歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(3)

2009-05-18 16:06:40 | アタテュルク像問題

→(2)からの続き

“ラディカル”紙やこの“ワタン”紙の記事を引用した掲示板は他にも沢山ありましたが、こちらが見た限りでは、コメントの内容は大方同じでした。件の銅像事件について日本人を非難するようなものや、ナショナリズムを煽るような記述は全く見受けられません。

そういうのはあくまでネット上の話であって、現実社会だと事情は違うのではないか?と言う方もあるかもしれませんが、これらの会社が実際に出している新聞の記事にしても、内容は基本的に同じであるはずなのです。 それに、十数年前ならいざ知らず、ある程度ネットが一般にも普及しつつあるトルコ社会で、ある国に対するイメージを一変させるような事件が、ネット界に一切反映されないことなんてあり得ない。

たとえば、2006年2月にデンマーク等で起こった“ムハンマド風刺漫画化事件”なんかが良い例です。偶像崇拝を禁じるイスラームにおいては、預言者ムハンマドやアッラーを具象化することは固く禁じられているわけですが、デンマーク等の新聞がその禁を破り、ムハンマドを使ったカリカチュア(戯画)を掲載。それが世界のメディアで報道されるや、イスラーム世界全体で大きな反発が起きました。

世俗化が進んでいるはずのトルコも例外ではなく、激昂したムスリムたちによる“反デンマーク・デモ”が幾度となく繰り返されたのでした。

↓参考:当時のトルコの新聞記事の和訳
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News200625_1844.html


その際の写真なんて、ネット上で検索すればいくらでもでてきますし、
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2024987/318171?pageID=1

また、検索エンジンにトルコ語で“デンマーク、ムハンマド、戯画”と入力して検索すれば、新聞記事や掲示板はいくらでも引っかかります。そして、そのいずれにも山のように“熱い“コメントがついている。件の“銅像事件”とは大違いです。

まあ、“戯画事件“の報道は2006年の2月、“銅像事件”は2007年の10月“と時間的な差はありますけど、どちらも1年半以上の時間が経っているわけで、影響力の多寡を比べるには十分な時間ですよ。

トルコに於いて、件の銅像の件で日本について特別ネガティヴな報道はなされていないか、あるいはなされていたとしても、ほとんど世論に影響が無かった、とみなしてよいのではないでしょうか?

そもそも、産経の記事にあった“英BBC放送の調査で、世界有数の親日国トルコの対日感情が年々悪化し、今年は「肯定的30%、否定的47%」と大きく逆転している”というのも、ソースとなったレポートをよく見てみれば、アンケートの設問は“ある国が世界に良い影響力を与えているか否か”であって、別に“好き嫌い”ではありません。しかも、2009年の調査において、トルコの場合はいずれの国についても“否定”の割合が高い。肯定度の高さから言えば、日本のそれは全体で上から4番目とか5番目くらい高めです

↓参考:BBCのレポート(2009年2月)
http://www.worldpublicopinion.org/pipa/pdf/feb09/BBCEvals_Feb09_rpt.pdf


それにも拘わらず、単に日本に対する“肯定“度の数値が前年に比べて下がっている点だけを取り上げて、“トルコの対日感情が年々悪化”している“と決めつけるのは、はっきり言って、想像力が豊かに過ぎると言わざるを得ないでしょう。他の国の“肯定”度も下がり続けている点については、一体どのように解釈するのか?

自分が思うに、そういう錯覚が生じるのは、恐らくその人の意識の中に産経新聞言うところの“トルコ=屈指の親日国”という強固な思い込みがあるからではないでしょうか?トルコにとって、何故か日本は常に特別な存在であらねばならないわけです。

あちらに住んだことのある人なら分かると思いますが、別にトルコ人は特別に“親日的”という訳ではない。基本的に、彼らは遠来の珍客に対しては相手が何人であろうが友好的です。田舎の方に行けば行くほどその傾向は強くなりますが、そういう所で日本人の受けが良いのは、明らかに見てくれが違ってて、彼らにとっては珍しいからだと思われます。相手が中国人であれば「親中的」になるだろうし、モンゴル人であれば「親モ(“蒙”ではなく、あくまで“モ”)的」になるでしょう。

また、客人の出自や出身地について、持てる限りの知識をそれこそ“総動員”して褒めまくるのもあちらでの“礼儀“です。それが教育の程度の高い人間であれば“日本の経済・技術力”だとか“言語的な日土同祖論”みたいなことが話題となり、それが一般庶民であれば、“ソニー製品”とか“ジャッキー・チェン”となるわけです。

で、今から40年とか50年以上前に彼の地を訪れた日本人が、たまたま日露戦争とかエルトゥールル号事件のことを話題に出来るような世代のインテリと会って、それを真に受けて本にも書いた、と。

後にそのイメージが一人歩きして、日本の保守派の間に、“何やら、西方のどこかに戦前の大日本帝国を全肯定してくれる国があるらしい”という話があたかも“プレスター・ジョン伝説”のように広まってしまった、というのが実情ではないかと思われます。元々あまり日本と関係の無い国ですから、好き勝手にイメージされ易い。

自分などは、「遠くて近い国トルコ」をはじめとする大島直政氏の一連の著作元凶とか言ったら大げさですが)だと睨んでいるのですが....。


まあ、そうした諸々のことから推測するに、結局のところ、“アタテュルク銅像事件がトルコ人の対日感情を悪化させている”という説は、“単なる日本人の側の思い込み”である可能性が高い。

産経とかこの運動をやっている人たちの意識の中では、

銅像事件がトルコのメディアで報道された
             ↓
それは日本人を責めるものに違いない 
             ↓  
そのために、トルコでは現在大規模な反日キャンペーンが進行中
          ↓
トルコ人の対日感情、大幅に悪化
             ↓
そして伝説へ......


と、あちらでの報道を何ら具体的に検証することなしに、ひたすら悲観的な妄想を拡大しては、そもそも一般に存在するかどうかも怪しい親日感情が損なわれるのを憂い、大騒ぎしていると言うことになりそうです。

トルコ大使館が絡んでいる以上、一応“国際問題”には違いないのですが、その本質においては“国内問題”のようにも思えますね。ついこの間の“フィレンツェ女子大生落書き事件”と同じで、問題はあくまで日本社会の内側で人々の道徳心を満たすことにあるのであって、具体的な現地の人間との関係の修復や改善とかは二の次のような…..。もし今回の銅像移転運動が失敗したとしても、普通のトルコ人の対日感情は大して変わらないかもしれません。

誤解の無いように書いておくと、個人的には“銅像の移転”自体は意味のあることだと思っています。あれは串本に建てられるべきだ。運動を主導している人々の善意も本物でしょう。ただ、日土双方でそれをメディアが政治的に利用しようとしていることにどうも違和感を感じるわけです。それについては、また後ほど。

→(4)につづく