goo blog サービス終了のお知らせ 

歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(10)

2010-03-06 23:40:49 | アタテュルク像問題
→(9)からの続き

論評ハルク9号
日本人ですら偉大な我らがアタの価値を知っているというのに、我らが同胞にまだ知らないのがいるというのは、何とも悲しいことじゃないか?


論評ハルク10号
メルスィンには「串本」通りがある。


論評ハルク11号
地方に住む日本人ですらアタテュルクの価値が分かっているというのに、こっちじゃ分からない奴がいるんだな。


論評ハルク12号
偉大なる領袖ムスタファ=ケマル=アタテュルクは今なお全世界で評価され、尊敬もされているし、銅像も建てられている。

でも、我が国だと、特に近年は極端な敵意の中に置かれているな。銅像は破壊を被ったり、変な色のペンキで塗られたりしているわけで

※ トルコでは全国各地のある程度以上の大きさの町には必ずアタテュルクの像が建っているが、その密度と数の多さ、それに神格化の度合いは旧ソ連諸国でのレーニン像(国にもよるが、例えばロシアなんかだと、今でも田舎の方には結構残っている)や、中国国内での毛沢東像に匹敵するかもしれない。

近年では、世俗主義とイスラーム抑圧の象徴として、急進的なイスラーム主義者から危害を加えられることが多くなっている模様。これについては、大分前
のこのエントリーを参照



論評ハルク13号
ムスタファ=ケマルの価値は地方の日本人でも認めていると言うのに、その故国でなされる侮辱は数知れず、またその功績が罰されるような土地。それがトルコという国だ。


論評ハルク14号
日本人が銅像を建てる一方で、こっちじゃその(=アタテュルクの)遺産に目を光らせてる奴がいるってわけだ

※“アタテュルクの遺産=現在の世俗主義体制”を、イスラーム主義勢力が転覆させようと企んでいるのだ、と言いたいらしい。


論評ハルク15号
日本はトルコを愛する唯一の先進国なんだ。
俺たちもできる限り彼らを助け、敬意を示さないといけない

※愛しているかどうかは分からないが、とりあえず、日本人は欧米キリスト教世界に遍く存在する“歴史的な”トルコ人に対する偏見からは無縁である。その点は両者にとって、良いことだと思う。


論評ハルク16号
俺たちは、日本人みたいにはなれなかったんだよ。彼らに悪いな。こちらでは何年もの間、我がケマルへの不敬行為がなされてきたし、その業績も省みられなかった。残された共和国を護る努力もされなかった。日本人のこの堂々たる振る舞いには心から感謝するよ。我が親愛なるトルコ民族もこうでありますように。アタが我々に残した価値を護り継いでいくことを望む。
------------------------------------------------------

ここに書き込んでいる人のほとんどは世俗主義者にして、熱心なアタテュルクの信奉者ではないかと思われます。そもそも、アタテュルクが嫌いな人(もしくは、無関心な人たち)は、単純に“外国のどこどこでアタテュルク像が建てられた”なんてニュースに興味は持たないだろうし。

それだけに、ニュースに対する反応は2007年時にアタテュルク像問題が報道された時のそれと、ほとんど同じですね。

2007年時:

“日本人たちは自らが地震で苦しんでいるにも拘わらず、被害を受けたアタテュルク像の心配をしてるんだぞ!そういうわけで、お前ら(=一般トルコ人。特に宗教っぽい人たち)もイスラームなんかに現を抜かしてないで、もっとアタテュルクを敬うんだ!


そして今回:

“アタテュルクは世界中の人々から崇敬されており、日本の田舎にまで大きな騎馬像が建つほどだ。だから、お前ら(=一般トルコ人。特に宗教っぽい人たち)も変な気は起こさずに、もっとアタテュルクを敬え!

みたいな感じで。

まあ、注目すべきは、銅像の移設が決まるまでの経緯に、誰一人として関心を払っていないことですかね。

つまり、2007年に報道された柏崎市における銅像問題なんて、普通のトルコ人は既に忘れているか、あるいは最初から知らないか、のいずれかではないかという話で。

というか、以前のエントリーでも触れた通り、当時、事件はどちらかといえば“美談”として報道されていたようなので、覚えていた人たちにとっては、むしろ“美談”に“美談”が重なったことになるかも....。

一方、同じくデミルタシュ記者によって書かれた長い版の記事(「彼らは巨大なアタテュルク像を建て、観光客を待っている」)はその何となく不思議なタイトルのためか、真面目な世俗主義者以外の読者も書き込んでいるようです。

ニュースサイト“http://www.haber7.com”のコメント欄は以下の通り。  

----------------------------------------------------
<ハルクのコメント>

論評ハルク1号
俺たちにそういう義理は無いけども、アタテュルクの銅像を見に向こうへ行こうじゃないか....ハハハ....


論評ハルク2号
全然笑うところじゃないだろ。俺らのことが分かっているという点では、この日本人たちは賢い人々だと俺は思う。彼らを馬鹿にしてもロクなことは無いぞ。でも、トルコ人がそれに金を使うとは思えないけど。


論評ハルク3号
日本人たちも、今度ばかりはダメな金の使い方をしているな。わざわざ金を払ってまであんな所まで行かないよ。ケマリストでも行かないって。無駄遣いだよ。

※ アタテュルクの名“ケマル”をもじった造語で、トルコではアタテュルクの敷いた世俗主義体制の支持者を指す。蹴鞠の選手ではない。


論評ハルク4号
ていうか、この銅像、アタテュルクに似てねえじゃねえか。どうすんだよ。その抜け目の無い皆さんは。
------------------------------------------------------

何かタイトルだけに反応しているだけのような感じですがw、あんまりイデオロギーがかってない、普通のトルコ人の反応は大体こんなものではないですかね。

もちろん、彼らもそれなりに“建国の父”を尊敬してはいるんでしょうが、それが個人のレベルで銅像やら肖像の崇拝に結びつくかどうかというのは、また別の話で。

まあ、ともかくも、 三井田市議はこのような↓ことで悩む必要はまったく無いと思われます。

>本来であれば、柏崎市で引き取り、柏崎市から和歌山県串本町に移設す
>るのが筋であるが、今回のように一旦、トルコ共和国に返す(駐日トルコ
>大使館)かたちになったのは、恥の極み。今年、是非、トルコに行
>き、関係者の皆様にお詫び申し上げたいと思う。

いったん引き取った銅像を再び手放すなど、柏崎市の側に不手際があったのは確かですが、これまでの経緯を俯瞰的に見れば、

結局は、トルコ大使館(大元はトルコの文化・観光省)が柏崎市の商業施設に寄贈した銅像を、同市の別の民間企業がまた大使館に返還したというだけの話ではありませんか。

しかも、トルコ大使館と串本町の双方が望んでいた銅像の串本移設も、スピード実現するのです。もし、例の“市に返すの返さないの”という泥仕合が続いていたとしたら、今後どれほど時間がかかっていたか分かりません。

そんなことは恥じなくてもよいでしょう。

恥じるべきことは、他にいくらでもあるんじゃないでしょうか?

既に賞味期限の切れた政争のネタにしぶとく執着する往生際の悪さ

とか、


ネットで少し調べるだけでもボロが出るようなダメな情報工作

とか....。

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(9)

2010-03-05 23:33:57 | アタテュルク像問題
→(8)からの続き

さて、詐欺師やデマゴーグの話はこれぐらいにして、“アタテュルク像の串本移設”(というか、実質的には“アタテュルク像の串本建立”ですが、)を報じたあちらの新聞記事への一般トルコ人の反応を見てみましょう。

ヒュリエット紙のサイトに載っていた短い版の記事(「アタテュルク像、串本へ」)には、結構たくさんコメントがつけられていました。

-------------------------------------
<ハルクのコメント>


論評ハルク1号
残念なことだ!我が国の救い主たる偉大な領袖のことを、日本人ほどに気遣えないとは。日本人たちがアタの銅像を建てようとしている時に、こっちじゃそれを倒そうと頑張ってる奴らがいるわけで。

※“アタテュルク”の愛称。


論評ハルク2号
驚くことじゃない。世界のどの国に行っても、思いがけない場所でアタテュルクの記念碑やその名にちなんだ大通りにでくわすだろうさ。つまり、世界はその偉大さに注目してるってことだ。

でも驚くべきなのは、何事においてもアタテュルクに恩義があるはずのこのトルコ共和国で、彼を中傷する人間がいるってことだな。

※ アタテュルクにちなんで名づけられた通りや記念碑は、確かに色んな国にあるのだが、“世界中どこでも”というのはちょっと言い過ぎかもしれない。ちなみに銅像に関して言えば、トルコ国内では軍服姿と背広姿の双方が目に付くものの、国外だと専ら背広姿のような気がする。


↑中央アジアのクルグズスタン(キルギス共和国)の首都、ビシュケク市内の公園に建つアタテュルク像。普通に背広姿である。ちなみに、この台座の上にはかつて小さなレーニン像が建っていた。 撮影:管理人


↑上の銅像の台座。“近代トルコの創設者”と、トルコ語(上)とクルグズ語(下)の二言語で書いてある。 撮影:管理人


ネット上で見つけた、メキシコの首都にあるというアタテュルク像。これも背広。

ネット上では、日本で問題となっている件の騎馬像が“平和憲法を持ち軍事的なるものに強いアレルギーを持つ”日本社会に配慮して“敢えて”軍服姿にしなかった云々という説が散見されるが、

例↓
http://www19.atwiki.jp/torco/pages/23.html#id_f21c9d53

ムスタファ・ケマル・アタテュルクとはトルコ共和国の初代大統領であり、トルコ本国では救国の英雄として尊敬されております贈られる際には、日本は軍国主義を嫌うとの理由で、軍服を着ていない銅像が贈られたのです。このことからも、両国の友好を尚一層発展させたいとの思いが受け取れます。

他国の例を見る限り、そういうのはどうも怪しい。

そもそも、外国に自国の偉人やら英雄の像を贈るに際して、わざわざ軍服姿のものを選ぶ国なんて、今どき(少なくとも先進国では)殆ど無いのではないか。

件の騎馬像の希少価値は、やはりタキシード+マント+騎馬と言う組み合わせの奇妙さにあるように思える。


論評ハルク3号

この素晴らしいニュースを伝えてくれたヒュリエット紙で働く人たちに、心から感謝。あと、日本の人々が我がアタテュルクに示してくれた心遣いにも感謝したい…。我らがアタのことが理解できない奴らは、このニュースから教訓を得ればいいんだ。


論評ハルク4号
驚くべきことじゃないか?我らが信心深い市長殿は(アタテュルクの)銅像を撤去しようと頑張ってるのに、日本人たちは建てようとしていると…..。アンカラのウルス地区にある銅像って何でまだ撤去されないのかね?気になるな。

※トルコの首都であるアンカラの中心部、ウルス地区にある騎馬のアタテュルク+トルコ兵の像。救国戦争の勝利を記念したもので、国内に無数にあるアタテュルク像の中では恐らく最も有名なものだが、反世俗派はこれすらも撤去しかねないのだ、と言いたいらしい。

ところで、この銅像は最近、別な意味で色々と大変なことになっている模様。以下、東京外語大のサイトにあったミリエット紙の記事から引用。
 


ウルス広場のアタチュルク像、悲惨―金ぴかの次は焦げ茶色

2009年10月17日付 Milliyet紙

金色に塗装されたウルス広場のアタテュルク像の清掃作業が行われた。しかし元の色には戻らなかった!

アンカラ広域市はウルス広場の歴史的なアタテュルクのブロンズ像の上に付いた鳥の糞の清掃を望んでいたが、清掃会社は市に「気に入られよう」としてこの像を金色に塗装していた。清掃作業が完了し大部分の金色の塗装は取り除かれたが、元の色を失った像は今度は汚らしい茶色になった。アンカラ広域市当局による、10月13日のアンカラの首都制定記念日を前にしたウルスのアタテュルク像清掃依頼は悲惨な結果に終わった。

■50人のグループによる清掃
広域自治体の定期清掃と修繕作業を行っているセルキム清掃社は、像のところどころ黄ばんだ部分を基に、82年の歴史を持つ記念碑を、元の色であると考えた金色に塗装した。この失態が明らかになったあと、広域市の都市美観課の監督のもと50人の作業グループが作られ、像の修復作業を始めた。このグループのなかにはセルキム清掃社の社員も含まれていた。

■足が石灰のように…
この作業チームには4人の彫刻家も技術的支援を行った。作業の結果、像の金箔の色は大部分が清掃されたが、今回も像の汚らしい茶色になってしまった。金箔の色は今でも一部に残り、アタテュルクが乗る馬の左後ろ足は所々石灰のような色になった。責任者たちは、清掃作業がアブディ・イペキチ公園の「手」の像や人権記念碑も手掛けたメティン・ユルダヌル氏の監督のもと行われたと話した。


清掃作業を監督したメティン=ユルダヌル氏というのは、どうやら上記の日本にあるアタテュルク像に関する記事の中で、その製作者として触れられていた彫刻家、ユルダヌル氏と同一人物らしい。タキシード+マント+騎馬の組み合わせには何やら尋常でないものを感じたが、全てこの人のセンスだということか。

まあ、金ぴかのアタテュルク+トルコ兵に比べればまだマシかもしれないけど。

黄金のアタテュルク像….これだけ見るとトルクメニスタンかどこかのようだ…。

 

論評ハルク5号
日本よ有難う。貴国は国際社会における、我らが真の友好国の一つだ。


論評ハルク6号
俺たちの政府は恥じるべきだな。日本の皆でもアタテュルクの価値を俺たちよりもよく知ってるし、尊敬もしてるんだぜ。


論評ハルク7号
メルスィンの串本大通りのことも取り上げればいいのに。誰も関心を払ってないぞ。

※メルスィン:串本の姉妹都市である、地中海沿岸の港湾都市。市内にはエルトゥールル号殉難者のための慰霊碑と“串本大通り”と名づけられた通りがある。串本町のサイトに写真あり。


論評ハルク8号
我らがアタテュルクは、間違いなく20世紀における最も行動的にして最もカリスマ的な指導者の一人であり、死後70年が経った今もなお、世界での威信は増すばかりだ。

にも拘わらず、その故国において彼を忘却させようとする工作が行われているのは、何とも残念なことだな。これというのも、帝国主義勢力と神政(イスラーム)国家の前に立ちはだかる唯一の障害こそ、アタテュルク主義だからだ

※現在トルコでアタテュルク像が蔑ろにされがちなのは、欧米列強の手先かイスラーム原理主義者の陰謀によるものであり、トルコ人がアタテュルクへの信奉を捨てれば、トルコは直ちに神政一致のイスラーム原理主義国家か欧米列強の属国になってしまうのだ、みたいなことを言いたいらしい。

トルコのアタテュルク信奉者の言うことはまさにそこに尽きるのだが、この人の言い分はその中でも特に教条主義的な印象が強い。

というのも、確かに1920年代の、救国戦争からトルコ共和国建国にかけての時期であれば、“アタテュルクを中心とする世俗主義勢力vs政教一致のオスマン帝国政府+それを支援する列強(特に英国)”みたいな図式も有り得ただろうが、昨今の中東情勢を思えば、欧米諸国(特に米国)でトルコがイスラーム回帰するのを望む国なんて一つも無いのではないか。むしろ、世俗主義国家であり続けて欲しいと願っている所が大半だろう。

それと、アタテュルクの示した世俗主義路線を堅持するのと、アタテュルクに対する個人崇拝を強化することは、そもそも別の話であるはず。

生前のアタテュルクは徹底的な合理主義者であり、自身の像そのものがあたかも土俗信仰における“土偶”の如く、崇拝の対象にされることなど望んでいなかったのではないだろうか。

こういった↓あちらの新聞記事を読んでいると、つくづくそう思えてくる。以下、同じく東京外語大のサイトより引用。


 巨大アタテュルク像開幕式にCHP市長「自分なら作らせなかった」

2009年09月12日付 Radikal紙


出展:www.arkitera.com

イズミルのブジャで、高さ42mというトルコで最も大きく、世界でも10番目に大きい彫像プロジェクトが、3年で完成した。

アタテュルク像は先週、CHP(共和人民党)党首デニズ・バイカルのイズミル訪問中に公開されると言われていたが、ブジャ市長エルジャン・タトゥに反対する市議会議員たちの圧力によって、除幕が延期されていた。

アタチュルク像は、昨日、CHP(共和人民党)イズミル選出議員アフメト・エルシンとイズミル広域市長のアズィズ・コジャオールが参加した除幕式で公開された。420万トルコ・リラという費用のため、少なからず議論を巻き起こし、前市長ジェミル・シェボイとそのプロジェクト・チームが告訴される原因ともなった胸像が公開された。

10周年行進曲の伴奏のもと行われた除幕式で、CHP所属の新市長は、「自分だったら作らせなかった。400万トルコ・リラを学校や寮の建設にあてた」と述べた。

※2010年3月現在のレートで、約2億4千万円に相当。

除幕式前と最中には、レーザー光線ショーが夜空を彩り、8分の間、花火が打ち上げられた。像は、42mという高さで、トルコでもっとも大きく、世界でも10番目の大きな彫像プロジェクトとして知られている。アタテュルク像は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロにある高さ38mのイエス像よりも高い。

アタテュルク像は、ブジャ市チャルドゥラン地区のバイパス道に面した岩場で3年前に建設作業が始められた。初めに、地盤調査と鋼板による静的載荷調査が行われた。建設に際して450トンを上回る鋼板が用いられ、3層のショットクリート(吹き付けコンクリート)が施され完成した。

彫刻家ハルン・アタライマンによる像の建設にあたっては、9月9日大学をはじめとして、25の大学が協力した。


この話にはさらなるオチがあったようだ。そのことを報じた記事を見つけたので、こちらで訳してみた。元々の出展は“イェニ・アスル”紙

「400万トルコ・リラの胸像、最初の雨でぼろぼろに」

原文:4 milyon TL'lik mask ilk yağmurda döküldü

出展:イェニ・アスル紙

2009年11月19日 

文責:カーディル=ケマルオール

ブジャ市の元市長、ジェミル=シェボイの主導で建設されたアタテュルクの胸像のあちこちにできた白いしみが、見る者を驚かせている。

ブジャ市の前市長ジェミル=シェボイ氏の主導により、イズミルでも高名な芸術モニュメントを建てるべしとの主張の下、イェシルデレのバイパス道の上の方に400万トルコ・リラもの予算を費やして巨大なアタテュルクの胸像が建設されたわけだが、その胸像の有様が、見る者の心を痛ませている。

この季節で最初の雨の後、42メートルの頭部像のあちこちに大きな白いしみができてしまったのだ。本紙編集部に電話してきた人々は、こうした状況に憤りを示していた。

この件に関して、ブジャのエルジャン=タトゥ市長は、“このプロジェクトは皆で一緒にどうにかするものです。プロジェクトを担当している技術者、建築家、請負会社の全員でこの見苦しい外観の原因を究明し、その解決に必要な措置を行うと約束しましょう”と釈明。

件の胸像の建設を請け負った事業家のシェレフ=ユステンダー氏は、以前にブジャ市を対象に行われた“蔦作戦” (←詳細は不明。とりあえず、何らかの落ち度があったらしい。)においても、論議の的を生み出した張本人の一人となっているわけだが、先の9月9日に除幕式が執り行われたこのアタテュルクの胸像については、通常よりも2トン分も濃密にコンクリートが使われているので、所々白くなるのは当然のことだと説明しつつ、“胸像は時間が経てば本来の色となり、背後の崖と同じ色を持つことになるだろう”と述べた。

最近の9月9日の除幕式にCHP(共和人民党)のデニズ=バイカル党首が直前で出席を取りやめたことで、世論において再び議論の的となっているこの胸像について問われたブジェの前市長、ジェミル=シェボイ氏は“背後の崖と胸像は同じ色であるべきだとは思っているが、着色の作業は私の任期に行われたものではないので、こちらが口を出すべき話題ではない。それは皆が知っていることだ”と返答。

建築技師会議のイズミル支部代表、オメル・ザフェル=アルク教授は、胸像の最近の状態はまだ見ていないとしながらも、“費やした予算に見合った丈夫さが必要である”とコメントした。


何というか、昔、政府が地域の振興のために各地方自治体にばら蒔いた“ふるさと創生資金”(だったかな?)で、どこかの市か町が話題づくりのために“黄金のこけし”を作ったとか、作らなかったとかいう話を思い出した。

ちなみに、世界で最も巨大なレーニンの頭部像(胸像ではなく、本当に頭だけ)は、ロシア連邦の構成共和国の一つである“ブリャート共和国”の首都、ウラン・ウデの中心部にある。 

→(10)に続く

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(8)

2010-03-04 21:52:43 | アタテュルク像問題
→(7)からの続き

2010年の1月4日にアンカラで開かれた“トルコにおける日本年”の“オープニング式典”で、岡田外相は“開幕宣言”以外にいかなる発言を行ったのか?とりあえず、ネット上の日本語情報の中にそれが分かるようなものはありませんでした。

一方、トルコ語の方はどうかというと、各新聞ともこの式典の模様を派手に報道しています。ただし、その焦点は岡田外相よりも、専ら、同じく式典に出席していたトルコ側の代表者、エルトゥールル=ギュナイ文化・観光相に当てられていますね。

今回の“トルコにおける日本年”の運営は、日本側は外務省が中心になっているのですが、対するトルコ側は“文化・観光省”です。このギュナイ文化・観光相は、同省のトップなのですよ。

日本の外務省のサイトでは、こう↓あります。

-----------------------------------------------
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_okada/turkey_10/gh.html 3

.「日本年」オープニング式典  岡田外務大臣、ギュナイ文化観光大臣(トルコ側における「日本年」主管大臣)が出席し行われた。
-----------------------------------------------


で、そのギュナイ文化・観光相について報道しているあちらの新聞記事の中に、非常に興味深いものを見つけました。

大手の新聞の一つ“サバフ”紙の2010年1月6日付けの記事なのですが、この記者は、どうやら1月4日のオープニング式典に参加していた駐トルコ日本大使とギュナイ文化・観光相の両者を取材し、話を聞きだしたようなのです。

記事の内容は以下↓の通り。

-----------------------------------------------
 「カイセリに日本領事館開設の予定」
原題:Kayseri'ye Japon Konsolosluğu açılacak
http://www.sabah.com.tr/Dunya/2010/01/06/kayseriye_japon_konsoloslugu_acilacak
サバフ紙 2010年1月6日 ヒュリヤ=カラバール記者

※カイセリ:トルコ語でKayseri。トルコ中部の都市。

本紙に対し、2010年の“トルコにおける日本年”を評価すると語るノブアキ=タナカ日本大使は、カイセリに日本の領事館が開設される予定だと発言した。大使はまた、カイセリが選ばれた背景には、アブドゥッラー=ギュル大統領の影響があったことを明らかにしている。

※アブドゥッラー=ギュル現大統領はカイセリの出身。この記事の中に出てくる“影響”云々はそのことを指している。

120年前のエルトゥールル号の沈没以来、日本とトルコの間には友好の橋が築かれてきた。二国間の関係は新たに領事館が開設されることで、今やより一層強化されつつある。

ノブアキ=タナカ日本大使は、カイセリに日本領事館が開設される予定だと述べた。2008年のアブドゥッラー=ギュル大統領による訪日が、大きな喜びをもって迎えられたと説明する大使は、“領事館がカイセリに開設されるのは、ギュル大統領の影響によるものか?”との質問に“その通りである”と回答。領事館の開設は、今年の夏ごろになる予定だと言う。

本紙に対し、2010年の“トルコにおける日本年”を評価すると語るタナカ大使によれば、“両国の人々は、常々互いのことを好意的に見ている。”とのこと。“でも、どちらも相手のことを良く知らない”が故に、文化的な交流が進むのを望んでいるのだと話した。

“アリたち、それにヤセミンたち”

タナカ氏によれば、エルトゥールル号が沈んだ地では、日本人の子供らに“アリ”や“ヤセミン”などのトルコ語名がつけられているとのこと


※ 串本町には“田中有(アリ)”や“田中耶畝民(ヤセミン)”みたいな名前の子供がごろごろいるらしい...って、本当なのか?w

前回のエントリーで紹介したヒュリエット紙のデミルタシュ記者もブログで書いていたが、串本町ではトルコ名を持つのが流行っているらしい。他にも、串本町のトルコ民族舞踊サークルが、姉妹都市であるメルスィン市を訪れて踊りを披露したことを報じた6年前のヒュリエット紙の記事には、以下のような記述がある。


「ビデオで学んだ日本式のスィリフケ踊り(←トルコ中南部、スィリフケ地方の民族舞踊)、人々に感銘を与える」  2004年2月7日   
原文:Kasetten öğrendiler Japon stili Silifke döktürdüler

http://webarsiv.hurriyet.com.tr/2004/02/07/409870.asp

アイーダ=カヤル記者

(前略)

“カツマサ”は“ムスタファ・ケマル”、“ナオコ”は“ヤセミン”

にこのような友好は、民族舞踊に留まらない。その民族舞踊グループに参加している日本人たちは、それぞれトルコ名を持っているのだ。串本市長のカツマサ=タジマ氏はムスタファ・ケマル・カツマサ=タシマという署名を用いている。市長の執務室に入った人々は、あたかもトルコの市役所にいるかのような気分になるという。何故なら、メルスィン広域市から寄贈されたトルコ国旗が壁に貼ってあり、アタテュルクの写真もすぐ後ろに架かっているからだ。なお、市長の夫人、ナオコ氏のトルコ名はヤセミンである。


この辺りの情報を、記者の側が誤解したか、もしくは誇張しているのかもしれないが、このタナカ大使は以前にも現地のTVカメラの前で“アタテュルクを知らないで日本人は務まりません”みたいな発言をしていたりする(このエントリーを参照)ので、本当にそんなことを言った可能性もあり。

日本のTVスターのアユミと、ハディセが務める文化大使をとても重視しているというタナカ大使は、“日本で最も愛されている芸術家はファズル=サイです。私はサイとギュルスュン=オナイが大好きですね。ハディセもとても良い“と語った

※ 1アユミ:高野あゆ美(1973~)のこと。トルコ在住で、あちらで活動している日本人女優。2010年の“トルコにおける日本年”において、日本側の親善大使を務める。

↓日本語の公式サイトあり。
http://ayumitakano.com/


※ 2ハディセ
:ハディセ=アチュクギョズ(1985~)のこと。ベルギーのトルコ移民の家庭に生まれ、現地で歌手としてデビュー。現在はトルコでも活動しており、昨年は欧州圏で毎年行われている歌謡コンテスト“ユーロヴィジョン”にトルコ代表として出場した。2010年の“トルコにおける日本年”において、トルコ側の親善大使を務めている。



なお、トルコでは彼女はチェルケス(自称は“アディゲ)”。現在はロシアに属するカフカス山脈北西部の原住民族で、19世紀に帝政ロシアの南下を避けて大挙してオスマン帝国へと移住。トルコには今なおその子孫が数百万単位で暮らすとされる。)系だと言われているが、実際には父親がクムック人(カフカス山脈の北東、現ロシア領のダゲスタン共和国に住むテュルク系民族)、母親がレズギ人(同じくダゲスタン共和国からアゼルバイジャン北部にかけて住んでいるカフカス系の民族)であり、北カフカスにルーツを持つ点は同じだとは言っても、系統は多少異なる。


※3ファズル=サイ
(1970~);世界的なピアニスト。日本では一般に“ファジル=サイ”の名で知られ、ファンも多い。

↓公式サイト

http://www.fazilsay.net/index.php





※4ギュルスィン=オナイ
(1954):トルコの著名な女性ピアニスト。


天皇の訪土を招請

一方、エルトゥールル=ギュナイ文化・観光大臣は、日本で(地震の)被害を受けたアタテュルク像に関するその後の展開について、日本の大使と協議したと述べた。大臣の言によれば、“6月に建立される方向で結論が出ている”とのこと。

大臣は、トルコにやってくる日本人の観光客数が期待されているよりも少ない点を挙げて、飛行機のチャーターもしくは直行便を増やせば、観光客の数も増加するであろうと強調。また、政府が日本のアキヒト天皇(=明仁、今上天皇)のトルコ訪問を再度招請していることも明らかにした。
--------------------------------------------------

トルコ名か...でも、ここで例に挙がっている“アリ”はアラビア語で“大なる、至高の”を意味する“アリー”に由来する男性名で、同じ起源を持つ“アリ”や“アリー”(地域によっては“ガリ”とか“オリー”もあり)といった名は、イスラーム圏ならどこにでもある名前ですかね。

“ヤセミン”の方は“ジャスミン”を意味するペルシア語に由来する女性名ですが、こちらもまた似たような音の名が広くイランや中央、南アジア方面にまで分布するという...。つまり、いずれもイスラーム圏の、アラビア・ペルシアなど複数の言語にまたがる名であり、“トルコ名”と呼ぶにはどうも違和感があります。といっても、現在のトルコ人の名で圧倒的に多いのはこういう名前なのですが...。

まあ、一応、日本語で言えば大和言葉に相当する、テュルク系の固有語からなる名前もあるので、串本の方々には、是非ともこちらを名乗っていただきたいですね。

“田中斗琉牙(トルガ=「兜」の意。男性名)”

とか、

“田中愛崇(アイスウ=「月と水」の意。女性名)”

とか....。

....いや、そういう話はともかくとして、ここで重要なのは、ギュナイ文化・観光相のこの↓発言です。

>エルトゥールル=ギュナイ文化・観光大臣は、日本で(地震の)被害を受け
>たアタテュルク像に関するその後の展開について、日本大使と協議したと
>述べた。大臣の言によれば、“6月に建立される方向で合意している”とのこ
>と。


原文では、はっきりと“Japon büyükelçi(日本大使)”という言葉が使われています。“Dışişleri bakanı(外相)”ではなく。しかも、日本側から一方的に謝罪なり経過報告を伝えられたといった感じはなく、自らも決定に参加したかのような口ぶりです。

それもそのはずで、実はこのギュナイ文化・観光相も、今年の“日本年”の打ち合わせのために、昨年の10月末から11月初めにかけて、来日していたのです。

それを報じる記事が、ニュースサイト“http://www.dha.com.tr”に載っていました。

--------------------------------------------------
 「トルコへ日本の観光客が押し寄せる」  2009年10月31日
原文:JAPONYA'DAN TÜRKİYE'YE TURİST YAĞACAK
http://www.dha.com.tr/n.php?n=japonyadan-turkiyeye-turist-yagacak-2009-10-30

 エルトゥールル=ギュナイ文化・観光相が、2010年がトルコにおける“日本年”だということで、東京や京都などの都市で会談を行っている。

(中略)

ギュナイ文化・観光相は明日の午前中はトルコ博物館とエルトゥールル号乗組員の殉難碑を訪れる予定になっており、串本市の民族舞踊グループによるトルコの民族舞踊の公演を鑑賞した後、エルトゥールル号研究センターに移動して、沈没地点から発見された品々を見学することになる。

(後略)

 ---------------------------------------------------


この大臣は、トルコ大使館の職員らと串本を訪れた際、現地の土産物屋との間で珍妙な騒ぎを起こしているのですが....そちらについては後ほど項を改めて扱うことになるだろうから置いておくとして、

駐日トルコ大使館が新聞に語った情報によれば、柏崎市のアタテュルク像を所有していた企業は、昨年の10月には大使館への返還を了承していたといいます。

つまり、大臣が来日した同年10月末の時点で問題は既に解決しており、銅像はトルコ側に戻ってくることになっていたということになる。

ギュナイ文化・観光相は、“トルコにおける日本年”のトルコ側主管大臣にして、銅像の元々の送り主である文化・観光省のトップでもあります。それを思えば、この大臣当人が、エルトゥールル号事件120 周年=“トルコにおける日本年”を記念した友好事業の一つである銅像の串本移転・建立計画の決定に関わっていたと考えて、ほぼ間違いないのではないでしょうか。

だとしたら、件の“オープニング式典”みたいなハレの場で、岡田外相がこの大臣らに公的に“謝罪”だの“経過報告”だのをする状況と言うのは、やっぱり考えにくいですね。

というか、明らかに不自然です。

“串本にアタテュルク像が建つらしいぞ!”とか“日土友好万歳”と盛り上がっている席で、いきなり,

“知らないかもしれないけど、あれって何だかよく分からない人の象ってことで、実は粗末に扱われてたんですよね。ごめんなさい。でも、あんた達が神格化してるアタテュルクの知名度って、こっちじゃその程度なんだよね。まあ、安心してくださいよ。今では少しは有名になったから”

みたいなことをボソボソと語りだして、空気を止めてしまう大臣って一体何なんですか?

トルコ側もさぞ困るのではないか?w

→(9)に続く

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(7)

2010-03-03 22:38:24 | アタテュルク像問題
→(6)からの続き

そういう細かい点はさておき、注目すべきは記事の日付けの方でしょう。

三井田市議は、トルコの新聞に例のアタテュルク像絡みの記事が載ったのが4日から5日であることを根拠に

「2010年トルコにおける日本年」のオープニング式典において“アタチュルク像問題についての経過説明と謝罪が岡田外務大臣からあった”と“推測できる”

としているわけですが、

日本の外務省のサイト↓によれば、

-----------------------------------------------------------------
 岡田外務大臣のトルコ訪問(概要と評価) 平成22年1月5日
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_okada/turkey_10/gh.html

岡田外務大臣は、1月3日(日曜日)から4日(月曜日)にかけて、トルコを訪問し、トルコ側要人と会談したほか、「2010年トルコにおける日本年」オープニング式典に出席したところ、訪問の概要と評価は以下のとおりです。

1.主要日程

3日
イスタンブール着

ボスポラス海峡横断地下鉄整備計画等(円借款案件)視察

在留邦人(「日本年」現地実行委員)等との懇談

イスタンブールからアンカラに移動


4日
ギュル大統領表敬

アタテュルク廟(トルコ建国の父の墓所)での献花

日・トルコ外相会談(含、ワーキングランチ)

トルコ外務省大使会議におけるスピーチ(別添)

「日本年」オープニング式典出席

アンカラ発

---------------------------------------------------------------------


岡田外相の「日本年」オープニング式典出席 は2010年1月4日ですね。

でも、ヒュリエット紙のサイトに載っている、トルコ語のそれと同じ内容の英文記事は、2010年1月3日付けなのですよ。

オープニング式典よりも1日早い。

記者は他人の心が読めたのか?

あるいは、例のごとくいい加減なトルコの新聞が日付けを間違えたのか?

どちらも違うでしょう。

この記事を書いたデミルタシュ記者は、

実はその3週間くらい前まで日本にいたのです。

10日間と短期の滞在だったようですが、来日に至った経緯や日本での印象などは、ヒュリエット紙のサイト内に設けられたブログ“Postcard from Japan” (日本からの絵葉書)で、英文にて綴られています。

-------------------------------------------------
「日本からの絵葉書」  セルカン=デミルタシュ 

 <東京に到着>  2009年12月6日  
http://blogs.hurriyetdailynews.com/japan/?p=3

(前略)

私がどうして故国から10000kmも離れたこの国にいるのか、説明した方が良いだろう。まず第一に、日本人は非常に親切なのである。第二に、彼らは私が日本の文化的な豊かさや社会的な調和、それに経済力を我が目で見られるようにと、この美しい国への10日間の旅に招待してくれるくらい、親切なのだ。

来年、トルコでは“トルコにおける日本年”の一環として、日本を紹介する沢山のイベントが催される。2003年は同じような感じで“日本におけるトルコ年”であり、国内各地で150を超えるイベントが開かれた。日本の当局者によれば、その“トルコ年”は大成功であり、トルコを訪れる日本人の観光客数はほとんど3倍になったという。


(後略)
 -----------------------------------------


その中には、在東京トルコ大使館に駐日トルコ大使のアタジャンル氏を訪ねたという記述↓もあり、

-----------------------------------------
<天皇の名前は>   2009年12月7日
http://blogs.hurriyetdailynews.com/japan/?p=8

(前略)

2日目に最後にお会いしたのは、駐日トルコ大使のセルメット=アタジャンル氏だった。私と氏との交友関係は、氏が外交官の報道官であった90年代半ばに遡る。

(後略)

------------------------------------------


また、最後の方で串本も取材に訪れている記述があることを思えば、

---------------------------------------------------
 <(月と)星になったような気分>  2009年12月12日

http://blogs.hurriyetdailynews.com/japan/?p=42

(前略)

一日にも満たない串本訪問の中での筆者の経験は、異なる国民や民族、宗教間の結びつきを強めるには、親切な見通しが常に重要であることを示している。私は世界のこの場所で、まさにそれを目の当たりにしたのだ。

串本市(←ママ)の“アリ”ヨリオ=ヤマグチ氏、“ズュベイデ”アヤコ=ヤマダ氏、“エリフ”トモコ=クシ氏といった職員の方々は、駐日トルコ大使館の武官につけてもらったトルコ名を大変誇りにしており、名刺にまでその名を記しているのである。

(後略)

 ------------------------------------------------


デミルタシュ記者が昨年12月の時点で、銅像が串本に建立されるという情報や、そこに至るまでの経緯を既に詳しく知っていたのは間違いありません

つまり、何を言いたいかというと、

ヒュリエット紙のアタテュルク像の串本建立についての記事は前々から準備されたものであって、それが(トルコ語版の方だと)2010年1月4日に掲載されたのは、同日に執り行われた“トルコにおける日本年”のオープニング式典に合わせた演出だと考える方が自然ではないのかという話です。

そうなると、やはり岡田外相の謝罪+経緯の説明があったという話そのものが、かなり疑わしくなりますね。本当にそんなことを言ったのか?

そういえば、三井田ブログの記事の中には、

>発言した詳細な内容を議事録などのかたちでまだ入手はできて
>いないが


という箇所がありました。“オープニング式典”で“議事録”というのも変な話です。ひょっとしたら、他にも訪土中に発言の機会があったのかもしれない。

と思って、再度、外務省のサイトにあった訪問日程を見てみると、

-------------------------------------------------
3日
イスタンブール着

ボスポラス海峡横断地下鉄整備計画等(円借款案件)視察

在留邦人(「日本年」現地実行委員)等との懇談

イスタンブールからアンカラに移動

4日
ギュル大統領表敬

アタテュルク廟(トルコ建国の父の墓所)での献花

日・トルコ外相会談(含、ワーキングランチ)

トルコ外務省大使会議におけるスピーチ(別添)

「日本年」オープニング式典出席

アンカラ発

 -----------------------------------------------


この中で他に可能性がありそうなのは、4日目の“ギュル大統領表敬 ”と“日・トルコ外相会談”、“トルコ外務省大使会議(トルコ外務省の大使級の官僚が集まる会合)におけるスピーチ”ですかね。

でも、いずれも三井田市議の情報源である“トルコ国内某自治体関係者”が気軽に同席できそうなものではない訳で、

除外すべきでしょう。

一応、その中でネット上に記録がアップされている分の内容を確認してみると、まず、“トルコ外務省大使会議におけるスピーチ”については、日本の外務省サイトで全文が読めますね。“銅像事件”の話など微塵も出てきません。

↓日本外務省のサイトより
 -----------------------------------------
 「トルコ外務省大使会議における岡田外務大臣スピーチ」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/22/eokd_0104.html
 -----------------------------------------

トルコの外務省のサイトには、そのトルコ語訳が載っていました。内容は同じで、やはり“銅像事件”のことは出てこない。

↓トルコ外務省サイトより
------------------------------------------
 Japonya Dışişleri Bakanı Katsuya Okada'nın Büyükelçiler Konferansı’nda Yaptıkları Konuşma, 4 Ocak 2010, Ankara (外務省大使会議における日本の岡田克也外相のスピーチ 2010年1月4日 於アンカラ)
http://www.mfa.gov.tr/japon-disisleri-bakani-katsuya-okada_nin-buyukelciler-konferansi_nda-yaptigi-konusma_-ankara_-4-ocak-2010.tr.mfa
 ------------------------------------------

また、その前に行われた“日・トルコ外相会談”については、トルコ外務省のサイトではその後の共同記者会見での受け答えが記録されていました。長いので訳しませんが、ほぼ上記のスピーチで言ってるようなことを、報道陣に対しても話しています。これも“銅像事件”の話などは出てこない。

内容が気になる方は、自動翻訳ソフト(“土日”よりも“土英”変換の方が良い)でも使って読んでみてください。

-------------------------------------------
Sayın Bakanımızın Japonya Dışişleri Bakanı Katsuya Okada İle Ortak Basın Toplantısı, 4 Ocak 2010, Ankara (我が国の外相閣下と日本の岡田克也外相の共同記者会見 2010年1月4日 於アンカラ)
http://www.mfa.gov.tr/sayin-bakanimizin-japonya-disisleri-bakani-katsuya-okada-ile-ortak-basin-toplantisi_-4-ocak-2010_-ankara.tr.mfa
-------------------------------------------


となると、

やはり1月4日の“オープニング式典”に絞られることになりそうです。

少なくとも、岡田外相が読み上げたと思しき“開幕宣言”には、銅像のドの字も出てきませんけどね...。

(8)に続

アタテュルク像の串本移設報道に対するトルコ人の反応(6)

2010-03-03 01:39:17 | アタテュルク像問題

→(4)からの続き

どこからツッコミを入れるべきか少々迷う所ですが.....

まず、ここで引用・要約されているあちらの新聞記事は、英文のも、トルコ語のも、いずれも大手新聞“ヒュリエット”紙のセルカン=デミルタシュ記者によって書かれたものです。他の新聞に載っているものも同様。

中には、タイトルが別だったり、デミルタシュ記者の署名が無いものもありますが、内容はまったく同じですね。

何故か“要約”しかしない市議の代わりに、全文を訳してみましょう。

トルコ語の方は、長い版短い版の2つがあるのですが、

まず、短い版はこちら↓
----------------------------------------------------
 「アタテュルク像、串本へ」  ヒュリエット紙 2009年1月4日
原文:Kushimoto’ya Atatürk heykeli
http://www.hurriyet.com.tr/dunya/13371453.asp?gid=200

偉大なる領袖ムスタファ=ケマル=アタテュルクの記念碑に、日本から実に真摯な敬意が示された

台座の部分まで含めると7.5mもの高さになるアタテュルクの銅像が、日本の串本市(←ママ)に建てられる。在東京トルコ大使セルメット=アタジャンルがヒュリエット・デイリー・ニュースに行った説明によれば、この銅像の建立は両国の関係の到達点を現すとともに、その将来における発展の可能性を示しているという点において、非常に重要であるとのこと。

※ヒュリエット紙の英語版

銅像は、日本の皇族の列席も期待される、エルトゥールル号殉難事件から120周年にあたる2010年6月3日の追悼式典に合わせて、串本に建立されるものと考えられている。

銅像の日本における冒険は、そもそも1996年に始まった。銅像はかつて柏崎町(←ママ)に建設されたトルコ文化村のため、文化観光省の美術部門が彫刻家メティン=ユルダヌルに依頼したものであり、今から14年前に建立された。村の運営は、2005年の新潟地震(←2004年の新潟県中越地震?)の後に停止。地震により台座が傷んだことから像はそこから取り外され、トルコ大使館の介入により、ある倉庫へと移送されたのだった。

8トンの青銅像は、今再び日の目を見る瞬間を待っている。

-----------------------------------------------------


そして、長い版はこんな↓感じです。

------------------------------------------------------
 「彼らは巨大なアタテュルク像を建て、観光客を待っている」  
 2010年1月4日              
原文:Dev Atatürk heykelini diktiler turist bekliyorlar
http://www.haber7.com/haber/20100104/Dev-Ataturk-heykelini-diktiler-turist-bekliyorlar.php

トルコと北キプロス・トルコ共和国に次いで最も大きなアタテュルク像が、日本の串本市に建立された。人口2万人の観光都市串本では現在、来訪が期待されるトルコ人観光客に注目が集まっている….。

※原文ママ。実際には串本“町”。以下、文中ではずっと串本“市”という呼称が使われているので、各自“市”を“町”に置き換えて読んでいただきたし。あと、この記事では既に銅像が建っていることになっている。

セルカン=デミルタシュ記者

20世紀で最も重要な国家指導者の内に数えられるムスタファ=ケマル=アタテュルクの、台座も含めれば7.5mもの高さになる銅像が、日本近海で沈んだエルトゥールル号の遭難事件から120周年を記念して、串本市に建立されることが決まった。

アタテュルクの胸像やレリーフは、メキシコやオーストラリア、キューバ、チリといった国々にも存在する。とはいえ、この大きさの銅像が建てられるのは、トルコや北キプロス・トルコ共和国を除く第三国では初めて

※ 北キプロス・トルコ共和国:トルコ語だと“Kuzey Kıbrıs Türkıye Cumhurıyeti”、略称は“KKTC”。1970年代、地中海に浮かぶ小さな島国キプロス共和国において、ギリシアへの統合を求める多数派のギリシア系住民と少数派のトルコ系住民の間で紛争が発生。民族浄化(当時はそんな言葉はまだ無かったが)の危険ありと判断したトルコ政府は後者の側に立って軍事介入し、トルコ系住民の多い島の北半分を制圧した。

トルコ系住民らは、トルコの支持の下“北キプロス・トルコ共和国”の分離独立を宣言して今に至っている。以来、島の南北分断は30年以上経った今もなお続いているが、北側の“北キプロス・トルコ共和国”を国家として承認しているのは世界でトルコ一国のみ。

そのために、トルコからここに“入国”するとパスポートには出入国のスタンプが押されるわけだが、トルコの通貨トルコ・リラがそのまま用いられていたり、国際コード無しでトルコ本土に電話がかけられたり、とほとんどトルコの一部のような感じである。

↓国旗もトルコのそれによく似ている。

出典:http://images.google.com

ちなみに、“キプロス共和国”成立以前のキプロス島は数十年間英国の領土だったためか、元からそこに住んでいたトルコ系住民は、外国人と見ると好んで英語で話したがるなど、“北キプロス”成立後にトルコ本土から大量に移住してきた移民とは明らかに雰囲気が異なる。

実際、両者の文化的差異はかなり大きなものがあるようで、首都レフコシャ(ギリシア名は“ニコシア”。冷戦時代のベルリンのように、南北に分断されている)でも両者は互いに別々の街区に住み分けていたりする。


台座の部分まで含めると7.5mもの高さになるアタテュルクの銅像が、日本の串本市に建てられる。在東京トルコ大使セルメット=アタジャンルがヒュリエット・デイリー・ニュースに行った説明によれば、この銅像の建立は両国の関係の到達点を現すとともに、その将来における発展の可能性を示しているという点において、非常に重要であるとのこと。

銅像は、日本の皇族の列席も期待される、エルトゥールル号殉難事件から120周年にあたる2010年6月3日の追悼式典に合わせて、串本に建立されるものと考えられている。

2万の人口にも拘わらず、観光都市としての売出しを試みている串本市の関係者は、アタテュルク像が生み出す特色によって、トルコからもっと沢山の観光客が来るよう望んでいることを明らかにした。

この銅像には、色んなことがあった。

串本に建てられる予定の銅像の、日本における冒険はそもそも1996年に始まった。当時、柏崎町に建設されたトルコ文化村のため、文化観光省の美術部門が彫刻家メティン=ユルダヌルに依頼したという銅像は、今から14年前に建てられた。

※原文ママ。正しくは柏崎“市”。

営利事業であったトルコ文化村は、十分な集客ができなかったことで破産。2005年に発生した新潟地震(=2004年の新潟県中越地震?)の後には、完全に閉鎖されてしまった。地震によって銅像の台座と留め金が痛んだことで倒壊の危険が生じたため、銅像は取り外され、トルコ大使館の介入である倉庫へと移送されたのだった。

日本年に合わせて

銅像が今年中に建立されるのは、今日から様々な行事を伴いつつ祝われるであろう、トルコにおける“日本年”に合わせたものだという点でも、注目されている。

本日アンカラで、日本の岡田克也外相の出席の下行われる式典により、日本年は公的に始まることになる。今年一年もの間、アンカラ、イスタンブル、イズミル、カイセリ、チャナッカレ、ギョルジュック、メルスィンその他多くの都市で行われる行事を通じて、日本の芸術やスポーツ、文化がトルコの人々に紹介されることになるだろう。

着物の展覧会や、和太鼓、剣道の試合、護身術、日本映画の諸作品や世界的に有名なマンガ(絵解きの小説)作品の展示や公開が行われるものと考えられている。

この壮大な企画をスポンサーとして支えているのが、世界で最も大きなものの内に数えられる日本のブランド企業だ。運営委員会はトルコに大規模な投資を行っている約50の企業からなるが、その委員長はトヨタのCEOであるフジオ=チョー(張富士夫)が努める。カジマ(鹿島建設)や伊藤忠といった企業の経営者も、チョーの補佐役として委員会に参加しているのである。

---------------------------------------------

英文のものは、ヒュリエット紙の英語版“ヒュリエット・デイリー・ニュース”で、これらの記事が載る前日=2010年1月3日付けで掲載されたもので、内容は上で紹介した“長い版”のそれとほぼ同じです。

故に本文は訳しませんが、興味のある方は読んでみてください。

---------------------------------------------
 “Erecting Atatürk’s statue in another corner of the world”
Sunday, January 3, 2010 

SERKAN DEMİRTAŞ

ANKARA/TOKYO- Hürriyet Daily News

http://www.hurriyetdailynews.com/n.php?n=erecting-ataturk8217s-statue-to-the-other-corner-of-the-world-2010-01-03

「世界のもう一方の片隅に、アタテュルクの銅像が建てられるということ」
2010年1月3日 日曜日

セルカン=デミルタシュ記者

アンカラ/東京-ヒュリエット・デイリー・ニュース

(以下略)
-------------------------------------------

どの記事も一読すれば分かる通り、エルトゥールル号事件から120周年、かつ“トルコにおける日本年”を記念して串本にアタテュルクの銅像が建てられるという“慶事”が主題になっています。

柏崎とかトルコ村絡みの話題は、“この銅像にはこんな面白い由来があるんだよ”みたいな具合でちょこっと触れられるだけですが、これは別に誰かさんが考えているように、

“両国のため今年のイベントに影響がないよう、ご苦労をされた駐日大使への配慮もあって、以下のようなストーリーになっている”

訳ではなく、

単純に、本筋に関係ない“傍系の”エピソードだからでしょう。

以前のエントリーでも紹介したように、例の“銅像事件”なんてトルコのメディアでは“日本人ですらこんなにアタテュルクを敬っている。お前らもちゃんと敬え”くらいに報道されただけですから、多分、普通の人は誰も覚えていないのではないかと思われます。

市議が英文版の記事ですら全文を引用しなかったのは、

恐らく“一つの部分だけ抜き出してさも全体のように見せる”という、ケチな印象操作の試みがバレるからでしょうね。

しかしまあ、もし仮に三井田ブログの記事を100%真に受けたとして、

>両国のため今年のイベントに影響がないよう、ご苦労をされた駐日大使
>への配慮もあって、以下のようなストーリーになっている

こう↑書いておきながら、

>・新潟地震?により、トルコ文化村は廃業となり、この地震によって銅
>像にも損害があり、保管されていた。しかし、今回、もうすぐ再建される。
>記事によっては「Kashiwazaki:柏崎」の名称が出ておらず、「Niigata:新
>潟」という表記のみで新潟県民皆様へは申し訳ない限りであるが、両国の
>ためにはこのような報道でまずは安心したところ。


その後にこう↑続いたのでは、 読む方は何が“申し訳ない限り”なのか分からないような気が….。

“新潟地震”では新潟全体のイメージが悪くなるから、他の県民に迷惑をかけないためにも、あくまで“柏崎地震”だと言うべきだ!とか、そういう話か?w

だとしたら、不思議な感性の持ち主ですね。

というか、この人はトルコ語版にしても英語版にしても、記事の内容が十分に読めていないのかもしれない。

その辺りは、この↓辺の誤った要約を見ても分かるのですが、

>また、今回のトルコ語を何とか読んで分かったことは、旧柏崎トルコ文化
>村に建立されていたアタチュルク像(重さ8トン、全高7.5メートル)
>は
>・トルコ国外にあるアタチュルク像では一番大きい。|
>・トルコ国内を入れても3番目の大きさを誇る。
>だったことである。


“トルコ国内を入れても3番目”云々というのは、原文の

“Türkiye ve KKTC dışında ilk kez üçüncü bir ülkede dikileceği kaydediliyor.”トルコと北キプロス・トルコ共和国以外の第三国では初めて建立されることになる

を誤読したのでしょう。

あと、北キプロスについては英語の方でもわざわざ

“this seven-and-half-meter-tall bronze statue displaying Atatürk on a horse is the first of its kind outside Turkey and northern Cyprus.”

と出てくるんですけどね。

北キプロスを独立国家であると認識するか否かは人それぞれでしょうが、無視はいけない。

→(7)に続く