歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(5)

2010-07-22 23:00:39 | 東トルキスタン関係

→(4)からの続き

読んでいてつくづく思うのですが、

このくだり↓に至っては、

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>分裂主義とそれに対する戦いは、民族問題でも、宗教問題でもありません。 >恐らくは、この百年来、列強の侵略者たちによる中国分割の陰謀を防ぐた
>め、中国人民がこれまで行ってきた戦いの続きなのです。

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何だか、昔日の大東亜共栄圏論者の言い分を聞いているかのような気分になりますね。ただ“アジア”が“中国”に入れ替わっただけで。

要するに、

“白人に支配されるよりは、同じ有色人種に支配された方がお前らにとってはまだマシなんだ。だから、黙って支配されてろ、お前ら!ごちゃごちゃ文句を言う奴はみんな白人の手先認定だ!”

みたいな理屈ではありませんか。

支配される側からしてみれば、白人の帝国主義者も“脳内白人化した有色人種の帝国主義者”も大して違いはないかもしれないし、後者が前者より良きものである保証なんてどこにも無いはずなんですけどね。そういうことはあまり気にしない訳です。

こういうことをやっているのが、今から6-70年前、まさにその“同文同種を唱える脳内白人”による植民地化や属国化を経験した漢民族だというのは、同時期の欧州でゲットーなり強制収容所なりに閉じ込められていた人々+その子孫が、ガザ地区を“巨大なゲットー”にしてしまっているのと同じくらい、皮肉なことですよ。

ましてや、そうした時代に彼ら自身が抑圧された経験(後年の創作も含む)をネタにして、ウイグル人たちに“愛国教育”を施し、“中華ナショナリズム”をかきたてようとする姿勢に至っては、もはや悪い冗談としか思えなかったりします。

この間ウルムチに行った時、宿のTVでは、ほとんど毎日のように、よくある抗日愛国映画のウイグル語吹き替えが放映されていたのですが、その中に、満洲国内の抗日パルチザンを題材にしたものがありました。

満洲国内の漢人学校では日本語の使用が強要され、生徒らは仕方なく日本語を勉強していると。で、そこにある日、関東軍?の高級将校が視察に訪れ、生徒らは日本語の唱歌を歌って歓迎することに。担任である病気持ちの老教師は、無理やり日本語の歌を歌わされる、いたたまれない生徒たちの姿を見て病状が一気に悪化。本番中に血を吐いて倒れてしまうのでしたw。

まあ、実際に血を吐く教師がいるか否かは別にしてw、似たような光景なら、ウイグル人たちは新疆のそこら中で“リアルに”見ているはずです。わざわざドラマ仕立てにするまでもなく....。

というのも、最近の新疆では“双語(バイリンガル)教育”運動が盛んです。ここでの“双語(バイリンガル)”は漢語とウイグル語など少数民族の言語を指しますが、五族協和体制下において漢語を学ぶ日本人があまりいなかったのと同じで、漢人が少数民族の言語を学ぶなんてことは、現実にはほとんどありません。専ら少数民族の側、特にウイグル人の漢語能力を向上させようという運動なのです。

あちらの教育機関には、漢語で授業をやる学校とウイグル語など民族語で授業をやる学校があるのですが、民族語学校の方の初等教育の過程では、長らく漢語の授業がありませんでした。新疆でも南部の農村部などでは初等教育のみで学業を切り上げてしまうウイグル人は多く、お陰で彼らの漢語能力は非常に低い。そうした状況は同化政策......もといw“民族団結”に害をもたらすので、民族学校でも初等教育の段階から漢語を必修化しようというのが、この運動の骨子です。

公務員にしろ民間にしろ、現在の新疆で社会的に上昇するためには、好むと好まざるにかかわらず漢語は必要です。また、別に上昇する気がなくとも、漢語が話せないと本土の方に出稼ぎにいくこともできない。

故に、中流以上の家庭では、これまでも子弟を漢語で授業を行う学校に通わせる傾向が強かったわけです。こうした教育を受けた人々は少数民族は“民考漢”と呼ばれていますが、彼らの中には民族語の読み書きができない人が結構多い。そればかりか、母語が漢語化し、民族語が喋れない人すらいたりします

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少数民族の幼稚園児に漢語と母語の“双語”教育    
【社会ニュース】 2009/05/16(土)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0516&f=national_0516_004.shtml

新疆ウイグル自治区巴州地方政府は漢語とウイグル語のバイリンガル教育を積極的に推し進めている。その一環として、バイリンガルの幼児教育専門の教師を育成中だ。教師の育成には厳しい訓練と試験が実施される。
  
バイリンガルの教師の育成資金は213万元(約3000万円)、訓練には例年、3000人以上の少数民族の教師が参加する。   

現在同州の小学校で2か国語で授業を行うバイリンガルクラスは540クラスあり、バイリンガルの教師は1116人、生徒数は1万2138人。   

同州の少数民族の幼稚園生は1万2900人余りで、そのうちの95%を占める1万2300人は2年間バイリンガルの訓練を受ける。(CNSPHOTO)

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重要なのは、別に政府の強制があろうが無かろうが、少数民族の間には社会・経済的な理由から、子供を漢語化したいという層は確実に存在する、ということでしょう。

こういうのは、どこの植民地でも同じだと思います。もし仮に満洲国があと何十年か続いていたとしたら、漢語よりも日本語が得意な漢人エリート層が出現していたに違いない。

それを思えば、民族学校での早期漢語教育の導入は、ある意味社会のニーズに応じたものだと言えます。

ただ、問題は民族語の方です。“社会的に漢語が重要なのは分っているけども、子供には民族語をしっかり覚えてもらいたい。漢語と民族語のバイリンガルになるのは良いけど、漢語のみ喋れるようにはなってほしくない”、というウイグル人は、こちらの知合いでも結構いるのですが、彼らにとっての“母語で教育を受ける権利”は一体どうなっているのでしょうか?

実は、十年ほど前から高中(=高校)、大学と高等教育に用いられる言語はほとんど漢語のみになってしまっています。既に民族語のみでは高等教育が受けられない状況が出来上がっているというわけです。この上、民族語学校でも早期の漢語教育が始まるとなれば、この先、民族語の話者が実質的に減っていくのは、ほぼ間違いないでしょう。

こうした事情は、ソ連時代の中央アジアの各民族共和国のそれとよく似ているのですが、いかにモスクワがロシア語の普及に一生懸命だったとはいえ、ソ連時代でも高等教育から民族語が一掃される(まあ、理数系は今も昔もロシア語がメインですけど)なんてことはありませんでした

その意味では、やはり中国当局は政策として“漢化”とか“同化”を行っているとか言われても、仕方が無い思われます。

ウイグル人たちは、あのドラマを一体どういう気分で視てたんでしょうね...。
→(6)に続く


“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(4)

2010-07-17 23:15:38 | 東トルキスタン関係
→(3)からの続き

それにしても、この画集に限らず、中共のプロパガンダに出てくるウイグル人等の少数民族は、基本的に笛とか太鼓を持って踊っているか、拳を振り上げて“敵”を糾弾しているかのいずれかですね。

何だか、とてつもなく頭が悪そうなのですよ。

それこそ、口を開いたら、

“ウイグル人、嘘ツカナイ”

とか言いかねない感じでw。

それはともかく、この本では、新疆の“民族団結”を脅かす要素として、二つのテーマに多くのページが割かれています。その内の一つは極端な宗教運動=イスラーム急進主義で、もう一つがこれまで何度も名前の出てきた“民族分裂主義”です。

前にも書きましたが、ここでの“民族”は中国の領域内に住む全ての民族を含むとされる“中華民族”のことです。“民族分裂主義”とはこの“中華民族”の中のある集団を分離独立させようと目論む思想全般ですから、一般的な言い方だと“分離主義”ということになるのでしょう。


「社会安定の維持」



1. 社会の安定を守ることは、少数民族政策における重要な任務です。



2.団結させることや教育、または関係の円滑化などの手段を通じて、民族間および少数民族地域における人民間の対立を、正しく解決しなければなりません。



3.新疆の安定に悪影響を与える危険の主なものは、民族分裂主義と非合法的な宗教活動から生じています。



4.民族分裂主義に対する闘争は長く、複雑で困難なものとなっています。だからこそ、“安定は全てを圧倒するという思想をしっかりと周知させねばならないのです。

※社会の安定を維持するためには、少々の社会的矛盾には目をつぶれ!といった意味のスローガン。この10年くらい頻繁に使われている。

例↓





5.経済発展を加速、人民の生活を向上させ、そして社会の安定を守るための確固とした物質的基盤を築く必要があります。



6. 社会主義的精神文明の建設を強い力を以て進め、少数民族のエリート(=幹部党員)らと民衆の思想、道徳、文明の水準を絶え間なく向上させつつ、安定を守るにあたっての思想的防壁を築かなければなりません。



7.各族エリートと民衆に己が役割を十分に果たさせ、民族分裂主義に反対し、新疆の安定を守るにあたっての鉄の防壁を形作らねばならないのです。

※この絵にもある通り、“怪しい奴はチクれ!”ということなのだろう。



8. 社会の安定を全体化しながら体制を強化、また体制を中央集権化しながらも深く、広く開かれた形にし、社会の安定に害をもたらす様々な犯罪活動や犯罪者たちに確固とした打撃を加え、新疆に長きに渡る平和を保障しなければなりません。


“民族分裂主義”については、さらに一章が設けられて、その内容が詳しく語られています。



「民族分裂主義への反対」



1.祖国の統一を護持し、民族団結を強化するためには、旗幟を鮮明にして民族分裂主義に反対せねばなりません。



2.民族や宗教の問題を利用して中国を西側化し、分裂させようと試みるやり口は、西側敵対勢力の一貫した手管なのです。  

※一番後ろに米軍人っぽいのがいるw



3.民族分裂主義の要諦は、中国共産党の主導による社会主義に反対すること、祖国を分裂させること、各族人民の偉大なる団結に対し破壊工作を行うことからなります。



4.“汎イスラーム主義”と“汎テュルク主義”は、民族分裂主義の反動的なプログラムなのです。

※前者は“全世界のムスリムは団結すべし”、後者は“全世界のテュルク計民族は団結すべし”という政治思想。ちなみに、スターリン時代の中央アジアでは、地元民族の指導者が単に地域の自治と自発的な近代化を訴えただけでも、中央(=モスクワ)から“汎イスラーム主義者”や“汎イスラーム主義者”(+ドイツor日本のスパイ)といったレッテルを貼られ、ことごとく粛清されていた。現在の中国でも事情は大して変わらない。これについての詳細は後述。



5.民族分裂主義者は団結と安定にとって極めて有害であり、各族人民の共通の敵です。



6.我らが民族分裂主義との戦いは、長きに渡る政治的責務なのです。



7.分裂主義とそれに対する戦いは、民族問題でも、宗教問題でもありません。恐らくは、この百年来、列強の侵略者たちによる中国分割の陰謀を防ぐため、中国人民がこれまで行ってきた戦いの続きなのです。

※左側に小さく描かれている連中がそうらしいw



8.我々は、民族分裂主義に対し旗幟を鮮明にして反対し、各民族のエリート(=幹部党員)層と大衆を最大限に団結させる必要があります。そして、その協力を得て極めて少数の民族分裂主義者を排除しつつ、これに打撃を与えるのです。また、外国の敵対勢力の浸透と破壊工作を防ぎ、対抗していかねばなりません。



9.民族分裂主義者の破壊工作に対しては、法の力を以て、強力で徹底した打撃を与えねばならないのです。



10.イデオロギー面における分裂主義との闘争に大いに重点を置き、民族分裂主義者と狂信的宗教勢力の幹部や大衆が思想を汚し、有害化するのに断固反対しなければなりません。 

→(5)に続く

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(3)

2010-07-16 22:31:45 | 東トルキスタン関係
→(2)からの続き

でもまあ、普通の中国人がそうした歴史観を持つのは、ある程度仕方が無いかもしれません。彼らはそういう教育を受けてきているわけで。その辺りは、普通の日本人の多くが“北方四島は、歴史的に日本固有の領土である”(もちろんロシアのものでも無いけど。いずれにせよ“歴史的に固有の~”という文言には疑問を感じます)と信じていたり、北海道の“ワッカナイ”とか“ニセコ”みたいな明らかに日本語っぽくない地名を聞いても、あまり違和感を感じないのと同じでしょう。

よく分らないのは、別に中国で義務教育を受けたわけでもなく、また日本にあって、一般中国人よりもはるかに幅広く情報が取捨選択できる立場にあるにも拘わらず、何故か中共史観の枠内でしか物を見れない日本人がいることです。

そんな人間がいるのか?

意外といるんですよ。それが。

しかも報道関係者に多いような気がします。

例えば、こんな↓感じで。

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「早い話が:日露戦争とウイグル人=金子秀敏」
http://mainichi.jp/select/opinion/kaneko/news/20090730dde012070048000c.html
毎日新聞 2009年7月30日 東京夕刊

ウイグル人独立運動の目標は「東トルキスタン」建国だ。地理的には中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区と重なるが、東トルキスタンとはどういう概念か。

19世紀末、英国で発行された地図を見ると、清朝が統治する新疆省は「イースタン(東)トルキスタン」と表記されている。その西側は「ロシアン・トルキスタン」となっている。 

このころ帝政ロシアは中央アジアを次々に占領し、タシケントにトルキスタン総督を置いた。これがロシアン・トルキスタンである。現在はウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなど中央アジア諸国として独立しているが、それはソ連が崩壊した後のことだ。 

モスクワが支配するのがロシアン・トルキスタンなら、北京の支配する東トルキスタンは「チャイニーズ・トルキスタン」と言うべきではないか。ウルムチには北京から派遣された巡撫(じゅんぶ)(総督)がいて、地方の道台(知事)が税金を取り立てていたのだ。実は、チャイニーズ・トルキスタンとも言っていた。トルキスタン(トルコ系の人が住む土地)は、ロシア支配の西部と中国支配の東部に分かれていた。西部の民族が独立したのだから、東部のウイグル民族だって独立したいと思う。 

19世紀末から20世紀初め、新疆の要地カシュガルに英国の領事が駐在していた。その妻マカートニ夫人が、当時の現地の世相を記録した(金子民雄訳「カシュガール滞在記」連合出版)。 

訳者の解説によると、カシュガルではロシアと英国が情報戦の火花を散らしていた。帝政ロシアは、ロシアン・トルキスタンを手中に収めた後、新疆から南下して英領インドを攻略するチャンスをうかがっていた。 

英国のほうも拠点のインドから北進してチベットを勢力圏に入れ、さらにその北のカシュガルでロシアの動きを探っていた。新疆は英露「グレートゲーム」の舞台だった。 

日露戦争が起きた。敗北したロシア軍は新疆進出を放棄した。

影響はそれだけではなかった。ロシアが日本に敗れたという大ニュースが新疆に伝わると、ウイグル人は、ロシアも清国も怖くないという空気になった。 

イスラム教徒の暴動が多発するようになった。ウイグル人は、自分たちと同じイスラム教で、民族的にも近いトルコへの一体感が強まった。東トルキスタン独立運動の源流をたどると日露戦争がある。(専門編集委員)
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いや、無いからwww

>モスクワが支配するのがロシアン・トルキスタンなら、北京の支配する東ト >ルキスタンは「チャイニーズ・トルキスタン」と言うべきではないか。ウル >ムチには北京から派遣された巡撫(じゅんぶ)(総督)がいて、地方の道台>( >知事)が税金を取り立てていたのだ。

いやいや、当時、その税金の行き先が最終的には満洲人の皇帝とその宮廷であったことを考慮すれば、“マンチュリアン・トルキスタン”と言うべきでしょう。でもって、中国本土は“マンチュリアン・チャイナ”、その中の山東省は“マンチュリアン・シャンドン”、満洲本土は“マンチュリアン・マンチュリア”ですw。

それはともかく、まず、

>日露戦争が起きた。敗北したロシア軍は新疆進出を放棄した。

これは正しくないですね。

当時の新疆西部は日露戦争の前から帝政ロシアの影響権内にありました。その状態は戦後も、ソ連時代になっても変わらず、特にソ連はグルジャ等にあった領事館を通じて現地の政局に深くかかわり、赤軍を直接介入させたこともあったのです。1944年にソ連の支援によって第二次東トルキスタン共和国が誕生したのは、そうした文脈の中での出来事です。新疆からソ連の影響力が無くなるのは1949年以降、特に中ソ対立から後の話ですね。

そして、日露戦争の頃に一部のウイグル人(という呼び名はまだ無かったけど)の間で従来の“ムスリム”とか“~オアシスの住人”ではなく、言語を基準とした“テュルク”としての近代的な民族意識が勃興しつつあったのは確かに事実ですが、それは、ロシア領中央アジアに留学したり移住したりしたウイグル人を経由して、当時ロシア領内のムスリム知識人の間に広がりつつあった“ジャディード運動積極的に欧米文明を取り入れて、自力でイスラーム世界を近代化しようという運動)”が伝播したのが大きな理由だと言われます。

自ら近代化を果たしたアジアの国が列強の一つに勝利した日露戦争は、そうした人々の励みにはなったかもしれませんが、“東トルキスタン独立運動の源流”だとか言うのは明らかに筋違いでしょう。

というのも、近代における後発国のナショナリズムというのは、多くの場合、先発国による圧力や支配を契機として生まれているわけです。ドイツの民族主義の誕生はナポレオンの征服によるものでしたし、日本のそれは列強の東アジア侵略、韓国のそれは日本による支配、中国のそれは列強、特に日本による侵略といった具合に....。

当時の新疆のケースで言えば、ロシアは新疆に大きな影響力を持っていたとはいえ、ウイグル人たちを支配していたわけではありません。彼らを直接支配していたのは、清朝の官僚機構でした。しかも、前回のエントリでも取上げたヤクブ・べクの乱以後、帝政ロシアの南下と再度の反乱を警戒した清朝政府はそれまでの現地の有力者を利用した間接統治をやめ、“新疆省”を設置して、中国本土と同じような直接統治を行いました。その結果、行政機関や新設の教育施設では漢語・漢字の強要が行われ、住民との間に様々な軋轢を生んだのです。

そうした事情を思えば、今のウイグル・ナショナリズムは、清朝の支配+その頃(主に在東京の留学生界隈で)同じく勃興しつつあった中華民族主義に対抗して生まれたと考えるのがより自然ではないでしょうか。

つまり、東トルキスタン独立運動の源流にあるのは“日露戦争”ではなく、“ヤクブ・べクの乱”と“新疆省の設置”なのです。


もちろん、起源がそうであるからといって、それが直ちに“漢人との共存は一切不可。直ちに独立すべし”という主張に結びつくとは限らないんですけどね。
日本の民族主義の起源が“尊皇攘夷運動”にあるからといって、今の我々が白人を見てもいきなり斬り捨てたりしないのと同じでw。<o:p></o:p>


でも、あちらのお上にとっては、こうした認識自体が存在してはいけないのでしょう。何故なら、

“有史以来、新疆の各族人民は元々一つの<中華民族>を成し、協力して外敵(今の中華人民共和国の国境の外に住む人々)と戦い、国境を守ってきた”


という中共史観とか、彼らの教条体系に明らかに矛盾するからです。

ウイグル・ナショナリズムみたいなのはあってもいいけれど、それは漢人支配に対してではなくロシア帝国主義に対抗して生まれたものにして、中華民族主義の中に回収できるものじゃないとダメな訳で。

だから、こういう珍説があちらの新聞とか教科書に載ってたとしても大して驚きはしませんけどね。

何でまた日本の新聞に?

理解できません。いや、本当に。

→(4)に続く

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(2)

2010-07-15 23:52:22 | 東トルキスタン関係
→(1)からの続き


16.新疆の各族人民は、誇り高く、愛国主義的な伝統を持っています。はるか昔から、各族人民は外国からやってきた侵略者に力を合わせて立ち向かい、我が国の境界を護ってきたのです。

※ 絵の左側の軍服姿の集団は、多分、帝政ロシア軍。その後ろで“左”の旗を背に、望遠鏡を持っている人物は19世紀後半にヤクブ=べクの反乱を鎮圧し、帝政ロシアからイリ地方の一部(今のグルジャ周辺)を奪回するのに功績のあった清の将軍、左宗棠

中共の公式史観だと、“ヤクブ・べクの乱”は何故か英露+オスマン帝国に支援されたヤクブ・べク一味と、それに乗じて新疆の一部(イリ地方)を占拠した帝政ロシアを、左宗棠指揮下の清朝軍と新疆の諸民族が協力して撃退した、という“美談”になっている。そんなことはないんだけど....。これについては後述。




17.旗幟を鮮明にして祖国の統一を護持し、民族分裂主義に反対しなければならない。祖国の統一を破壊しようと目論む人間や、彼らの行いに対しては、敢えて旗幟を鮮明にし、闘う必要があるのです。



18.祖国統一の護持は、各族人民共通の願いです。愛国主義の偉大な旗を高く掲げつつ祖国の統一を護持し、この中華の国全てに繁栄をもたらすためにも尽力し、闘っていかねばなりません。

.......何というか、ウイグル人向けの啓蒙書であるにも拘わらず、ひたすら漢人の側から見た新疆の歴史ですね。現地人は何だか民族衣装を着て太鼓を叩いたり、踊っているだけの、背景の一つに過ぎない感じです。

そして、中共の公定史観においては、現在の中華人民共和国の国境は、とりあえず、時間を超越した絶対普遍の真理というか前提のようなものであるらしい。

 “国史”なんて、どこでもそういうものではないか?

と言われたら確かにそうなのですが、ここで羅列されているような、新疆が中華王朝の版図に入った時期というのは、各々そんなに長いものではなく、全体の歴史から言えばそれこそ“点”みたいなものです。

当然ながら、“点”と“点”以外の部分の方が圧倒的に長い。この本では現在の生産建設兵団の存在を正当化するためwか、漢代の屯田兵の役割が妙に強調されていますが、彼らも漢朝の後退とともに去ったのであって、その子孫が連綿と暮らしてきた訳ではない。以後、彼の地では1949年に至るまで、漢人はほとんど住んでいないか、圧倒的に少数かの、どちらかであったはずです。

文化的にも、あの辺は中華文明の影響を強く受けてはいたものの、結局、20世紀まで漢字圏に入ることはありませんでした。その意味では、日本や朝鮮半島よりも中華文明からの距離は遠かったと言えるでしょう。

というか、清や元みたいな遊牧民の征服王朝が、漢や明と一緒くたに“中華王朝”になっていたり、途中から省制を敷いて直接支配を行った清朝と、間接支配しかしなかった他の王朝が同列に扱われていたり、一部の地域がある王朝に入貢していたとか服属していたとかいうだけで、あたかも新疆全域がその王朝の支配下にあったような認識だったりと、そもそも、その“点”の付け方自体が強引で、無理があります。

でもって、それらの“点”のみを現代まで強引に一直線に繋げて、

“新疆は太古から中国の不可分の領土の一つ”

だとか、

ウイグル人たちは歴史的に“中華民族の一員”

だとか言うのは、

詐欺以外のナニモノでもない。

少なくとも、この本が対象としているウイグル人の読者に対しては、何の説得力も無いでしょう。

面白いのは、この章の16番目の絵にもあるように、ウイグル人たちに漢人との同胞意識を持たせ、“愛国心”を高めさせるためのイベントとして、19世紀後半の“ヤクブ・べクの乱”や“帝政ロシアによるイリ地方(グルジャの周辺。現在のカザフスタンとの国境に近い地域)占領”といった事件がネタにされていることです。

まあ、中国本土であれば、そうした“敵”として不動のポジションを占めるのは日本軍なんでしょうけどね。その日本軍も、さすがにここまでは攻めてこなかった(細々とした工作活動はやってたけど)訳で....。

この“ヤクブ・べクの乱”というのは、19世紀の半ば、太平天国の乱+回民反乱+アロー戦争と内患外憂続きでガタガタになっていた清朝に対し、今で言うウイグル人やカザフ人、クルグズ人、回族などの新疆一帯のムスリムが起こした大反乱でした。これに対して、満州(シボ)人オイラト・モンゴル(カルマク)などの仏教徒は清朝側に立って戦ったのですが、清朝の駐留軍は各地で敗れ、新疆のほぼ全域が清朝の手から離れてしまいました。

そうした各々の反乱地域を統合し、全新疆をシャリーア(イスラーム聖法)の下で一つの国家としてまとめあげたのが、コーカンド・ハン国(現在のウズベキスタン西部からクルグズスタンにかけての地域を支配していた国)出身の軍人、ヤクブ・べクでした。

現在の基準で言ったら“ウズベク人”ということになりますが、元々の身分は反乱勢力の要請でコーカンド・ハン国から派遣された将校です。いわば“助っ人”だったのですが、その軍事的才能とウイグル人らとの文化的な近さ(在日ウイグル人が言うには、ウズベク語とウイグル語の違いは、関西弁と関東弁のそれより小さいとのこと)から反乱勢力の中で頭角を現し、最終的には指導者として、新疆に自らの王朝を打ち立てたのでした。

そのヤクブ・べクの国が存在したのは十数年と短命でしたが、英、帝政ロシア、オスマン帝国などから国家として承認され、各々の国と通商関係も有していました。

また、帝政ロシアはそうした混乱に乗じて自国領(現在の中央アジア諸国)に隣接したイリ地方に軍隊を送り、これを占領してしまいました。

そうやって、一時は清朝の支配から完全に脱するかに見えた新疆ですが、清朝側は名将、左宗棠指揮下の討伐軍を派遣。内紛でゴタゴタしていたヤクブ・べク軍は簡単に敗北し、ヤクブ・べクは自殺。その国家は瓦解したのでした。

そして、新疆全域を回復した清朝は、その左宗棠軍の力を背景に帝政ロシアとも強気の交渉を行い、占領されていたイリ地方の半分を奪回したのです。

この際、清朝側の報復を恐れたウイグル人や回族が大量にロシア領へと移住しました。現在カザフスタンやクルグズスタンでそれぞれ数十万単位で暮らすウイグル人やドゥンガン人(=回族)はその際の移民の子孫です。

ちなみに、ロシア領に移住し、近代的な教育を受けたウイグル人の中からは、後のウイグル人自身による近代化運動や、東トルキスタン共和国建国に貢献する人材が輩出されることになります。

とまあ、以上が“ヤクブ・べクの乱”の顛末ですが、これがどうして今の中国の“愛国教育”の題材となるのか、不思議に思われるかもしれません。自分も不思議です。

何せ短くまとめたら、そう遠くない昔に、新疆において、中原からの完全な分離独立に成功したイスラーム国家が存在したという話ですから。もし仮に左宗棠の討伐が失敗していれば、ちょうどアフガニスタンみたいな感じの英・露間の緩衝国家が、あの辺に出現していた可能性は大いにある訳です。

あるいは、もし仮に第二次東トルキスタン共和国が民族共和国としてソ連に編入されるか、あるいはモンゴルみたいにその衛星国になっていたとしたら、この“ヤクブ・べクの乱”は間違いなく“民族意識の萌芽”を示す事件として肯定的に語られていたに違いありません。

現実には、当時はまだ民族としての“ウイグル人”など存在せず、人々の間に“テュルク民族”意識など皆無だったとしてもです。

これは単なる妄想ではなく、一応実例があるのですよ。例えば、かつて清朝の領域内にあって、その後ソ連領に編入された地域として、モンゴルの北西にあるトゥバ共和国がありますが、ソ連時代以来の公定の地域史の中では、清朝時代は徹底的に暗黒時代として描かれ、その時代に起きた反乱は、それこそ本当にどうでもいいような農民反乱でも、“英雄的行為”、もしくは“正しい民族感情の発露”云々と称揚されているのです。でもって、“その後ロシア国家に包含されたことによって、今ではこんなに発展してますよ”、というのが定番のパターンですね。

そうです。中共がチベットやウイグルが問題となったときに必ず持ち出す、あの“現存する国境線などの行政区分を絶対視し、それを正当化するために構築されたようなヘンテコで政治的な歴史観”は、もろにソ連史学譲りなのですよ。

“ヤクブ・べクの乱”が“愛国主義”的教育の題材とされる場合も、重要な役割を果たすのは恐らく5000年前から存在すると目されるw中華人民共和国の国境線と“ソ連史学的な”手法です。

今手元にある、あちらのお上が出した歴史の本によると、まず、新疆のムスリムが反乱を起こしたこと自体は肯定されるべきとのこと。何故なら、それは腐敗した清朝の官僚組織やそれと結託した現地の富裕層に対する“階級闘争”だからです。純粋に経済的な問題であって、民族とか宗教の違いは関係ないのだとか。

一方、ヤクブ・べクは現在のウズベキスタンからやってきた“外国人”にして、英、露、オスマン帝国の支援を受けた“侵略者”でした。その“侵略者”が、イスラームを悪用して反乱勢力を扇動。自らの王朝を築いたのです。ヤクブ・べクは“ジハード(聖戦)”を唱えつつも私腹を肥やし、個人用に処女800人のハーレムを作らせるような悪い奴であり、その正体に気づいた新疆のムスリム大衆は左宗棠の清朝軍と協力してこの外国からの“侵略者”を倒し、祖国に平和を回復させたのでした!

また、同じ時期にイリ地方を占領した帝政ロシア軍に対しては各族人民が粘り強い抵抗を繰り返し、これも左宗棠の清朝軍と協力することで、イリ地方の占領地をいくらかは奪回。列強の一つであるロシアから、祖国を守ったのでした!

.......そんな感じです。

悪いのは“外国人”とそれに加勢した一部の富裕層であって、民衆は新疆の分離独立なんて支持していない。彼らは“愛国主義的”であり、常に漢人とともにあった、というわけで.....

まあ、ヤクブ・べク政権は現地の各オアシスからの収奪が厳しく、末期には地元社会との関係がかなり悪化していたという話もありますが、彼らが戻ってきた清朝軍と一緒になってヤクブ・べクや帝政ロシア軍と戦ったという話は…一体何がソースなんでしょうか?

なお、左宗棠の新疆再征服後、ロシア領に移住した回族やウイグル人についてはどのように説明してあるのか興味があったのですが、彼らについての記述は一切ありませんでした。

きっと、そういう“非愛国的な”新疆人はいてはいけないのでしょうw。

→(3)に続く

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(1)

2010-07-15 00:03:19 | 東トルキスタン関係

昨年の秋、新疆南部ホタンのバザールで、中共が漢語の読めないウイグル人向けに出版したと思しき、絵付きの啓蒙小冊子を入手しました。

タイトルは“<民族団結は進歩なり>に関する絵解き画集”。 作画はフェン=ゴーウェイ(冯国伟)で、出版元は“自治区党委員会組織部”

値段の表示は無いので、恐らく非売品なのでしょう。教育用に無料で配布されていたものと思われます。

↓表紙。天山山脈と思われる山々を背にして、新疆内の各民族が仲良く腕を組んでいる。


↓中表紙。タイトル、作者名などが漢語とウイグル語の双方で記されている。

後書きには、2001年の7月出版とありました。 ちょうど9.11事件の直前ですが、書かれてある内容については、最近出回っているこの手の本と何ら違いはないですね。つまり、中共の中の人がウイグル人たちに叩き込みたいと思っていることは、それだけ一貫しているという訳で。この本は文字数が少ないだけに、ある意味それが凝縮されているような感じです。

分量はそんなでも無いので、とりあえず全訳してみましょう。

まず冒頭は、江沢民同志の有難いお言葉です。


新疆は発展を加速させるにあたって、有利な条件を備えている。故に、我が国の経済発展における重要な支柱となる必要があるのだ。新疆の経済発展を加速させる鍵は、その構造を資源優先から産業優先に転換、さらにそれを進めて経済優先のものへと転換する過程を速めることにある。

-ジャン=ゼミン(江沢民)同志が新疆視察の際に行った講話より




新疆における各族人民の団結強化、社会的・政治的安定の堅持は、新疆の経済と社会の順当な発展に関係するのみならず、全西北地方の安定と発展や、全国における開放改革と現代化建設の大局にも関わるものである。民族団結と祖国統一護持の旗を高く掲げつつ、新疆の安定を守るための職務を、断じて迷わず、積極的に遂行せねばならない。

-ジャン=ゼミン(江沢民)同志が新疆視察の際に行った講話より


党関係の文書は何だかこういう漢語直訳調の文章が多いのですが、正直、非常に読みづらい。特にこの2番目なんて、一読しても何が何だかよく分らず、ネット上で漢語の原文を発見してようやく内容の検討がついたような有様で....。

それはともかく、本文に入りましょう。

画集はいくつかの章に分かれているのですが、一章完結方式です。章ごとの関連は無いので、順不同で気になったところから訳していこうと思います。


「祖国統一の護持」



1.偉大なる我らが祖国は長い歴史を有し、その中で一体となった多民族国家です。長い歴史的発展の過程において各族人民は力を合わせ、祖国の統一と発展に貢献してきました。



2.我が国の最も高度な国益と各族人民の公益は、祖国統一の護持、それと民族分裂主義への反対にかかっています。



3.太古の昔より、新疆は、偉大なる我らが祖国の不可分の一部でした。いずれの民族も、共に辺境地域を開拓し、祖国の統一を護り、経済や文化を発展させてきたのです。



4.紀元前221年にチェン(秦)のシーホァン(始皇帝)が中国を統一した後、内地(=中原)の人々が西域に絶えずやってくるようになりました。それによって、どの民族も協力して生活し、また共に発展していくような状況が形成されたのです。



5.紀元前206年、西ハン(=前漢)朝はジャン=チャン(張騫)などの人物を2度に渡って西域に派遣し、“シルクロード”を開きました。



6.紀元前101年、西ハン(=前漢)の朝廷は、新疆に農耕にも従事する軍隊(屯田兵)を駐屯させ、その地の農業や生産活動などを管轄しました。



7.紀元前60年、西ハン(=前漢)朝は西域都護府を設置し、中央政府から西域の軍事政策を統括しました。このことは、新疆が中国の、国土の不可分の一部となったことを公的に示すものでした。



8.スイ(隋)は、西域においてイウィルグル(現クムル/哈密)、ピシャムシャン(現ピチャン/鄯善)やチェルチェン(現チェルチェン/且末)※などの郡をまとめて置きました。それによって、一時は再び“西域都護府”が設けられ、地域の軍事と政治の両方が一元的に管轄されることになったのでした。

※いずれもタリム盆地東部~東南部のオアシス。



9.タン(唐)朝は、安西都護府と北庭(べシュバリク)都護府を設置して、テングリ山(=天山山脈)の南側と北側を管理しました。

※古代ウイグル語(今のウイグル語とは色んな意味で別物)で“5つの都市”の意。“ビシュバリク”とも。ウルムチから100kmほど東、ジムサルの近郊に遺構あり。



10.ユアン(元)朝は、西域ではべシュバリクに一時的な行政府を置きました。



11. ミン(明)朝は、西域においてはクムル(現クムル/哈密。甘粛省との境界に近い都市)に防衛基地(=“哈密衛”)を配置しました。そこにあった西域の分裂政権とミン(明)朝との間には終始、明らかに依存的な関係が保たれていました。

※クムルを本拠とし、1404年に明に入貢した哈密(ハミ)王家のことを指していると思われる。ただ、その後すぐ西方のイスラーム勢力(東チャガタイ・ハーン国)の東漸により、明の影響力は排除されてしまった。



12. チン(清)朝は、当初は軍政を敷いたものの、後にカシュガルに参賛大臣(民政長官)を置きました。1884年、新疆は正式に省となり、全国と同じ行政システムが導入されたのでした。



13.1949年、新疆は平和裏に解放され、(中国)全国と一体になって輝かしき社会主義の道を歩むことになりました。

※ 実際には、独立派の中には人民解放軍と徹底抗戦した勢力もあったし、パキスタン、アフガニスタン経由でトルコ等に亡命したウイグル人やカザフ人も沢山いた。現在、海外で“東トルキスタン”独立運動に関与している人々の多くは、そうした亡命者の子孫。


14.新疆は、我らが祖国、この大家族の懐の中にあってこそ、輝ける未来が約束されているのです。



15.祖国統一の護持は、56族共通の神聖なる責務なのです。

※中国で公式に認められた民族の数。ちなみに新疆内の各民族の分類基準や名称に関しては、新中国の成立後、ソ連領中央アジアで用いられていたものがほぼ直輸入された。そうした民族を基にした自治単位(~民族自治区、~民族自治州etc.)も、その元ネタはソ連の政治制度にある。

>2 ni tsuzuku