→(4)からの続き
どこからツッコミを入れるべきか少々迷う所ですが.....
まず、ここで引用・要約されているあちらの新聞記事は、英文のも、トルコ語のも、いずれも大手新聞“ヒュリエット”紙のセルカン=デミルタシュ記者によって書かれたものです。他の新聞に載っているものも同様。
中には、タイトルが別だったり、デミルタシュ記者の署名が無いものもありますが、内容はまったく同じですね。
何故か“要約”しかしない市議の代わりに、全文を訳してみましょう。
トルコ語の方は、長い版と短い版の2つがあるのですが、
まず、短い版はこちら↓
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「アタテュルク像、串本へ」 ヒュリエット紙 2009年1月4日
原文:Kushimoto’ya Atatürk heykeli http://www.hurriyet.com.tr/dunya/13371453.asp?gid=200
偉大なる領袖ムスタファ=ケマル=アタテュルクの記念碑に、日本から実に真摯な敬意が示された
台座の部分まで含めると7.5mもの高さになるアタテュルクの銅像が、日本の串本市(←ママ)に建てられる。在東京トルコ大使セルメット=アタジャンルがヒュリエット・デイリー・ニュース※に行った説明によれば、この銅像の建立は両国の関係の到達点を現すとともに、その将来における発展の可能性を示しているという点において、非常に重要であるとのこと。
※ヒュリエット紙の英語版
銅像は、日本の皇族の列席も期待される、エルトゥールル号殉難事件から120周年にあたる2010年6月3日の追悼式典に合わせて、串本に建立されるものと考えられている。
銅像の日本における冒険は、そもそも1996年に始まった。銅像はかつて柏崎町(←ママ)に建設されたトルコ文化村のため、文化観光省の美術部門が彫刻家メティン=ユルダヌルに依頼したものであり、今から14年前に建立された。村の運営は、2005年の新潟地震(←2004年の新潟県中越地震?)の後に停止。地震により台座が傷んだことから像はそこから取り外され、トルコ大使館の介入により、ある倉庫へと移送されたのだった。
8トンの青銅像は、今再び日の目を見る瞬間を待っている。
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そして、長い版はこんな↓感じです。
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「彼らは巨大なアタテュルク像を建て、観光客を待っている」
2010年1月4日
原文:Dev Atatürk heykelini diktiler turist bekliyorlar
http://www.haber7.com/haber/20100104/Dev-Ataturk-heykelini-diktiler-turist-bekliyorlar.php
トルコと北キプロス・トルコ共和国に次いで最も大きなアタテュルク像が、日本の串本市に建立された※。人口2万人の観光都市串本では現在、来訪が期待されるトルコ人観光客に注目が集まっている….。
※原文ママ。実際には串本“町”。以下、文中ではずっと串本“市”という呼称が使われているので、各自“市”を“町”に置き換えて読んでいただきたし。あと、この記事では既に銅像が建っていることになっている。
セルカン=デミルタシュ記者
20世紀で最も重要な国家指導者の内に数えられるムスタファ=ケマル=アタテュルクの、台座も含めれば7.5mもの高さになる銅像が、日本近海で沈んだエルトゥールル号の遭難事件から120周年を記念して、串本市に建立されることが決まった。
アタテュルクの胸像やレリーフは、メキシコやオーストラリア、キューバ、チリといった国々にも存在する。とはいえ、この大きさの銅像が建てられるのは、トルコや北キプロス・トルコ共和国※を除く第三国では初めて。
※ 北キプロス・トルコ共和国:トルコ語だと“Kuzey Kıbrıs Türkıye Cumhurıyeti”、略称は“KKTC”。1970年代、地中海に浮かぶ小さな島国キプロス共和国において、ギリシアへの統合を求める多数派のギリシア系住民と少数派のトルコ系住民の間で紛争が発生。民族浄化(当時はそんな言葉はまだ無かったが)の危険ありと判断したトルコ政府は後者の側に立って軍事介入し、トルコ系住民の多い島の北半分を制圧した。
トルコ系住民らは、トルコの支持の下“北キプロス・トルコ共和国”の分離独立を宣言して今に至っている。以来、島の南北分断は30年以上経った今もなお続いているが、北側の“北キプロス・トルコ共和国”を国家として承認しているのは世界でトルコ一国のみ。
そのために、トルコからここに“入国”するとパスポートには出入国のスタンプが押されるわけだが、トルコの通貨トルコ・リラがそのまま用いられていたり、国際コード無しでトルコ本土に電話がかけられたり、とほとんどトルコの一部のような感じである。
↓国旗もトルコのそれによく似ている。
出典:http://images.google.com
ちなみに、“キプロス共和国”成立以前のキプロス島は数十年間英国の領土だったためか、元からそこに住んでいたトルコ系住民は、外国人と見ると好んで英語で話したがるなど、“北キプロス”成立後にトルコ本土から大量に移住してきた移民とは明らかに雰囲気が異なる。
実際、両者の文化的差異はかなり大きなものがあるようで、首都レフコシャ(ギリシア名は“ニコシア”。冷戦時代のベルリンのように、南北に分断されている)でも両者は互いに別々の街区に住み分けていたりする。
台座の部分まで含めると7.5mもの高さになるアタテュルクの銅像が、日本の串本市に建てられる。在東京トルコ大使セルメット=アタジャンルがヒュリエット・デイリー・ニュースに行った説明によれば、この銅像の建立は両国の関係の到達点を現すとともに、その将来における発展の可能性を示しているという点において、非常に重要であるとのこと。
銅像は、日本の皇族の列席も期待される、エルトゥールル号殉難事件から120周年にあたる2010年6月3日の追悼式典に合わせて、串本に建立されるものと考えられている。
2万の人口にも拘わらず、観光都市としての売出しを試みている串本市の関係者は、アタテュルク像が生み出す特色によって、トルコからもっと沢山の観光客が来るよう望んでいることを明らかにした。
この銅像には、色んなことがあった。
串本に建てられる予定の銅像の、日本における冒険はそもそも1996年に始まった。当時、柏崎町※に建設されたトルコ文化村のため、文化観光省の美術部門が彫刻家メティン=ユルダヌルに依頼したという銅像は、今から14年前に建てられた。
※原文ママ。正しくは柏崎“市”。
営利事業であったトルコ文化村は、十分な集客ができなかったことで破産。2005年に発生した新潟地震(=2004年の新潟県中越地震?)の後には、完全に閉鎖されてしまった。地震によって銅像の台座と留め金が痛んだことで倒壊の危険が生じたため、銅像は取り外され、トルコ大使館の介入である倉庫へと移送されたのだった。
日本年に合わせて
銅像が今年中に建立されるのは、今日から様々な行事を伴いつつ祝われるであろう、トルコにおける“日本年”に合わせたものだという点でも、注目されている。
本日アンカラで、日本の岡田克也外相の出席の下行われる式典により、日本年は公的に始まることになる。今年一年もの間、アンカラ、イスタンブル、イズミル、カイセリ、チャナッカレ、ギョルジュック、メルスィンその他多くの都市で行われる行事を通じて、日本の芸術やスポーツ、文化がトルコの人々に紹介されることになるだろう。
着物の展覧会や、和太鼓、剣道の試合、護身術、日本映画の諸作品や世界的に有名なマンガ(絵解きの小説)作品の展示や公開が行われるものと考えられている。
この壮大な企画をスポンサーとして支えているのが、世界で最も大きなものの内に数えられる日本のブランド企業だ。運営委員会はトルコに大規模な投資を行っている約50の企業からなるが、その委員長はトヨタのCEOであるフジオ=チョー(張富士夫)が努める。カジマ(鹿島建設)や伊藤忠といった企業の経営者も、チョーの補佐役として委員会に参加しているのである。
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英文のものは、ヒュリエット紙の英語版“ヒュリエット・デイリー・ニュース”で、これらの記事が載る前日=2010年1月3日付けで掲載されたもので、内容は上で紹介した“長い版”のそれとほぼ同じです。
故に本文は訳しませんが、興味のある方は読んでみてください。
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“Erecting Atatürk’s statue in another corner of the world”
Sunday, January 3, 2010
SERKAN DEMİRTAŞ
ANKARA/TOKYO- Hürriyet Daily News
http://www.hurriyetdailynews.com/n.php?n=erecting-ataturk8217s-statue-to-the-other-corner-of-the-world-2010-01-03
「世界のもう一方の片隅に、アタテュルクの銅像が建てられるということ」
2010年1月3日 日曜日
セルカン=デミルタシュ記者
アンカラ/東京-ヒュリエット・デイリー・ニュース
(以下略)
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どの記事も一読すれば分かる通り、エルトゥールル号事件から120周年、かつ“トルコにおける日本年”を記念して串本にアタテュルクの銅像が建てられるという“慶事”が主題になっています。
柏崎とかトルコ村絡みの話題は、“この銅像にはこんな面白い由来があるんだよ”みたいな具合でちょこっと触れられるだけですが、これは別に誰かさんが考えているように、
“両国のため今年のイベントに影響がないよう、ご苦労をされた駐日大使への配慮もあって、以下のようなストーリーになっている”
訳ではなく、
単純に、本筋に関係ない“傍系の”エピソードだからでしょう。
以前のエントリーでも紹介したように、例の“銅像事件”なんてトルコのメディアでは“日本人ですらこんなにアタテュルクを敬っている。お前らもちゃんと敬え”くらいに報道されただけですから、多分、普通の人は誰も覚えていないのではないかと思われます。
市議が英文版の記事ですら全文を引用しなかったのは、
恐らく“一つの部分だけ抜き出してさも全体のように見せる”という、ケチな印象操作の試みがバレるからでしょうね。
しかしまあ、もし仮に三井田ブログの記事を100%真に受けたとして、
>両国のため今年のイベントに影響がないよう、ご苦労をされた駐日大使
>への配慮もあって、以下のようなストーリーになっている
こう↑書いておきながら、
>・新潟地震?により、トルコ文化村は廃業となり、この地震によって銅
>像にも損害があり、保管されていた。しかし、今回、もうすぐ再建される。
>記事によっては「Kashiwazaki:柏崎」の名称が出ておらず、「Niigata:新
>潟」という表記のみで新潟県民皆様へは申し訳ない限りであるが、両国の
>ためにはこのような報道でまずは安心したところ。
その後にこう↑続いたのでは、 読む方は何が“申し訳ない限り”なのか分からないような気が….。
“新潟地震”では新潟全体のイメージが悪くなるから、他の県民に迷惑をかけないためにも、あくまで“柏崎地震”だと言うべきだ!とか、そういう話か?w
だとしたら、不思議な感性の持ち主ですね。
というか、この人はトルコ語版にしても英語版にしても、記事の内容が十分に読めていないのかもしれない。
その辺りは、この↓辺の誤った要約を見ても分かるのですが、
>また、今回のトルコ語を何とか読んで分かったことは、旧柏崎トルコ文化
>村に建立されていたアタチュルク像(重さ8トン、全高7.5メートル)
>は
>・トルコ国外にあるアタチュルク像では一番大きい。|
>・トルコ国内を入れても3番目の大きさを誇る。
>だったことである。
“トルコ国内を入れても3番目”云々というのは、原文の
“Türkiye ve KKTC dışında ilk kez üçüncü bir ülkede dikileceği kaydediliyor.”(トルコと北キプロス・トルコ共和国以外の第三国では初めて建立されることになる)
を誤読したのでしょう。
あと、北キプロスについては英語の方でもわざわざ
“this seven-and-half-meter-tall bronze statue displaying Atatürk on a horse is the first of its kind outside Turkey and northern Cyprus.”
と出てくるんですけどね。
北キプロスを独立国家であると認識するか否かは人それぞれでしょうが、無視はいけない。
→(7)に続く
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件の議員さんも懲りませんねぇ…