ユダヤ人は「イヴレーイЕврей」と語感が似ていることから、それら2つの言葉を引っ掛けた駄洒落。「ユダヤ人だらけのヨーロッパ=“ユダロッパ”」なのだと言いたいらしい。実際には、世界で最もユダヤ人の人口が多いのはイスラエル(700万くらい)で、二位が米国(600万くらい)。昔はともかく、今の欧州にはそんなに沢山住んでるわけではない。


回答ナロード6号
住んでるけど、数はとても少ないな。あっちの言葉はすごい難しくて、ちゃんと聞き取れるまで最低2年はかかるぞ

※一般人の間では漢語と日本語は大体ごっちゃになっていて、また必要以上に難しい言語だと考えられています。


回答ナロード7号
住んでるとも、あんた。住んでるんだから、住みたいように住ませてやれよ。


回答ナロード8号
住んでるよ。目は細いけどな

※人種的偏見がらみのつまらんジョークのようですが、写真で見る限り、中国のユダヤ人の顔は実際にアジア顔だったりします。


回答ナロード9号
住んでるけど、何か?


回答ナロード10号
日本には、実質住んでないな....。中国の方は、小さなコミュニティがあるほとんど同化されかかってるけど.....。

※近年はイスラエルへの移住者もいるらしい。しかし、状況を正しく把握しているところをみると、この人はユダヤ系でしょうか?


回答ナロード11号
ユダヤ人はどこにだっているんだよ。アフリカにすらなwww


回答ナロード12号
何だか、ガチに親ユダヤ的な意見が出ているみたいだな。奴ら絡みの問題は山のようにあるんだが。一体どうしたんだ?羨ましくて仕方がないのか?俺たちよりもユダヤ人が賢いってことが?


回答ナロード13号
どこにでも住んでるけど、族際結婚の結果、生まれてくるのは漢人だってことになる。このことは、彼らの律法書にも書いてあるよ。

※母親が漢人だと子供も漢人になるということか?


回答ナロード14号
彼らはカフカス地方にまで住んでるよ。その名も“山岳ユダヤ人”=“カート人って言うんだけど。

※ 正しくは「タート人」。イラン系のタート語を母語とし、容貌は欧州方面のユダヤ人とは大分違います。もともとカスピ海の西側に位置するダゲスタンの山岳地帯に住んでいたことから、「山岳ユダヤ人」とも呼ばれますが、実際のタート人にはユダヤ教を信仰するグループと、イスラームを信仰する集団がちょうど半々くらいの割合で存在。


<ナロード・ベストアンサー>

日本には本当にいないよ。向こうでまだ15世紀頃に、賢明なる日本の皇帝(=天皇のこと)がキリスト教に心酔しユダヤ教の信仰を禁じてしまったんだ

※ 15世紀といったら室町時代か。それまでの日本にはユダヤ教徒がごろごろ居たんですね。全然知りませんでしたよw。これも“教科書が教えない歴史”なのかwww。

彼は他のスレでは「俺はユダヤ人が嫌いだ!」とか「もし自分の町でゲイ・パレードがあったら、自宅の屋根から狙撃してやる」みたいな書き込みをしていました。w

アイコンもこんな感じで↓非常に怪しいw。



しかし、日本人から見た感じ、あちらの人間と言うのはどうも鍵十字と“卍”の違いに無頓着な気がしますね。何度かネオナチみたいな奴らがデモをやってるのを見たことがありますが、その際に彼らが掲げていた旗は皆卍”にちょこっと毛の生えたようなシロモノでした。ハーケン・クロイツではなく。

心の中で、「お前らなんかナチじゃない!単なる仏教徒だ!」と何度叫んだことか。

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まあ、「鎖国」から「天皇による禁教令w」まで、その理由については色々と意見が分かれるとはいえ、“日本にユダヤ人はいない(もしくは、いないに等しい)”というイメージは多くのロシア人に共通しているようです。

実際にはどうなのか?

外務省HPによれば、日本での在留イスラエル人の数は600人。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html

これにユダヤ系の欧米人を加えれば、その数は多くて2000人くらいでしょう。日本在住の外国人の中ではそれほど多いとはいえない。

ただ、我々が普段メディアでよく目にする、“日本語が異様に流暢な白人”には意外とこのユダヤ系が多かったりします。数学者兼大道芸人のピーター=フランクル然り、モルガン・スタンレー証券の人然り.......。

一番馴染み深いのは、“ヤキソバンの敵”(但し、サンコンでは無い方)でしょうw。 もちろん、この人に関しては実は生粋の日本人で、髪は染めてパーマをかけてるだけだとか、実家は埼玉県の春日部にあるとか、その近くのコンビニで“投稿写真”を立ち読みしている姿が目撃されたとか、そういう噂も多々あるんだけれどもw…。

参考映像:ヤキソバンと闘うヤキソバンの敵


というか、“明治以降、日本の近代に深く関わった欧米人”みたいなもっと広いくくりで考えても、やはりユダヤ系の数は多いらしい。

こういうもの↓がありました。

参考:ウィキペディア“日本に関わったユダヤ系の著名人一覧”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA


知識人や芸術関係者が目立ちますね。そもそも、ロシアでも欧米でも知識人や芸術関係者の中でユダヤ系の占める割合は、人口比から言えば昔も今も非常に高い。まさに上のコメントにも出てきた「賢い(もしくは狡賢い)ユダヤ人」のイメージそのままですが、これは彼らが、一般に子弟の教育に熱心なためだと言われます。

その背景には、歴史的に彼らは都市部に住んで商業や金融を生業としたがために、後継者の教育への投資が不可欠だったという事情があるとかないとか。近代日本は懸命に西欧文明を吸収し続けてきたわけですが、その欧米の側からの伝達者の中にユダヤ系の人々が含まれたのはある程度自然なことだったのでしょう。

ところで、上でコメントしているロシア人は多分ほとんど知らないと思うのですが、つい90年ほど前の大正時代、日本に住むユダヤ人の数がいきなり激増したことがあります。それも、大半が旧ロシア帝国の領域から革命を逃れ、満洲経由でやってきた難民でした。いわゆる、“白系ロシア人”というやつです。

“白系ロシア人”という言葉は、どうも現在の日本では“白人のロシア人”だと誤解されがちなのですが、この“白”は肌の色ではなく政治的な“赤”(=共産主義)の対語です。といっても、“赤”じゃないから即、ガチガチの“反革命・帝政論者”というわけではなく、実際には西欧的な自由主義者からボリシェヴィキではない穏健な社会主義者まで含んだ雑多な集団でした。

また、かつての帝政ロシアは旧ソ連以上の版図を持つ多民族国家であり、“ロシア人”の中にはウクライナ人やユダヤ人、カフカスの諸民族など他の民族も大勢含まれていたのです。

ちなみに、ロシアのユダヤ人にはドイツ語っぽい姓を持つ人が多いですが、これは、彼らがかつてイーディッシュ語(ドイツ語に近い言語)を使っていた頃の名残です。ドイツ系ロシア人というのもいるにはいますけど、ソ連の崩壊後はドイツへの「帰国」が進み、今ではその数はかなり少ない。世間的にはドイツ語っぽい姓=ユダヤ系と思われることが多いですね。

そういうわけで、正しくは“ボリシェヴィキが嫌いな旧ロシア帝国遺民”とでも言うべきだったのかもしれませんが、当時の日本人には彼らの細かい違いなど分からないわけで、みな一様に“帝政護持派”“ロシア人”ということにされてしまったのでした。

これら“白系ロシア人”たちはさすがにボリシェヴィキに目の敵にされるだけあって、いわゆる“富裕階層”の出身者、つまり貴族や地主、軍人、官吏や商工業者、芸術家などがそろっていました。帝政時代のロシアにおいては、貴族は日常的にフランス語で話し、フランス料理を食べて暮らしており、一般の富裕層はそこまではいかずとも、かなり西欧化された生活を送っていたらしい。国民の大多数を占める、素朴でロシア的な生活を送る農民たちとは完全に別の世界に暮らしていたというわけです。

そうした全般に教育程度が高く、洗練された西欧文化の粋を身につけた人々は、大正‐昭和初期の日本文化に多大な影響を与えることになります。

これについては澤田和彦著「白系ロシア人と近代日本文化」が詳しいのですが、

この↓サイトに本の要約あり。
http://www.nichiro.org/12_jigyou/sympo_2002_5sawada.html


特に変化が大きかったのは、芸術面、特に西洋のクラシック音楽やバレエでした。ロシアのそれは当時からレベルが高かったのですが、日本に逃れてきた“白系ロシア人”の中には、そこの第一線で活躍していた名ピアニストやヴァイオリニスト、指揮者等が大勢いたのです。彼らは日本の聴衆に向けたコンサートを開くのみでなく、東京音楽学校(後の東京藝大)等で若き日本人演奏家の指導も行いました。受容からまだ半世紀足らずであった日本の西洋音楽は、これによって飛躍的に発展することになります。

で、例の如く、その中にはユダヤ系のロシア人やウクライナ人が含まれていたのですよ。例えば、ウクライナの生まれの指揮者、エマニエル・メッテル(1884-1941)はロシアの帝室音楽院の教授を勤めたほどの人物で、来日してからは当時の大阪フィルや京大フィルなどを監督しました。クラシック(というかブルックナー?)好きなら誰もが知ってるであろう著名な指揮者、故朝比奈隆の師匠です。作曲家・服部良一(服部克久の父親)の師でもある。その妻は、宝塚歌劇団で舞踏の指導を行ったといいます。

当時、世界的なピアニストであったレオ=シロタ(1885‐1965)もまたウクライナ出身のユダヤ人で、こちらは東京に移住して、そこで東京音楽学校の教授などをつとめるのですが、日本の音楽界のみならず、日本の社会全体に及ぼしたインパクトの大きさという点から言えば、幼少期を日本で過ごした娘のベアテ=シロタ・ゴードン(1923-存命中)の方が有名かもしれない。

この人は日米戦争の直前に米国の大学に留学し、卒業後はそのまま米国籍を取得。その後、日本語が堪能である点を買われて、何とGHQの民生局の一員として戦後の日本に舞い戻ってきます。

そして、何と若干22歳にして日本国憲法の草案作成に参加するという…。

憲法第24条の男女平等の規定は、彼女が押し込んだものらしい。
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/info/beate/beate.html

長々と書いてきましたが、要するに何を言いたいかというとですね、件の掲示板のロシア人たちが言う通り、日本に住むユダヤ人の数はほぼ居ないに等しいくらい少ないものの、全体として日本の近代文化に与えた影響は、人口の割には意外と大きなものがある。ただ、彼らは日本人からは一般に“ロシア人”や“ドイツ人”、“米国人”あるいは単なる“白人”だと看做された(ている)ため、それがユダヤ人によるものだと意識されることはほとんど無い。といった感じでしょうか。

なお、ロシア革命後、約20年間にわたって日本や満洲で暮らしていた“在日・在満ユダヤ人”たちは、第二次大戦における日本の敗戦とともに米国や豪州へと移住していきました。“ユダヤ人は何故日本に居付かないのか?”という問いの答えは結局よく分かりませんが、あのまま敗戦が無ければ、彼らのうちの幾家族かは東京やハルビンに定住していたのかなあ、という気はしないでもないです。


ユダヤ人はなぜ日本に住まないか?(1)

2009-05-01 06:56:43 | ロシア関係

例のごとくロシアのポータルサイト“Mail.ru”を巡回していたら、こんな↓スレを見つけました。

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<教えて!ナロード>


「日本は人々の平均寿命が長く、最も技術の進んだ国だ。それなのに、どうして住んでるユダヤ人は少ないんだろう?」
原文:Почему мало евреев живет в Японии, самая высокая продолжительность жизни, самые современные технологии?
http://otvet.mail.ru/question/4478081/

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日本で普通に暮らしている人間の頭からは、あんまり出てこなさそうな疑問ですね。もちろん「そんなことはない!なぜなら日本人の祖先はユダヤ人だからだ!青森県某村にはキリストの墓があるし、石川県某所にはモーゼの墓もある!」みたいな人もいるかもしれないのですが、それはそれとしてw、「何でユダヤ人は日本に住まないんだ?」とか言われても、大多数の日本人は「いや、パレスチナって遠いし....」みたいな感じで、困惑するだけではないでしょうか。

まあ、尾岸昭著「中国・開封のユダヤ人」によれば、中国の開封には千年ほど前の宋代にイランや中央アジア方面から移住してきたユダヤ教徒のコミュニティがつい最近(といっても100年くらい前だけど)まで存在していたといいますから、歴史的に日本にユダヤ人が渡来する可能性が完全に無かったとも言えない。でも、多分この質問者が言っているのは、そういうことではないでしょう。

ロシアにおける一般的なユダヤ人のイメージは、よく言えば“賢くて金儲けがうまい”、悪く言えば“抜け目が無く、狡猾で金に汚い”といった感じか。その辺りは欧州で昔から流布しているステレオタイプと同じですね。

ロシアの社会には、帝政時代の18世紀辺りから急速に西欧文明、特にドイツの文化が取り入れられますが、その際、元々西方キリスト教圏の伝統に根ざした反ユダヤ主義思想も、一緒に輸入されたのでした。

18世紀の後半、帝政ロシアが現在のポーランド東部、ベラルーシ、ウクライナ西部にまたがる地域を併合し、実際に数百万に及ぶアシュケナージーム(=ユダヤ系ドイツ人。ドイツ語に似たイーディッシュ語を話した)を抱え込むようになると、その後政府は彼らが集住する地域を“ユダヤ人定住区域“に定めて移住の自由を禁じたり、高等教育機関への入学を制限するなど、なにかと差別的な政策を行いました。19世紀の後半に頻発した農民や国粋主義者によるユダヤ人への襲撃(ポグロム)はお上に不満を持つ農民らのガス抜きに使えるとみなしたのか、これを黙認したりもしています。

米国のユダヤ系には、先祖がこの時期にこの辺りから移住してきたという人が結構多い。ロシア革命の際、トロツキー(本名:ブロンシテイン)をはじめとするボリシェヴィキの中枢メンバーがユダヤ人ばかり(八割がたそうだったと言われます)だったのも、偶然ではありません。

そういう古くからの差別感情に加えて、ソ連時代(といっても1970年代から)にイスラエル経由で“豊かな西側”に移住できるのはユダヤ人だけであり、何かとやっかみと反感を買いがちでした。さらに、ソ連の崩壊後、ユダヤ系の実業家たちが欧米のユダヤ系金融ネットワークを利用して資金を調達して政治家を動かし、巧妙に国有資産の払い下げをうけてオリガルヒ(新興財閥)と成り上がっていったことも、大衆のユダヤ人に対するイメージを悪くしました。

ユダヤ系のオリガルヒ‐グシンスキー、ベレゾフスキー、ハダルコフスキー等が次々とプーチンに文字通り“成敗”されていった時、ロシア国民の多くが大喜びしたのは、単に政府のプロパガンダが奏功した、というだけではないように思えます。

そうした文脈を踏まえると、要するにこの質問者が言いたいのは、“ユダヤ人というのは大変抜け目がない連中で、欧米諸国やオーストラリア、イスラエルなど生活水準が高くて金がありそうな所ならどこにでも集まるが、どうして日本に居つかないんだろう?”ってことなんでしょう。

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<ナロードの答え>

回答ナロード1号
多分、入国させてもらえないだけだろ。


回答ナロード2号
日本人になりすますのは難しいんだなwww


回答ナロード3号
日本人は極東のユダ公だ!

※ユダヤ人に対する蔑称“Жид(ジード)”が使われている。なお、普通に“ユダヤ人”と言う場合は“Еврей(イヴレーイ)”。“勤勉で賢い”というユダヤ人のプラスなイメージが、日本人のそれとしばしば被るらしい。


回答ナロード4号
あんたはアフリカでは、黒人をユダヤ人とみなさないわけか。w

※日本人のユダヤ教徒って、どれくらいいるんだろう?


回答ナロード5号
日本人は、自分の国じゃ日本人しか認めないんだろ。


回答ナロード6号
俺が知る限りでは、日本人は外国人とか混血の人間を嫌ってて、そうした連中は彼の国では生きていけないって話だけど。


回答ナロード7号
あそこは人口の99.8%が日本人(大和民族)だよ残りの少数派にしてもユダヤ人にしても、日本じゃ何もできないだろ。随分と辺鄙なところでもあるしね。


回答ナロード8号
奴らは日本が嫌いなんだよ。それだけさ。


ナロード・ベストアンサー>

神道のような宗教や高い人口密度、氏族性などといった日本人の民族・宗教的な生活様式は、事実上の単一民族を生み出したんだけど、奴隷として連れてこられた“朝鮮人”や、北方に追いやられた列島の原住民“アイヌ”を除けば、ユダヤ人のみでなくロシア人など他民族はまったく住みつけなかったんだ。

※”奴隷”って.......「強制連行」ネタをさらに妙な感じに誤解している模様。まあ、一昔前までは日本社会でも全般にそのような認識だったわけで、仕方が無いかも。

で、明治維新までの日本は他国に対して国を閉ざし、嵐で難破して沈みかけた船すら寄港させなかったんだが、当時の“外国との通商禁止”、“キールを備えた船の建造禁止”といった数々の法令も、外国人の来住を妨げていたわけ。

そうした鎖国状態も、米国の提督“ピリー”(原文ママ)の強固な意志に基づく行動によって終わりを迎える。1961年(←原文ママ。なお、これが1861年でも幕府は未だ健在なのであって、どちらにしても間違っている)に“メイジのミカド”(=明治天皇のことらしい)による改革が始まり、その後になってようやく日本は発展を始めた。さらにはその発展は急速なものであり、1905年にはロシアとの戦争に勝利して樺太(サハリン)島と千島列島の全てを獲得した。(←これも間違い。千島列島は日露戦争の前から日本領だったし、樺太については南の半分のみ)。

しかしながら、今でもなお、日本人と結婚した欧州人の女性は自らの生活様式を保ち得ないほど(社会における同化圧力は強い)。

帝政ロシアのユダヤ人定住区域では、そんなことは無かった。ユダヤ人は定住区域の外に住むのを禁じられていたが、そこでは帝国の臣民全てに関わるはずの法が、ユダヤ人には適用されなかったんだ。

※“ユダヤ人定住区域“は上述の通り、今のベラルーシとウクライナ、ポーランド東部などにまたがる広い地域のこと。この辺りは、第二次大戦の前までは欧州で最もユダヤ人の多い地域でした。

ロシアの工業化が、そうしたユダヤ人に対する規制が撤廃されたストルイピン(帝政ロシア末期の宰相。日露戦争や1905年革命で動揺するロシアを建て直すため、反動的な政治を行った)の時代に、ユダヤ人が多数派を占める地域で興ったのは偶然じゃない。革命の参加者にユダヤ人が多かったのも、これが原因かもしれない

※実際には、それ以前から多くのユダヤ人が、モスクワなどの都市部に移住していました。ユダヤ系の革命家が多かったのは、一般にユダヤ人は教育熱心なことから高等教育を受ける人間が多かったのと、あと自らの置かれた差別的な境遇もあって、当時は先進的な社会改革思想であったマルクス主義に走りがちだったからだと言われます。なお、今のロシアの右翼の中には、ボリシェヴィキの指導者がユダヤ系ばかりだったことをもって、「ロシア革命=国際ユダヤ人組織の陰謀」だったと主張する人間も多かったりしますw。

当時のユダヤ人の人口は、帝国の全人口一億2千万人中、800万に及んだ。現在は23万4千人で、未成年は4%。15年もすれば、ロシアからユダヤ人は居なくなるだろう

※ロシア国内のユダヤ系人口がここまで減ったのは、ベラルーシやウクライナが独立して別の国となったのもありますが、第二次大戦中にこの地を占領したナチによる大虐殺や、その後、生き残った人々がイスラエルや北米に移住したりしたことで、人口の絶対数が減ったのも大きな原因です。なお、イスラエルなどへの移住は現在でもなお進行中。
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「ベスト・アンサー」の人の歴史的な知識の怪しさはひとまず置くとして、言ってることは他の人間とほぼ同じですね。日本にユダヤ人がほとんどいないのは、日本社会が閉鎖的だからだという…。そんなに単純な話なのか?w。

のみならず、鎖国を行って外国人の移住をほとんど認めなかった江戸時代の日本よりも、諸々の差別はありながらもユダヤ人の国内居住を認めた帝政ロシアの方がまだマシだったのだ、とでも言いたげな感じなのですが、前述のように、19世紀の後半からはユダヤ人に対するポグロムが起こる度に村が焼かれたり、人が殺されたりしてたわけで…..。彼らも別に、好き好んでロシア帝国の臣民になったわけでもなかったろうし。

そもそも、片や四方を海に囲まれた、比較的同質性の高い封建国家の連合体、片や大陸的な他民族帝国と両者の置かれた歴史的な環境は全然異なるわけで、単純に比べても意味が無いと思うんですがね。

(2)に続く。