歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(4)

2009-05-23 23:57:47 | アタテュルク像問題

今回の“銅像事件“ は、日本に於いては専ら産経新聞をはじめとする“保守派”の媒体から取り上げられているわけですが、その論調と言うか報道の傾向は、 この↓“チャンネル桜“の番組に集約されているように思えます。
これはニコ動のものなんですが、物凄い再生回数ですね。人気があるんだなあ。

要約すると、まず日土間には以下のような↓交流の歴史があった、と。

1890年オスマン帝国(今のトルコはその一部だった)の軍艦が和歌山県串本村の沖で遭難=「エルトゥールル号事件」
    ↓
串本村民がその生存者を救助。民間と海軍を中心に多額の義捐金が寄せらる。  
    ↓
政府は生存者の送還と遠洋航海訓練を兼ねて、海軍の軍艦2隻をオスマン帝国の首都、イスタンブルに派遣。宮廷を中心に、首都のオスマン人士の間で評判となる。
    ↓
1905年、日露戦争で日本が勝利。トルコ人の間での日本の声望はさらに高まる。
    ↓
”イラク・イラン戦争”中の1985年、イラク軍がイラン機の無差別撃墜を宣言する中、イランの首都・テヘランに日本人およそ300名が取り残される。
    ↓
トルコ政府が日本側の要請により、トルコ航空の飛行機を提供、全員助かる。
    ↓
トルコの元駐日大使が日本で講演した際に、“なあに、95年前のお礼ですよ”とニクイことを言う。

そうした“親日国“トルコとの関係を知らず、彼の国が贈ってくれた彼らにとってはまさに“神像”に等しい銅像を粗末に扱う日本人がいたりするのは、ひとえに我々が自らの“正しい歴史”を知らない結果に他ならない。我々は戦後民主主義体制の下、GHQと左翼によって生み出された“自虐史観”を叩き込まれており、戦前の日本の正の側面がことごとく見えなくなっているのだ!何でも、銅像問題のゴタゴタを解決できない柏崎市の市長は社民党との関係が深いらしい。ほら見ろ!やっぱり左翼が悪いんじゃないか!

……みたいな感じですかね。

確かに、“エルトゥールル号事件”は美談です。日土関係の端緒となった事件として、語り継がれて良いでしょう。“テヘランでの日本人救出事件”も同様。永く記憶されてしかるべきです。でも、いずれにしても普通だったら“良い話だなあ”とか“トルコ人とは仲良くしないとなあ”とか、“粋なことを言う大使だなあ”くらいで話は終わりだと思うんですよ。

それがですね、この2つの歴史的事件を隔てる100年近い時間をすっ飛ばして両者の間に強引に因果関係を見出し、“この100年もの間、トルコ人たちはエルトゥールル事件の恩義を連綿と語り継ぎ、御恩返しの機会を待っていたのでした”みたいな、何というか壮大な“傘地蔵”みたいなお話になってしまうのは何故なんでしょう?

例えば、こんな↓感じです。 「新しい教科書を作る会」のサイトより
http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_031015_2.html

このエルトゥールル号遭難の知らせはすぐ和歌山県知事に伝えられ、また明治天皇にも伝奏されました。すると、明治天皇はただちに医者と看護婦を派遣させ、生存者全員を軍艦「比叡」と「金剛」に乗せてトルコに送還されました。日本全国からも義援金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。トルコでは歴史の教科書で取り上げられているため、子供でさえ知らない国民がいないという出来事だそうです。

その95年後、1985年(昭和60年)のイラン・イラク戦争のとき、イランに住む日本人を脱出させるため、トルコが航空機をチャーターして日本人を救出したことがありましたが、これは、エルトゥールル号の恩返しだったことを駐日トルコ大使が明らかにしています。


トルコ大使氏の文字通りの“外交辞令”を、あまりにもベタに受け取りすぎではないでしょうか。彼の地の人々は、ただでさえサービス精神が旺盛なのです。その辺はちゃんと割り引いて考えないと。

“エルトゥールル号事件”は、オスマン帝国末期の歴史においては割と重要な出来事です。時のスルタン(皇帝)アブデュル・ハミト2世が日本まで軍艦を派遣した目的は、日土関係の促進以上に、そのルート上にあった欧米列強の植民地支配下にあるインドや東南アジアに住むムスリムたちに対し、イスラーム世界全体の宗教指導者=“カリフ”でもあった自らの権威を示すことにありました。

当時のオスマン帝国は弱体化し、欧州列強による分割・解体の危険に晒されていたわけで、この航海はいわば、“うちに下手に手を出すと、アジアにあるおたくの植民地のムスリムがどんだけ暴れるか知りませんよ?”という、列強(特に英国)に対するデモンストレーションでもあったわけです。

また、多民族国家であった帝国は各民族の間での民族主義の勃興によって内からも瓦解の危機に直面していたのですが、アブデュル・ハミト2世は自らによる専制支配と、イスラームを国家の統合理念とする“イスラーム主義によって国民の多数を占めるムスリム(今のトルコ人やアラブ人、クルド人、アルバニア人など)を大同団結させることで、これを乗り切ろうとしていました。“遠くアジアの各地で、現地のムスリムに歓迎される強力なオスマン海軍”の姿は、それにも大いに役立つはずだったのです。

ところが、エルトゥールル号が串本で沈んでしまったことでケチがつき、かえって正統性が危うくなる結果を招いてしまったのでした。アブデュル・ハミト2世はそのまま帝国の衰退を止めることはできず、結局その18年後、陸軍の若手将校団が中心になって起こした“青年トルコ革命”により失脚し、帝位を追われることになります。

その節目の一つとなった大事件ですから、当然小学校の歴史の教科書にも載るでしょう。ただし、以前あちらで高校生向けの歴史の教科書を読んだ限りでは、“生存者は日本側の軍艦により送り届けられた”と簡単に記述されているだけで、日本側の献身的な救出活動云々について詳細な記述は無かったような気がします。

まあ、トルコの全体的な通史の上では、この事件はあくまでアブデュル・ハミト2世による対外政策の一つとして記述されているわけです。客観的に見れば、この事件で両国間の外交関係が進展したわけではないし、その後、オスマン帝国が滅亡するまで両国の間に国交が結ばれることもなかった(日本側が欧米列強と同じ条件での不平等条約の締結を求めたのに対し、オスマン側がこれを拒否)ことを思えば、当時の対日関係についての記述に重きが置かれないのは、自然なことかもしれない。

つまり、トルコ人が“エルトゥールル号事件”について知っているからといって、それが日本に恩義を感じるべき“美談”であると捉えているとは限らないという訳です。最近の教科書はどうか知りませんが、そういう記述があったとしても、ほんの何行かでしょうね。

参考:最近の教科書ではこんな感じらしい↓
http://blog.agara.co.jp/kumanosong/2008/12/post-191.html

1890年(明治23年)、
「エルトゥールル号は、
串本沖にて台風に遭い、
580名のトルコ人船員が命を落とす。
串本町民は救出された64~65名の船員を手厚く看護し、
殉職した人々のために支援活動を行った。
集められた支援金は、
時の統治者に渡された」(サライ印刷所/アンカラ2006年)


いや、それどころか、“エルトゥールル号事件”そのものについても、知らない人が多いような気がします。こちらの経験でも、日本に関わりがあるとか余程歴史が好きだとかそういう人たちを除けば、この事件のことを知っているトルコ人に会った試しがない。結構良い大学を出ている人でも同様です。それは日本でも同じでしょう。大抵の人は、社会に出れば受験のために暗記した歴史の知識なんて忘れてしまうわけです。それが普段から接点の無い国とか地域に関するものであれば、尚更のこと。

こんな風に書くと、“お前の周りの人間がたまたま物を知らなかっただけだろう?個人的な経験を一般化するな!”と怒られるかもしれないのですが、そうでもなさそうなんですよ。

ネット上で、ちょっと面白いものを見つけました。知日派トルコ人が“日本人ではなくトルコ人向け”に書いた、エルトゥールル号事件についての解説です。著者はあちらの財務省の官僚で、かつて在日トルコ大使館の経済参事官として日本に滞在したこともあるらしい。馬刺しと梅酒が好物なんだとかw。全般に、あちらの人間は食に関しては恐ろしく保守的で、“東アジア料理なんてどうやっても体が受けつけない“みたいな人が多いのですが、この人は珍しいですね。

↓このサイトに写真あり
http://moneykit.net/from/topics/topics160_07.html

その内容は日本側の情報も織り込んだ詳細なもので、非常に長い。全訳するのはちょっと無理なので、気になった部分以外は省略します。悪しからず。
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「エルトゥールル号の悲劇」  オヌル=アタオール
http://www.denizce.com/ertugrulfaciasi.asp

※まず、“エルトゥールル事件“についての一部始終が語られます。この部分は日本で流布している情報とまったく同じなので、省略。

…….日本で私が驚いた点は、エルトゥールル号の悲劇について、思っていたより多くの日本人が知識を持っていることだった。トルコではこの件について知る人間は少ないのに対し、日本人たちはこの歴史的な逸話をよく知っているのである。多少なりともトルコのことを知る日本人と知り合い、話が弾めば、話題はエルトゥールル号のことになる。悲しい出来事であるとはいえ、2つの民族の間の友好の端緒となった事件として記憶されているのであり、私はトルコ民族の名において、その知り合った日本人に感謝の意を表するのだ。

そうすると、日本人たちは大抵、誇らしさと謙遜が入り混じったような感じで(この文章にパラドクスは無い。なぜなら、日本と言う国は、その最も基本的な定義において極めて矛盾した国だから)こちらから目をそらし、1985年にトルコが日本人たちを救った事件を引き合いに出しつつ、同じく感謝の念を顕にするのである。

※“子供でさえ知らない国民はいない“どころか、“トルコではこの件について知る人間は少ない”ようです。逆に、詳しい日本人がいることの方に驚いているw。

この後は、イラン・イラク戦争でフセインがイラン上空に飛ぶ航空機の無差別撃墜を宣言し、テヘランに取り残された日本の在留邦人が危機的な立場に置かれるまでが語られます。この辺りの経緯も、一般に知られている話なので省略。

…….在イラン日本大使もこの情況を中央に伝えると、政府は直ちに日航に対し飛行機の派遣を要請したが、40年前のカミカゼ精神を失っていた日本のパイロットたちは以下のような返答をした。即ち、イラク軍が無差別撃墜を始めるまでの間にテヘランまで飛行機を飛ばし、在留邦人を乗せてその空域を離脱するのは極めて困難であり、そうしたリスクを冒すことは出来ない、と。

※ カミカゼ精神wいかに昔の日本軍でも、民間人を満載した旅客機で特攻なんてしなかったと思うけど。

かような絶望的な状況を、在イラン日本大使が親しい関係にあったトルコ大使に伝えたところ、その情報はトルコの首都アンカラに伝えられ、当時のオザル大統領の耳にも達することとなった。また、かつての伊藤忠商事の在トルコ駐在事務所長で、オザル大統領の友人でもあったモリナガ氏も大統領に電話をかけ、その助けを請うたのだ。考えている時間は無かった。オザル大統領は直ちにトルコ航空に命じて……

※“エルトゥールル号”云々の話はでてきません。当時の大統領であったトゥルグット=オザル氏は後のトルコの経済成長の基礎を築いたとされる功労者ですが、同時に歴代大統領の中では最強の日本好きでした。個人的に、日本人の知己も多かったらしい。この文章にもあるように、この大統領に対して公私双方のチャンネルを通じて日本からの要請があり、その“鶴の一声”でトルコ航空機の派遣が決まったと考えるのが自然でしょう。

後にNHKがこの事件をネタにして“プロジェクトX”を作った際、当事者たちは誰も“エルトゥールル号事件”のことなんて知らなかったと証言(←出典wiki)していますが、多分事実ではないかと思われます。

この後、トルコ航空機の活躍によって、在留邦人は無事トルコへの脱出を果たします。この部分も省略。


………私をさらに感動させたことがあった。ある朝、妻が娘を公園に連れて行くと、老齢でみすぼらしい身なりをし、歯が全て皆抜け落ちた様なホームレスの男性が娘を可愛がりに近づいてきた。彼は彼女らがトルコ人であることを知ると、“あなた方は我らの同胞をイランで救ってくださった”と例の事件について説明。しばらくその場から姿を消すや、5分くらいで戻ってきて、ポケットの中の僅かな所持金で店から買ってきたであろうスナック菓子を、娘に与えたのだ。

※いやいや、これはないだろうw。まさに保守派の人たちが言っている通りで、“作る会”の教科書を読んだり、“チャンネル桜”を見たりしていない普通の日本人は“テヘラン事件”なんて知らないわけで。この人は“テヘラン事件”が1980年以来、日本人の間でずっと語り継がれてきたかのように誤解しているようです。でも一部の日本人もトルコ人について同じことを言っているわけだから、仕方ないか。

まあ、こんな感じで、あちらの人は話すにせよ書くにせよ、妙なサービス精神を発揮して話を膨らますことが非常に多いw。これはトルコ人の読者向けに話を面白くしているわけですよ。例の、元駐日大使が言いだしたという“エルトゥールル事件の恩返し”説も、最初に出てきたのは日本人相手の講演の場だったといいますから、多分こんな感じだったのではないでしょうか?

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こういうのを読んでると、やはり“百年間恩義を忘れないトルコ人”説は、保守派の人たちの単なる願望の投影ではないかと思えてくるのです。

エルトゥールル号事件とテヘラン事件、それに今回の銅像事件の間の因果関係を本気で信じている人というのは、一体トルコをどういう国だと考えているのでしょうか?

何しろ、百年近く前の海難事件とその際に外国人から受けた恩義の記憶が連綿と受け継がれ、子供ですら知っていたりする国です。あたかもその間、トルコ社会には何ら変動がなく、時間が止まっていたかの如し。そして、そこに住む人々は善良で純朴であり、日本についてはエルトゥールル号事件以来というもの、ロシアに戦争で勝ったとか、何故かそういうプラスの情報しか得ていない。それゆえに日本人のことを大層尊敬している。実に親日的だ。

….って、どれだけ辺鄙な所にあるんですか?トルコは?絶海の孤島とかですかね。

ところが、最近になって日本に彼らが崇拝する神像を送ってみたところ、それが地震で転倒。そのまま放置されてしまった。怒り狂ったトルコ人は、一瞬にして“反日国民”になってしまいましたとさ…。.

善良と言うよりは、何だか物凄く頭が悪そうです。“トルコ人、嘘ツカナイ”とか、“俺、オマエ、好キー”みたいに助詞抜きの日本語を喋りそうな、そういうイメージですね。自分の知っているリアルなトルコやトルコ人とは、大分感じが違う。というか、こんなトルコ人いないよw。今回の騒動でこんな風に考える日本人が増えてしまったとしたら、彼らが気の毒でなりませんw。

でも、件の自己の願望をトルコ人に投影したい人たちにとっては、多分そういうことはあまり関係が無いのかもしれない。だからこそ、大してウラも取らずに“トルコ人の対日感情が悪化している”なんてことが書けたり、言えたりするんでしょう。彼らに必要なのは、ただかつての大日本帝国の善き行いを証言し、彼らに自信をもたらしてくれるような他者なのだと思います。芝居のカキワリのようなものだと言ったら、言いすぎでしょうか?恐らく、ここでの“トルコ人”を“台湾人”や“インド人”に入れ替えてもそのまま話が通るのではないか?

エルトゥールル事件に関わった明治人は、別にトルコ人から何らかの見返りを期待していたわけではないはずです。串本の人々は単に目の前の死にそうな人々を助けただけなのだろうし、日本中の救援募金に応じた人々も、異境に殉じた船乗りたちをただ気の毒に思ったからでしょう。政府が乏しい予算を割いて生存者をトルコに送ったのだって、確かにその目的の半分は海軍の遠洋航海の訓練であったかもしれませんが、残りの半分は純粋な善意であったと思われます。

そうした彼らの侠気は、それ自体で誇るに値しますよ。わざわざ脳内で、それを担保するための“親日的で義理堅いトルコ人”をでっち上げる必要などまったくない。

それと同じで、今の日本というのは無理して「親日国」を作り出さねばならないほど世界から孤立しているでしょうか?また、近代日本の歴史や文化も、これを褒めてくれるギャラリーが居ないと自信がもてないような、そういうシロモノでしょうか?

自分は全然そうは思いません。

もしそうした認識を持つ人々が居るとしたら、彼らこそ文字通りの“自虐史観“に囚われた人々でしょうね。

→(5)に続く