歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

「対日戦勝記念日」制定に対するロシア人の反応(8)

2010-08-15 23:51:13 | ロシア関係
→(7)からの続き

ところで、上述の訳したスレで出てきた“張鼓峰事件”については、

この↓サイトが詳しいですが、

満ソ国境紛争1/乾岔子島事件、張鼓峰事件等 概説2
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-kokkyo12.html


要するに、当時の満洲国とソ連の国境付近に帰属のはっきりしない丘があり、そこが戦略的に重要な場所であったためにソ連が陣地を作ろうとして、日本軍と取り合いになったという話です。

数的にも優勢で、戦車と航空兵力を有するソ連軍に対し、貧弱な装備の日本軍が保持した丘を守りきった状態で停戦となりました。ソ連崩壊後に公開された公文書によれば、ソ連側の死傷者の数は日本のそれを上回っていたらしい

張鼓峰事件なんて、こちらでは歴史の教科書にちょこっと出てくるだけで、今の日本人はほとんどの人は知らないのではないかと思われますが、あちらでは、ノモンハン事件と並んで“軍国主義的な日本によるソ連侵略を阻止した歴史的勝利”として喧伝されたようですね。ノモンハンの方はともかく、こちらは勝ってないんだけど.....。

なお、この張鼓峰事件も題材となっていた“チャストゥーシカ”というのは、日常生活や時事に纏わる滑稽話を短い4行詩にまとめあげ、それに早いテンポの曲を付けて唄う俗謡の形で、19世紀半ばから存在するらしい。

日本で言えば“都都逸”みたいなもの....いや、今だと“ラップ”か?w

件の“極東チャストゥーシカ”も、歌詞だけ見ると何か軍歌みたいなのを想像するかもしれませんが、

原曲はこんなに↓明るい曲です。
http://www.sovmusic.ru/english/download.php?fname=dalnevos


問題のシゲミツの名が出てくる箇所は、五曲目の第三連ですね。第四連の最後に来る語“вы(ヴィー=あなた)”と脚韻を踏ませるためか、“Сигемицы(スィゲミーツィ)”と発音されているので、ちょっと聞き取りにくいですが....。

騙そうったって無駄だよ、シゲミツさん
(ニ・ヒトリーチェ・スィゲミーツィ)

あんたじゃ無理だ!
(メルカ・プラーヴァイチェ・ヴィー)


が、全部で3回繰り返されます。

↓他のチャストゥーシカの例


↓少女の唄うチャストゥーシカ



↓プーチン+メドヴェーヂェフの物真似でチャストゥーシカ



ちなみに、この“極東チャストゥーシカ”はその内容から分かる通りに自然発生したものではなく、官製です。作曲はA.アレクサーンドロフ旧ソ連=元ロシア国歌の作曲者といえば分かるでしょうか?

共産党はそれほどの大物を動員し、気合を入れてこのプロパガンダ俗謡を作ったということですよ。スターリンがいかに日独相手の二正面作戦を恐れていたかの証左ではないでしょうか。

あんまり関係ないですが、この民謡・俗謡にプロパガンダ的な内容を織り込むという手法は今日の中国共産党にも受け継がれているようで......

この間ウルムチで買った、新疆カザフ人の民謡の歌詞を集めた本を読んでいたら、自分らの夏営地の美しさを謳いあげたものがあり、

おらが牧場は緑豊か、空気はきれい

湖と空はどこまでも蒼く、光り輝き


偉大なる領袖、毛沢東

と,最後に唐突に毛沢東礼賛が出てきてw、何だこれは?と思った記憶があります。

やはり、中共はソ連共産党の劣化コピーかもしれない….。

→(9)に続く

「対日戦勝記念日」制定に対するロシア人の反応(7)

2010-08-15 23:12:18 | ロシア関係

→(6)からの続き

普通の旧ソ連圏人と付き合いのある人なら分かると思いますが、基本的に、彼らの遵法意識はとてつもなく怪しい。彼らは“お上”を徹底して信用しておらず、“法”とはその“お上”が自分らを支配するのに便利なナニモノかに過ぎないわけです。

それ故に、何の強制力も無いのに自発的に法律を守ろうとする人間は、単なる馬鹿だと思われがちですね。戦後の食糧難時代の日本で、闇米を食べるのを拒否して餓死した法律家(でしたっけ?)の美談みたいなのは、あちらでは笑い話にしかならないでしょう。

この辺りは、社会契約説を基盤とした法概念を持つ西欧社会とも、そうした基盤は無いものの、人々が過剰に“お上”を信用し過ぎる結果として法秩序が保たれている日本社会とも大いに異なります。プーチンとかメドヴェーヂェフが盛んに“法の支配”を訴える所以ですよ。

そんな具合なので、今から何十年も前に自国が他国との国際条約を破ったり、また逆に他国から破られたりした事実が法的にどうこうといった話がいまいち盛り上がらないのも、まあ、当然かもしれません。

ただ、法的に正しいか否かということではなく、“倫理的、道義的に”どうかといった話になると、気にしている人はいくらかいるようです。

こんな↓スレがありました。

-------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「1945年にうちらが日本を攻めたのは卑劣だったのか?それとも全て正しかったのか?みんなはどう思う?」
原題:А ак Вы считаете? в 1945 году мы на Японию подленько напали? Или все по правилам?

彼らは、それまでうちらとは和議を結んでいた...つまり、うちらは同盟国に対する責任を果たしつつ、彼らを騙まし討ちにしたってことになる。このことは多分、現在の関係に何らかの特別な刻印を残しているんじゃないか?それとも、日本の軍国主義はそうやって裏切られるに値するものだったのか? それ(=対日参戦要求)を拒否する価値はあったかもしれない。

単に米国にレンド・リース(戦略物資の支援)を与えるだけでもよかったんじゃないかな?彼らがうちらにやってくれたように....。

追加1:中立条約は1941年4月13日、モスクワにおいて調印された。ソ連側の調印者はモロトフ(=当時のソ連外相)、日本側は外務大臣のヨースケ=マツオカ(松岡洋右)だった。条約は1941年4月25日に批准され、その瞬間、つまり1941年4月25日から1946年4月25日まで5年間有効だとされた。そして、1951年まで自動的に延長されることになってたんだ。条約には、共同声明と証書の交換も付随していた。

条約の第三項、“本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且5年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ1年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ5年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ”に従って、

1945年の4月5日にモロトフはN.サトー(佐藤尚武)駐ソ日本大使と会見し、中立条約の破棄(つまり、延長の拒否)を通告した。

その通告によれば、日本がソ連の同盟国である米英と戦争をしている状況にあって条約はその意味を失っており、延長は不可能になったと言う。

N.サトーは、条約が1946年の4月25日まで有効であることを念押しした上で、ソ連側がその条件を遵守するよう希望する、と表明。それに対するモロトフの答えは、“事実上、日ソ関係は条約が調印される以前の状態に戻るだろう”というものだった。

そしたら、サトーから、それは法的には条約の廃棄通告ではなく、破棄ではないかと指摘されたため、モロトフは前言を撤回し、条約は1946年の4月25日まで有効だと確約したんだ。

追伸2:さあ、大変なことになったぞ...字数の制限が迫ってるw。皆さん、あなた方が気を悪くされているのは分かってる。でも、俺は道徳に立ち返って問いたいわけだ。うちらは卑劣に攻め込んだのか否か?日本は己が義務を果たし、背後からナイフを突き立てたりはしなかった。少なくとも、この点ははっきりしてるだろ?それが、今日まで彼らの意識にどう影響しているのか?うちらは、卑劣という言葉を小・中学校の頃から知っている。それはファシズムを連想させる、恐ろしい言葉だ

※ドイツによる不可侵条約の一方的な破棄、ソ連への奇襲攻撃のことを指していると思われる。ソ連時代以来のプロパガンダ、歴史教育においては“卑劣なファシスト”という表現がよく使われてきたらしい。



<ナロードの答え>

回答ナロード1号
連中に、あまり得は無かったな。


回答ナロード2号
うちらは日本そのものは攻撃していない、単にサハリン(樺太)を取り返しただけだ

※1945年当時の行政区分だと、樺太も千島も“内地扱い”だった。


回答ナロード3号
侵攻したのは卑怯だと思う。奴らはこっちに攻めてこなかったんだからな。でも、当時のスターリンは本気で夢中になっていた。もし米国が核の威力を見せつけてなければ、ソヴィエト軍はトルコにも攻め入ったことだろう。我が軍は素早く動員に応じられるよう、既にザカフカース(=南カフカース。トルコの東に位置する、現在のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの三国)に集中してたくらいだ

※事実かどうかは不明。ただし、第二次大戦後、ソ連はトルコに対し1920年代にトルコに編入された旧ロシア帝国領(カルス、アルダハン、アルトヴィンの3州)の返還を要求。トルコの米国への接近とNATO加入をもたらすことになった。


回答ナロード4号
締結された和議について、もっと詳しく。


回答ナロード5号
面倒でなければ、誰だって卑劣なことはやるもんだ。残念なのは、それに対して責任が取れないってことだな。何しろ、卑劣漢は自らの卑劣な行いについて、責任を取るのを恐れるものだから。


回答ナロード6号
1945年に、ソ連が米国にどんな支援をするって?うちらにレンド・リース(戦略物資の支援)してくれたのは米国人だけじゃないだろ....英国人はどうなんだ?ヨシフ(スターリン)は1939-41年に彼らを援けるどころか、ドイツ人の勝利を祝福さえした。逆に1941年に独ソ戦が始まると、英国にものを要求した.....政治家は、エゴイズムの母だな....。

※ 確かに、当時の米国がソ連から必要としているものなんて、膨大な人的資源くらいだったに違いない。


回答ナロード7号

戦争にルールは無い。人生においてもそうであるように!!!話し合いがつかないのであれば(分かち合うことができないのであれば)、別の手段に訴えようじゃないか。古典において曰く、“戦争は異なる手段による政治の延長である...”

※多分、クラウゼヴィッツの“戦争論”からの引用。こんな意味じゃないと思うんだけど....。


回答ナロード8号
誰も日本なんて攻撃していない。ただ、昔からロシアの土地であるサハリン(樺太)とクリル(千島)を取り戻しただけだ。あとは、モンゴル人と、朝鮮人と、漢人を日本のくびきから解放してやった。

※その代わりに“漢人のくびき”の下で暮らすことになり、漢人農民の大量入植で居住空間を大いに狭められると同時に、文化的な漢化も進行することになった。まあ、南(内)モンゴルへの漢人の移住は既に清朝時代の末期から続いていたことなので、別に日本が勝とうが負けようが事態は同じだったかもしれない。一方、北(外)モンゴルの方のモンゴル人は引き続きロシアのくびきの下で暮らさねばならず、モンゴル人民共和国はしばしば“ソ連の16番目の民族共和国”と揶揄された。


回答ナロード9号

適当すぎるだろ! (日本人に)一体どういう痕跡が残ったって?だったら、うちらも今だにドイツのことをボロカスに言ってないといけないのか?


回答ナロード10号
ともかくも、これは俺の純粋に主観的な意見なんだけど、正しい行動だったと思う。悪党は...鼻っ面を張り飛ばしてやらないといけなかったんだ。


回答ナロード11号
 “モロトフが前言を撤回した”とか、本気で信じているのか?実に興味深いことだ。まさか、同志スターリンですら法的に何らかの問題を抱えていたとか....

全然信じられないな。

それは本当に資料によって証明されたことなのか?それとも、例のごとく回顧録がソースなのか?


回答ナロード12号
日本は代償を払ったわけだ。うちらが戦争の間中、苦悩しつつも自軍を極東に貼り付けておかねばならなかったことに対するな。そんな具合に、連中は間接的にうちらに害を与えてるんだ。もし、うちらが何事も無かったかのように振舞うとしたら、それこそ馬鹿みたいだろ。


回答ナロード13号
一体何が卑怯なんだ?既に戦争は何年も長引いており、ソ連が米英などの同盟国に対する義務を果たす可能性があるってことは、日本もよく分かっていたはずなのに!


回答ナロード14号
あなたは...いやあんたは、工作員だな。



回答ナロード15号

 ....歴史を勉強しろよ....


回答ナロード16号
日本のクヮントゥーンスカヤ軍(=関東軍)は1931年に満洲(中国東北部)を占領し、1937年には全中国の征服を開始した。この1931年に関東州(遼東半島の南西端)で編成された軍団は、ソ連およびモンゴルとの国境においても挑発行為を行っている(1938年7/29~8/11のハサン湖の戦い=張鼓峰事件、1939年のハルヒン・ゴルの戦い=ノモンハン事件など......)。

※実際には、関東軍の創設はもっと前。

日本はこの侵略を正当化するための理由として、ハサン湖横の高地(とその向こう側の高地も含む)は自分らの領土だと主張したんだ。この地域の国境は、ロシアと清国の間で結ばれたフンチュン協定ではっきりと示されていたのにな。

※中国とロシアの国境そばにある湖。その横の高地は張鼓峰と呼ばれ、1938年には満洲国-ソ連間の国境紛争の舞台となった。“フンチュン協定”云々というのは、1886年に清国と帝政ロシアの間でその国境線をめぐって取り交わされた“琿春議定書”のことだろう。

ちなみに、管理人は昔この辺を一人でウロウロしていて、ロシア側国境警備隊により拘束。基地まで連行されたことがある。取調べの間は営倉みたいな所にぶち込まれていたが、壁には恐らく脱北者のものと思われるハングルの落書きが無数にあった。ロシアは基本的に、脱北者を見つけたら情容赦なく北に引き渡しているという話なので、これを書いた人たちも、多くはもうこの世にいないのではないか?と想像し、ちょっと暗い気分になったのを覚えている。


1938年7月20日、駐モスクワ日本大使のシゲミツ(重光葵)は、要求が認められない場合、日本は武力を行使するとの声明を出した。 1938年7月29日、日本軍は砲撃による支援の下、ソヴィエト領に侵攻した。ソヴィエト軍は何度にも渡る日本軍の攻勢を撃退。連中に多大な損害を与えてから、元々いた地点まで放逐した。そして国境に沿って防備を固めたんだ。

日本軍精鋭部隊の完全なる壊滅で幕を閉じたこの戦いの意味は、通常の国境紛争の枠をはるかに超えていた。この敗戦によって、何かと称揚されがちだったサムライの勇猛さなるものの実態が、全世界に示されたわけだ。日本をソ連との戦争に引きずり込もうとした“無謀な日本の軍部”は、将兵の命のみならず、その軍事的名声をも代償としたことになる

※張鼓峰事件は、実際には痛み分けに近い内容で、死傷者の数や鹵獲された兵器の数はむしろソ連軍の方が多かった。これについては後述。

俺の親父(F.P.ポポーフ、1908年生まれ)は1936年から42年まで極東地方に住んでいた(クルスクの農業専門学校を卒業後、そこに配置されていた。)。親父が好んだ極東の戯れ唄“騙そうったって無駄だよ、シゲミツさん。あんたじゃ無理だ!”は家族みんなが覚えているよ。

これら“極東チャストゥーシカ”の歌詞の元になってるのが、ハサン湖の戦い(張鼓峰事件)だと知ったのは最近の話だ。

※しばしば時事問題なども題材となる、四行からなるロシアの俗謡。詳細は後述。

"極東チャストゥーシカ"

俺たちは誰も怖くない
そして誰も通さない
守ってやるさ、敵からは
たとえ小さな潅木一つでも

奴らを追い返してやったよ
うちらが油入りブリヌィ(ロシア風クレープ)を焼く要領で
完全武装で攻めてきたのに、
ズボンもはかずに(=全てを無くして)いなくなってた!

悪党の群れが突っ込んできた
恐ろしく、憎むべきその企て
サムライたちは忘れんだろうな
このハサン湖の戦いを

また湿った土地に戻ってきた。
どこもかしこも砲火に煙
俺らは日本のサムライたちに
道理ってものを教えてやるんだ!

奴らの通牒に答えてやったよ。
こっちにゃ500機も飛行機があるってな
ソヴィエトの高地を狙ってる
あいつらのやる気をそぐために。

戦争大好きな奴らなんざ
酷い目に遭わせてやることも
懲らしめてやることも
俺たちにはできるんだからな!
                                          
奴らに国境、越えさせちゃだめだ
うちらの牧草、踏み荒させちゃだめだ
騙そうったって無駄だよ、シゲミツさん
あんたじゃ無理だ!


覚えといてくれ、敵さんよ
俺たちは偉ぶらないし、愛想も良い国民だ
でも、豚の鼻先突っ込ませるなよ
うちらソヴィエトの菜園に


第二次大戦において、日本はファシスト国家のドイツとイタリアの同盟国となり、沢山のアジア諸国を占領したが、1943年からその征服地を失い始める。米空軍は1945年の8月6日に広島に、9日に長崎へと原爆を投下した。

ソ連は1945年の8月8日、同9日から日本と戦闘状態に入ることを宣言。1945年8月9日~8月19日の満洲作戦におけるクヮントゥーンスカヤ(関東)軍に対する勝利は、1945年9月2日、日本を降伏に追い込んだ。そしてそれは、第二次大戦を終結に導いたんだな。


回答ナロード17号
勝てば官軍なんだよ。奴らはアメ公を..どんな風に攻撃した???

※露語では“Победителей не судят(直訳:勝者は非難されない)”。なお、アメ公云々は、対米戦争の宣戦布告が真珠湾攻撃の後になったことを言っているのだと思われる。


<ナロード・ベストアンサー>

俺がどうも心苦しいのは、条約違反それ自体ではなく、対日参戦の何日か前にコノエ公(=近衛文麿)がモスクワを訪れ、米英と日本間の戦争終結に際し、ソ連にその調停者となってもらおうと提案してたってことかな。でもって、うちらの闘士の皆さんは、平和の為にそれを受け入れることなどなかった、と。

うちらの指導層の計画に、平和は含まれていなかった。スターリンのシニシズムがそんなものは潰してしまったわけだ。他の連合国とソ連の対日参戦について協議した際、さもないとソ連国民が納得しないと言いながら、戦後におけるソ連の領土的な分け前の保証を要求するような、そういうシニシズムがな。
-------------------------------------------------------------------------

何と言うか、知識人っぽい左派が国家による過去の所業を断罪し、これに反発する右派が“外国の工作員”、“売国奴”と罵るという....日本語のネット界隈における、戦前の日本をめぐる歴史論争を思わせますね。

あちらだと“右翼=スターリン主義者”というのが日本人からするとちょっと違和感があるんだけどもw。

この辺りの事情は、日本とロシアでは意外と似ているかもしれません。

1991年にソ連が冷戦に敗北、解体した後、新生ロシアの政治的な実権を握ったイェリツィン一派や、成り上がった新興財閥の所有物であるメディアは、自らの権益を正当化し、保持するために隠蔽されていた旧体制の悪事をさんざん暴露し、ソ連時代について徹底したネガティヴ・キャンペーンを繰り広げました。その中には、たまに信憑性の怪しい、ほとんど言いがかりみたいなものも含まれていたわけですが、旧体制を貶めるためのネタであれば、何でもよしとされました。

もちろん、ロシアは米国に占領された訳ではないし、GHQによる情報操作wも無かったものの、“ソロス財団”等の反共財団やNGO組織などが“民主化”の名の下に、こうした政府やメディアの反共・反ソプロパガンダを支援しました。そうした状況は90年代末のプーチンの登場まで続きます。

そして、そのプーチンが財閥をことごとく潰し、主要なメディアを御用メディア化。“大祖国戦争史観”の過剰な肯定などソ連時代をポジティヴに捉える“逆コース”が始まって今に至っているのですが、これは90年代の反動でしょう。

欧米メディアでよく騒がれているように、今のロシアがソ連や共産主義に回帰することなんて無いと思います。それは、いかに“右傾化”が進んだとしても、今の日本が“大日本帝国”に戻れないのと同じで。

→(7)に続く


「対日戦勝記念日」制定に対するロシア人の反応(6)

2010-08-09 00:10:14 | ロシア関係

(5)からの続き

しかし、考えてみれば、ソ連もまた独ソ戦においては逆に一方的に不可侵条約を破棄され、奇襲攻撃を受ける側にあったわけです。かつてのソ連史学では、こちらの“条約違反”は特に強調されがちでした。つまり、独ソ戦の緒戦で枢軸軍が連戦連勝できたのは、彼らが“条約に違反”したからである、と。ソ連(というかスターリン)は条約を過信していたが為に準備を怠ったのであって、さもなければ、枢軸軍の侵攻は国境近辺で食い止められるか、最低でもロシア本土の奥深くまで攻め込まれることはなかったのだ、というお話です。

実際の原因は、ソ連側も対独戦争のため軍備を増強していたにも拘わらず、結果としてドイツの動きを読みきれなかったスターリンの判断ミス、それと“大粛清”によって高級将校が大量に処刑され、赤軍自体が動揺していた点にあったと言われる訳ですが、そうした事実を認めてしまうと、スターリン個人はもちろんのこと、共産党それ自体の権威も損われる危険がありました。スターリン批判後も、常に“党の指導によって勝ち抜いた<大祖国戦争>”のイメージを国民統合の手段として用い続けた共産党からしてみれば、できない相談だったに違いないのです。その意味で、ドイツ側の“条約違反”は実に便利な口実となったのでした。

そういうのは、日本でも同じかもしれません。一般人はともかくとして、当時の日本の指導層、特に関東軍関係者が“騙まし討ち”だ何だと言うのを聞くと、こちらにはどうも違和感があるわけです。ソ連はそれまで既に対ポーランド、バルト三国、フィンランド(フィンランドの場合、そのためにわざわざ口実を捏造してるけど)と“不可侵条約破り”の前科がいくつもあり、1945年4月の段階で中立条約を延長しない意思も示していました。そのソ連に対し何の備えもできてなかったというのは、やはり彼らの落ち度だと思うわけです。スターリンが緒戦において、ドイツ軍の大勝を許したのと同じで。

現在のロシア政府が推奨する公式の“正史”や、歴史学界の主流的な立場は基本的に“大祖国戦争”史観寄り
ですが、ソ連の崩壊後は言論が大分自由になったのと、あと、それまで機密扱いだった公文書が大量に公開されたことにより、“大祖国戦争”史観を真っ向から否定するような書物も結構世に出回るようになりました。

その中でも代表的なのは、元GRUにして、冷戦時代に英国に亡命した歴史家、ヴィークトル=スヴォーロフの著作でしょう。スヴォーロフによれば、1941年の時点でのドイツ陸軍とソ連赤軍の戦力差は、実は完全に“ソ連>ドイツ”であり、スターリンは不可侵条約を過信するどころか、ドイツ軍が電撃作戦を開始した1941年6月22日の約三週間後の7月15日に、ドイツに対する先制攻撃を計画していたとまで言い切ります。でもって、そのために国境沿いに大軍を集中させていたのが裏目に出て各地で包囲殲滅され、莫大な数の死傷者や捕虜、鹵獲兵器を出してしまったのだと。

その説の是非はともかくとして、“大祖国戦争”史観の信奉者とその反対者が激突しているスレがありました。

--------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「スターリンがヒトラーに対する攻撃を準備していたという主張は、どうしてロシアの歴史家たちを憤慨させるのかね?」
原題:Почему утверждение, чтоСталин готовил нападение на Гитлера, вызывает такое возмущение у российских историков?
http://otvet.mail.ru/question/43528308/

普通のロシア人にとってもそうなの?


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
くだらない主張だから。


回答ナロード2号
そういう主張は、極めて有名な説の一つだ。別に、熱い議論なんて惹き起こしていないぞ。


回答ナロード3号
スターリンとヒトラーは共謀してたの。彼らには共通の目的があったのね。双方ともアクリチズム(←神秘主義の一種らしい)にはまっていたし、チベットにおいて不死身になる方法を見つけようと夢見ていた。そして、ユダヤ人を憎んでいた。といっても、二人ともユダヤ人なんだけどね

※そうだったのかw。これに限らず、ロシア人は、嫌いな人間は皆ユダヤ人にしがちな気がする。でも、ユダヤ陰謀説もいいんだけど、こうやって誰も彼もがユダヤ人という話になっていくと、最終的には“人類皆ユダヤ人”となり、もはやユダヤ性にこだわる必要などなくなるのではないか?


回答ナロード4号
そうやって、(スターリンは)米国や日本、そして月にまで至る領土拡張を欲していたわけですね。分ります。


回答ナロード5号
いやはや、完全な妄言だな。国防会議は、2年間もやりくりがつけられなかったんだぞ。弾薬も、予算も、兵器も足りなかったんだ。で、お前の言い分だと、うちらはさらに誰を攻撃したがってたって?もしお前が書いたようなことがあったとしたら、スターリンはなぜ不可侵条約を調印したんだ?なぜ緒戦の段階で何の行動もとらなかった?

※確かに米英からの物的支援(レンド・リース)が無ければ、ドイツ本土まで攻めていけたか否かは疑問。


回答ナロード6号
明日には平和が待っている、と考えた方が良いぞ。


回答ナロード7号
理由は簡単だな。泥棒の被る帽子には火がつくもの(=頭隠して尻隠さず)だ。要するに、馬鹿みたいに顔をゆがめて犠牲者のことを描いている方が、はるかに心地良いってことだよ。自分自身が“侵略者”だってことを認めるよりもな。


回答ナロード8号
こういうのは、ソ連と、その前世紀最大の戦争への貢献を貶めようとする活動の続きだな。プロパガンダに空白の余地は無い。あと10~20年もすれば、ロシアでも、一体誰が誰を攻撃し、何のために戦ったのか、誰一人自信をもって言えなくなっているに違いない。水は石をもうがつ(=雨だれは石をもうがつ)ものなんだ!まったく、これは仕方の無い事実だよ。悪いのは、ソ連共産党中央委員会とゴルバチョフ、それにライサ(ゴルバチョフ夫人)だな。ゴルバチョフは政権を(外国に)売り渡し、新たな社会と偉大な人民の記憶をボロボロにしてしまった!

※年配の人が書いていると思われる。ソ連時代を懐かしむ人は、旧ソ連圏でも貧しい地域に行けば行くほど多いが、その中で“ゴルバチョフは西側諸国から賄賂を貰ってソ連を潰したのだ!”と本気で信じている人は結構いるような気がする。


<ナロード・ベストアンサー>
そうしたら、彼らは独軍による“バルバロッサ”作戦が侵略行為ではなく、単なる先制攻撃だったと認めなければならない。“大祖国戦争”に都合の良い学説に安住できなくなるってわけだ。

※ドイツ軍が、対ソ侵攻作戦につけた呼称。
-------------------------------------------------------------------------

自分の周りでもそうですが、“大祖国戦争”史観に固執する人間は、やはり年配者が多いかもしれません。この辺のことについての歴史教育の内容はソ連時代から大して変わってないとはいえ、若い世代の人々は結構柔軟かも。ナーシ(笑)の団員とかは分からないけど....w。

こんなのも↓ありました。

-------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「ソ連がドイツに先制攻撃をかけなかったのは、ソヴィエツ側が不可侵の約束を守ったから?」
原題:СССР первым не напал на Германию, потому что совецкия сдержали обещание о ненападении?И зачем быть честным в политике?
http://otvet.mail.ru/question/25128357/

※“ソヴィエトの”を意味する形容詞“советский”が“совецкий”と綴りが間違っている上に、文法的にもおかしい。


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
もしうちらがドイツに侵攻してたらどうなってたかは、未だ分らんな....。


回答ナロード2号

ドイツ人が先を越したってだけだな。双方の大国が、戦争、それも防衛戦争ではなく侵略戦争を準備していたんだ。


回答ナロード3号
誰も誠実じゃなかったんだ。ソ連はポーランドをドイツに与え、連中はそれで満足すると思っていた。でも、そうはいかなかったという.......


回答ナロード4号
単に間に合わなかっただけ。奴らに先を越されたってことだ。


回答ナロード5号
ソ連はそんなに誠実ではなかったのであって、1945年の8月9日には日ソ不可侵条約(多分、“日ソ中立条約”のことを言っている)を破って日本に侵攻してる。あと、イランの北部も1942年に占領してる

※当時のパフレヴィー朝のシャー(皇帝)がドイツに接近しようとしたため、ソ連が北部を、英国が南部を占領した。


回答ナロード6号
まったくだ。しかし、自分の損になるような...。


回答ナロード7号

間に合わなかったんだな。誠実さと政治は相容れないものさ。


回答ナロード8号
政治においては誠実であるべきだ.....

出典:何かちょっと新鮮だな....


回答ナロード9号
間に合わなかったんだよ。ヴィークトル=スヴォーロフの“Mの日”を読んでみろ。


回答ナロード10号
展開次第では、ソ連が侵攻してたはず。ドイツは先を越しただけでね。つまり誰も約束を守って無かったってこと。政治において誠実さなんて有り得ない。ところで、“совецкие(サヴェーツキエ=ソヴィエトの~)”という言葉の“ц”は"тс"と書かないとね。ロシア語の教科書を買いなさい。


<ナロード・ベストアンサー>
貴方と議論するつもりはない(したくもない)が、スヴォーロフの説によれば、スターリンは1941年7月の末頃にドイツへの攻撃を予定していたという。
追伸:それにしても、今に至るまでこの説には誰も反駁できていない。ただこの著者に対し“馬鹿はお前だ!”と叫ぶだけでね。
-------------------------------------------------------------------------

しかしまあ、“大祖国戦争”史観寄りっぽい人ですら、ドイツの不可侵条約違反それ自体はまったく問題にしていないですね。

一応、それが話題になってるスレもあったのですが、書き込みは3つのみ。

-------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「ドイツが不可侵条約を破ったのは何故か?」
原題:почему Германия нарушила пакт о ненападении?
http://otvet.mail.ru/question/33587470/


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
戦術的計略ってやつだな。


回答ナロード2号
あの国は腹黒かったから。


回答ナロード3号
何故なら、スターリンが先に条約を破るのに失敗したから。

--------------------------------------------------------------------------

何だかなあ....。

自国が被害者の立場にあってもこれですから、加害者の立場にあってそれを気にするか否かなんて、推して知るべきでしょうw。

(7)に続く


「対日戦勝記念日」制定に対するロシア人の反応(5)

2010-08-08 23:41:07 | ロシア関係
→(4)からの続き

回答ナロード2号
>何でソ連は1945年に日本を攻めたの?
1945年の4月にルーズヴェルトが死んだ後、スターリンとトルーマンはポツダムで会談。降伏しない場合は破滅が待っているぞ、と日本を脅迫した。その後、8月にトルーマンは日本に対し、二発の原爆を投下したんだ。日本との戦争において、ソ連は大きな役割は果たしていない。この戦争の帰趨を決定付けたのは米国だ。

どうして日本が攻めてこなかったかって?そんなことをして、彼らに何の意味があるんだ?大きさにして数十倍の隣国と、どうして戦う必要がある?彼らは待つ戦略を選んだわけさ。で、もしもドイツが勝っていたら、彼らはさらなる領土の割譲を要求してきたことだろう。もちろん、東方からの攻撃は危険だった。スターリンは既に最期の五ヵ年計画の時期から、うちらの重工業施設のウラル以東への移転を進めてたからな。そういうものは、全部あっちの方にあったんだ。まあ、だからこそ、十分に守られたわけだけど。

※ 実際、そのままドイツが勝ち続けたら参戦する、という方針が御前会議で決まっていたらしい。陸軍はそのために“演習(関特演)”の名目で満洲に大兵力を動員した。


回答ナロード3号
何故日本が攻めてこなかったかは、日本に聞いて見る必要があるな。ソ連の対日参戦は、(米英による)第二戦線構築の条件の一つだった。ついでに言えば、ソ連にそうするよう熱心に求めていたのは他でも無い、米国だ。その代償として、スターリンはサハリン(樺太)とクリル(千島)列島の返還を勝取ったわけだ。ざっとこんな感じだけどな。ぜひとも、ヤルタとポツダム両会談についての資料を読むべきだろう。戦後の世界の命運は、そこで決定されたんだから。


回答ナロード4号
その頃の日本の政局においては、ソ連への攻撃を主張する陸軍と、米国への攻撃を求める海軍との対立があったんだ。で、勝ったのは海軍だった

※“南進論”と“北進論”の対立のことを指していると思われる。ただ、陸軍内部でも両者の対立があったことを思えば、これは正しくない。

ソ連が日本を攻めたのは、米英との合意に基づくものだ。日本との条約については、1945年の4月にソ連側から廃棄が通告されていた

※されていない。実際には“延長しない旨の”通告。詳細はこの後の<ナロード・ベストアンサー>参照のこと。


回答ナロード5号
サハリン(樺太)のソ連への返還については、既に1945年2月の反ファシスト同盟首脳会談の一つで合意がなされていた。


回答ナロード6号
びびったからだろ....www 正直...攻めてきたって思ってたwww


<ナロード・ベストアンサー>
日ソ不可侵条約は、1941年4月13日にモスクワにて調印された。その条約の第3条によれば、“本条約は双方の当事国で批准された日から5年に渡って有効とする。もし当事国のいずれか一方が、有効期間の終わる一年前までに条約を破棄しない場合、条約はさらなる5年間の延長がなされたものとみなされる”とある

松山大学のサイトに原文があった。

第3条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且5年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ1年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ5年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

あと、条約にはこういう声明書も付け加えられていたらしい。

声明書   

大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ1941年4月13日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス


ソ連が事実上満洲国の存在を承認し、これをモンゴルと同格に扱っていたことが分かる。満洲国は一時は枢軸諸国やタイなど20カ国以上から正式に承認されていたが、これは、当時のモンゴルの承認国数よりも多かったのではないか。ちなみに、中華民国はどちらも自国の一部としていたものの、モンゴルの方は第二次大戦後、ソ連の圧力により独立を認めさせられた。

条約は1941年4月25日に批准され、有効となった。1945年4月5日、ソヴィェト政府は条約の第3条に言及し、これを破棄するとの意思を表明。

こうして、中立条約が効力を持つのは1946年の4月25日までということになったんだけど、ソ連はこれを破って1945年8月9日に日本に宣戦を布告した。その理由は、もちろん他の連合国からの圧力だ。
---------------------------------------------------------------------------

基本的に、中立条約の違反それ自体は問題にならず、

“米英との同盟+ヤルタ協定の方が優先されて当然”

みたいな感じで正当化する人がほとんどですね。

ヤルタ協定なんて、戦勝国の指導者同士の単なる口約束なんですけどね。法的には

そうした“勝者の口約束”の前では、いかに正式なものであれ敗戦国との二国間条約なんぞ無効だ!というわけで。

文字通りの“勝てば官軍”というか、何だかミもフタも無い話ですね。 


→(6)に続く

「対日戦勝記念日」制定に対するロシア人の反応(4)

2010-08-04 21:59:18 | ロシア関係

→(3)からの続き

しかしまあ、ソ連軍の満洲侵攻により、一歩間違えばこの世に存在していなかったかもしれない引揚者の子孫の一人として気になるのは、今のロシア人たちが、ソ連による“日ソ中立条約”の一方的破棄をどのように捉えているか?という点です。

件の“Mail.ru”の掲示板でそれ関係のものを探していたら、“1945年のソ連軍による日本侵攻は侵略だったか?”といった内容のスレが、3つ同時に立てられていることに気づきました。表現は微妙に異なっていますが、スレ主は同一人物なのです。恐らく“釣り”目的なのでしょうが、選ばれた“ベスト・アンサー”の傾向から見る限り、どうやら“侵略ではなかった”という答えを欲しているようです。“統一ロシア”の工作員か?w

タイトルがタイトルだけに“右派ホイホイ”の雰囲気が濃厚ですが、ひとまずまとめて訳してみましょう。

---------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「1945年のソ連軍による日本侵攻は侵略だったか?」
Было ли вторжение советских войск в Японию в 1945 году агрессией?
http://otvet.mail.ru/question/7800678/


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
連中との間には戦争があったんだ。侵略って何だ。


回答ナロード2号

お前、侵略してるとこ見たのかよ?


回答ナロード3号
日本とは今に至るまで、戦争状態が続いている。でもって、連中はこちらがクリル(千島)列島を返さない限り、平和条約は結びたくないらしいな。でも、あれは侵略ではなく先制攻撃であり、同盟国への支援行動だったんだ。

いや、侵略です。


回答ナロード4号

どっちにしろ島は渡さないぞ....


回答ナロード5号
彼らとの間には1941年に中立条約が結ばれており、戦争は無かった。でも、1945年に我々は米国との合意によって、日本に攻撃をかけた。で、米国が日本に核攻撃を行った後で、休戦が決まったんだ(ソ連と日本帝国の間で)。その際、日本は米国に対し降伏してる

 ※だから、ソ連にも降伏してるんだって。


回答ナロード6号
ロシア革命は世界革命にとっての火花だった。“全世界の労働者よ、団結せよ!”、“虐げられし我らは、全てのブルジョワに対し、世界規模の火災を引き起こすだろう!”といったスローガンを思い出してくれ。

だから、ドイツや日本との戦争は“計画された”侵略だったんだ!

※そのために、ブルジョワ国家の親玉である米英と手を組むのは可なのか?w


<ナロード・ベストアンサー>

もちろん、侵攻はあったよ。米国との間の同盟条約があったからな。うちらは、ドイツの降伏後3-4ヶ月後には日本に宣戦を布告しないといけなかった。ちなみに、現在に至るまで日本とは休戦が続いているわけで...平和ではなく。
 -------------------------------------------------------------------------

なるほど。

お次は、こちら↓。

-------------------------------------------------------------------------

<教えて!ナロード>

「1945年のソ連軍による日本侵攻は侵略か?」
Вторжение советских войск в Японию в 1945 году агрессия?
http://otvet.mail.ru/question/8709788/


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
 (他の連合国に)借りを返したんだよ。より正確には、約束を守ったというべきか

※日本との約束も守れよ。


回答ナロード2号
否!あれは是が非でも必要だったんだ!


回答ナロード3号
我々は米国との合意の枠内で行動したんだ。こうした行動は断じて侵略とはみなされない

※いや、侵略だ。


回答ナロード4号
侵略とは驚きだな。日本はドイツの同盟国であり、ソ連は米英の同盟国だった。連中はうちらを助けてくれただろ。うちらは同盟国としての義務を果たすとともに、極東の脅威を取り除いたってわけだ。


回答ナロード5号
これは侵攻じゃない。ヒトラーの同盟国に対する懲罰だ。日本の“お陰で”、ソ連は1941~1945年の間、日本人に対抗できるような膨大な兵力を極東に貼り付けておかねばならなかった。背後から攻撃されるのを恐れてな。で、同盟諸国には(欧州での)戦争が終わって3ヶ月の後、宣戦を布告すると言ってあった。それが8月の9日だけど、米国人(うちらの同盟国)はその3日前に(原爆による)攻撃を行った。原爆の信じがたい効果の“お陰で”、日本人たちは最大限の流血が予想された戦争を避け、一月足らずの内に無条件降伏したんだ。

※フィンランド人やバルト三国人、ポーランド人にも是非同じことを言ってみて欲しい(ヒント-<モロトフ・リッペントロップ協定>)。あと、その極東に貼り付けておかねばならない兵力も、中立条約の有るなしでは大分差があったのではないか?


回答ナロード6号
 1905年の(日本軍による)千島列島と南サハリン(樺太)の占領こそ侵略だろう。ソヴィエト軍は日本の領土には侵入していない。シコタンやハボマイといった島々を除いてはな。でも、島はうちらのものだ、永遠に!

※だから、千島は日露戦争とは関係ないって何度言ったら...。あと、シコタンやハボマイは日ソ共同宣言でも北海道の一部だと認められてるんだけどね。


<ナロード・ベストアンサー>

現在に至るまで、歴史家や政治家の間では日本打倒においてソ連の果たした役割についての議論が絶えない。ロシアの歴史家のほとんどは、“日本の侵略者を打倒するのにソ連が決定的な貢献をした”と主張し続けている。

一方、別の観点からそれに反対している人々(“反動的な西側の歴史家たち”)は、ソ連は戦争が終わる間際にうまく滑り込んできて、最小の犠牲で莫大な利益を得たといっている。

どっちが正しいのか?この問題の答えを探すことは、ソ連が対日宣戦をするに至った一連の事件を手短に知ることができるという点で、意味があると思う。
http://www.japantoday.ru/znakjap/histori...
-------------------------------------------------------------------------

“反動的な西側の歴史家たち”w。

“火事場泥棒”という言い草も、きっと“反動的”な表現ってことになるんでしょうw。

あと、“ヒトラーの同盟国”とか“ドイツの同盟国”とかいった言葉がよく出てきますね。連合国の中にも、1941年の半ばくらいまでそのドイツと一緒になって、東欧や北欧の小国を好き勝手に侵略してた国があったような気がするんだけど、気のせいか?確か名前をソ何とかといったような....。

お次は、こちら↓。 

-------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「1945年のソ連による日本攻撃は侵略か?」
нападение СССР на Японию в 1945 году было агрессией?
http://otvet.mail.ru/question/7719496/


<ナロードの答え>


回答ナロード1号
というか、1939年の日本による侵略に対する返答だ。

※多分ノモンハン事件のことを言ってると思うんだけど、モンゴルはソ連の一部だったの?


 回答ナロード2号

ソ連の同盟国を攻撃し、最初に戦争を始めたのは日本人の側だろ

※結局ソ連は攻撃していない。そのための日ソ中立条約だった。


回答ナロード3号
同盟国としての義務遂行だ。出版界ではこのテーマに光は当てられないけどな。


回答ナロード4号
日本はドイツの同盟国であり、ソ連の同盟諸国と戦っていた。戦争の論理だな。もし仮に日本の敗戦に乗じてなかったとしたら、スターリンは馬鹿だってことになったはず。


回答ナロード5号
いや、侵略とはある国から他の国への“一方的な”攻撃のことだ。日本に対する宣戦布告は、同盟諸国の同意を得ていた。ソ連はドイツの降伏から3ヵ月後に日本-ドイツの同盟国に宣戦を布告するって話でな。思い出してほしいのは、米国はソ連の同盟国であって、日本とは戦争状態にあったということだ。故に、ソ連の日本に対する攻撃は一方的なものではなく、単に同盟国としての義務を果たしただけってことになる。それに、宣戦布告の公式通牒は、軍が国境を越える前までに、ちゃんと日本政府に送付されていたんだ

※これ自体は間違いではないけど、ソ連政府がモスクワの駐ソ日本大使に“8月8日から戦闘状態に入る”という旨の公式通牒を手渡したのが8月8日の夕方。大使館から外部への電話線は“何故か”使用できなくなっており、本国との連絡が取れないまま、その数時間後にはソ連軍の侵入が始まった。事実上の奇襲攻撃だったと言うべき。


回答ナロード6号

明らかに侵略だ。


回答ナロード7号
あれは、国家間の取り決めに従う上で必須の行動だった.....スルーしてはいけない...どこでもそうだろう....


回答ナロード8号
ああ、もちろんポンニチたちは皆怒ってるさ....クリル(千島)はくれてやった方が良いだろうよ。でも、何だって奴らはうちらに降伏なんてしたんだ?


<ナロード・ベストアンサー>

そうだな。米国との条約があったという点に同意。その同盟条約を基にして、合州国は対独戦でソ連と英国を支援してたんだから。というか、うちらは人民に対してではなく、ナチズムと戦ったというのに、日本から島を奪ったとか言うのは一体どういうことなんだ?
-------------------------------------------------------------------------

何だか、これだけだとあれなので、ロシア語版“Google”の質問コーナーにあった似たようなスレも訳してみましょう。ちなみに、住人の知的水準は何となくこちらの方が高めな気がします。

--------------------------------------------------------------------------
<教えて!ナロード>

「第二次大戦の際、日本はソ連を攻撃しなかったけど、何でソ連は1945年に日本を攻めたの?」
Почему Япония не нападала на СССР во время второй мировой, а СССР в 45-ом напал?
http://otvety.google.ru/otvety/thread?tid=79bd06022de7a716&table=%2Fotvety%2Fsearch%3Fsort%3Dwsmor%26order%3Dwsnod%26start%3D0%26q%3D%25D1%258F%25D0%25BF%25D0%25BE%25D0%25BD%25D0%25B8%25D0%25B5%25D0%25B9%2B%25D0%25A1%25D0%25A1%25D0%25A1%25D0%25A0

ソ連と日本との間では、1941年の4月に5年間有効の不可侵条約が結ばれていたというのに....

※日本でもロシアでも取り違える人は多いけど、これは中立条約の間違い。でもいずれにせよ、当時のソ連の対日宣戦は条約違反。


<ナロードの答え>

回答ナロード1号
日本が攻めてこなかったのは、日ソの間に中立条約が結ばれていたから。不可侵条約じゃなくて。

ソ連の、大陸における連合国の対日戦争を支援するとの決定は、既にポツダム会談までには承認されていた。ソ連の対日参戦は、(欧州での)第二戦線構築問題と分けては考えられないものとして議論されていたんだな。

※第一戦線=独ソ戦の舞台=東部戦線。陸戦をソ連だけにやらせるんじゃなくて、米英軍も欧州大陸に上陸し、西からドイツを攻めるべし、という話。

米英の側は米英の側で、ソ連に対し、北から日本を攻めるよう求めていた。 さらに、ソ連には極東における自らの国益があった。つまり、1904-5年の日露戦争で失った南サハリン(樺太)とクリル(千島)列島だ。これらの地域は、1945年にしかるべくソ連に返還されたってわけだ

※だから千島は...(以下省略)。


→(5)に続く