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より良き明日の為に

人類の英知と勇気を結集して世界連邦実現へ一日も早く

小説を書こう

2009-11-27 17:40:12 | より良き世界のために

欧州連合(EU)にこのほど大統領と外相職が新設されました。徐々にではありますが、EUは国家を超えた地域政府に近付いています。そして世界の人々はそのはるか先にEUの拡大版としての「世界政府」をおぼろげながら認め始めたのではないでしょうか。ただしEUはすでにその源流から半世紀が過ぎています。従ってその伝でいけば世界政府の実現は更に半世紀後、つまり今世紀後半でかなり先の話と云ったところでしょうか。

 

しかしそれではあまりにも遅すぎます。例えば地球温暖化の問題は各国の経済利益が絡んでおり、世界政府的な政治力を持ってしない限り解決し得ないでしょう。かくして2050年にはツバル等の島嶼国は軒並み水没し、多くの難民が発生します。気候変動に伴う食糧不足、水不足などで地球上は騒然としているでしょう。さらにこれらの争奪は武力衝突を招き、世界の到る所で紛争が生じているでしょう。中には核爆弾も使われ、かつての広島や長崎の惨状がどこかで再現されているかも知れません。

 

これは人類の英知の敗北を意味します。人類は自ら育て上げてきた気候変動と云う悪魔を前に小田原評定を繰り返すのみで何ら効果的な対策を一致団結して打ち出すことができなかったのです。

 

こんな事態になるのを避けるために我ら世界連邦主義者は活動しています。私たちは2025年までには世界連邦を実現したいと考えています。そうすれば何とか島嶼国が水没を免れ、食糧不足や水不足も回避でき、世界中の武力が極小化され、貧困と飢餓、隷従もこの地上から姿を消しているでしょう。

 

一方そう言いながら現実の私たちを見ると「日暮れて道半ば」の感があります。有力な政治家や有力なオピニオンリーダーの中で「世界政府、世界連邦」を口にする人はまだいません。オバマ米国大統領にしてやっと「核兵器廃絶」を口にしてノーベル平和賞が授与されるという段階です。でも彼の影響力は絶大でした。彼の演説を端緒として長い間後退に次ぐ後退を続けていた核兵器廃絶が実現に向けて動き始めているのですから。

 

昨年のノーベル平和賞受賞者アル・ゴアさんの影響力も大きいものでした。彼の出演した映画「不都合な真実」は京都議定書に背を向けたあのブッシュ政権をも振り向かせ、米国をして地球温暖化対策の落後者から牽引者に立ち直らせたのです。そして世界は先進国と途上国の利害の衝突を抱えながらも「京都」後の話し合いのテーブルに着こうとしています。

 

ところでオバマ大統領の「核兵器廃絶」演説は一夜にして彼の頭に去来した物では決してありません。1945年原爆投下以来の世界中の核兵器廃絶を望む声が4月のプラハの彼の演説に凝縮されて現れたのです。「はだしのゲン」に代表される漫画、「長崎の鐘」に代表される歌謡、「黒い雨」に代表される小説及び映画、そして「10フィート運動」等など主に被爆国日本を中心にしたありとあらゆる形での「声と熱意と叫び」があの日彼の口を通して出たのだと思います。

 

地球環境問題の場合も同様です。60年代レイチェル・カールソンの「沈黙の春」という小説、70年代ローマクラブによる「成長の限界」というレポート、その他日本を含めた世界中の警告・告発が積もり積もってゴア元米国副大統領の映画「不都合な真実」に凝縮されたのだと思うのです。

 

翻って私たちの世界連邦運動はどうだったでしょうか。結果として私たちはこう言ったアニメーション、小説、映画、歌謡といった感性に強く訴える手段を使ってきませんでした。あるいは使えてきませんでした。今こそこの手段に打って出る時ではないでしょうか。「世界連邦下の世界はこうなる」あるいは「早く世界連邦化しないとこうなってしまう」と云ったテーマの小説、アニメーションが多くの人々の心をとらえ、翻訳されて世界中に読まれ、映画化されて歌にも歌われたら・・・。そしてある日世界の有力なリーダーが「世界連邦化を目指す」と演説し、ノーベル平和賞を受賞したら・・・。

 

世界連邦の早期実現を希求する皆さん、小説を書きましょう。アニメーションでもいいです。人々の心を揺り動かすような、琴線に触れるような、「確かにそうだ」と感動してもらえるような、「よくぞ書いてくれた」と涙を流してもらえるようなものを作りましょう。あるいは書けそうな人に、プロの作家に頼むのも良いかも知れません。もちろんかく云う私も一年前から挑戦しています。でも難しいのです。論文形式なら書けそうですが、これでは従来既にあるものと何ら変わりません。物語として面白く感性に訴えるものでなくてはならないのです。近未来小説、SF小説。多くの人が手掛けるうちにきっと良いものが出来てくると信じています。


フランス紀行

2009-11-06 17:13:18 | ジェットの丸窓から

1. パリからストラスブルグへ

1980年5月世界連邦運動の青年部門(WFY)の会議がストラスブルグであったので、アエロフロートに乗りモスクワ、パリ経由で現地へ向かいました。当時の成田パリ間往復料金はエコノミークラスで40万円くらいだったと思います。

飛行機も初めて、外地も初めての旅だったので、トランジットで降り立ったモスクワでは出発時にゲートを間違えて危うく置いて行かれそうになりました。パリのドゴール空港に着いたのは夜で、リムジンバスとタクシーを乗り継ぎ北駅に向かいました。北駅発ストラスブルグ行きの夜行列車に乗り遅れまいと、タクシーを急がせました。運転手が信号無視すれすれで交差点を通り抜けるたびに「メルシー!」を繰り返しました。

何とか滑り込みセーフで間に合って乗り込んだ列車は超満員でした。床一面に荷物が置かれ、荷物を跨いでやっと立っている状態でした。周りは若者ばかりです。何人かに尋ねてやっと分かったのですが、彼らは徴兵で招集され、訓練地に向かうところだったのです。ちなみにフランスの徴兵制度は2001年に無くなっています。彼らが途中で一斉に降りた後はがら空きで、コンパートメントの座席に座り、ようやく仮眠することが出来ました。

翌朝霧の立ちこめる中、ストラスブルグ駅に降り立ちました。

2.ストラスブルグにて

駅構内のレストランでトーストなどを食べてから、郊外の会場であるセントラジュネス(青少年センター)に向かいました。そこは内も外もコンクリート打ちっぱなしのシンプルな建物で、今ではあちこちで見かけますが当時の私の眼には珍しく映りました。管理人は柔道が好きな好青年で、こちらが日本人と見るや柔道の技の話などが始まりなかなか止まりませんでした。

案内された個室の窓にはロールカーテンがあり、これも当時の私にとって珍しいものでした。そしてもっと驚いたのは夕暮れです。夜9時を過ぎてもまだ空が明るいのです。10時を廻ってようやく夜らしくなって来ました。これで東京よりもはるかに高緯度の街に、しかも5月と云う季節に訪れていることを実感したのです。

翌日から始まった会議には約15カ国から20名ほどの若者が参加しました。私を含め西側先進国が多いのですが、先進国以外ではこのわずか3ヶ月後に独立労組「連帯」の設立を控えたポーランドと半年前にソ連に軍事介入されたばかりのアフガニスタンからの参加がありました。各国の現状報告の中に「東欧諸国の民主化」と「アフガンからの報告」が含まれていたのは言うまでもありません。私は「日本で有事法制研究が始まり軍事費が年々増えつつある」という報告をしました。最後に英国の宇宙航空企業ルーカス・アエロスペース社の労働組合が軍需産業から平和産業に転換しようとした経緯「ルーカスプラン」についてのプレゼンテーションがありました。

会議の中日が日曜日だったので私はストラスブルグの街に出ました。広場でペタンクに興じている老人グループに頼んで鉄球を放らせてもらいました。日本でいえば私の両親も熱中していたゲートボールと云った感じでしょうか。中心部のカテドラルまで循環バスに乗りました。降りる際に持っていた全てのコインを掌に載せて運転手に差し出したのですが、運転手は受け取りませんでした。もしかしたら小柄な私は東洋系の少年と見られたのかも知れません。ただし帰りのバスではあらかじめ確認し準備しておいたコインをちゃんと払って下車できました。カテドラルの売店で買った乾電池には消費税15%が掛かっていて驚きました。日本の消費税3%施行の9年前のことです。

ストラスブルグに一週間滞在した私はパリ行きの電車に乗り込みました。来るときは夜行列車でポツンポツンと灯る寂しげな街の灯しか見えなかったのですが、帰りは5月の陽光降り注ぐ中でした。特に線路わきに連なる緑の林と光煌く小川の織りなす絵のような景色にしばし見とれました。

3. 再びパリにて

パリの北駅について駅前のホテルに今宵の宿をとりました。ホテルで観光案内図を貰い、遅い昼食を摂ろうと少し歩いてレストランに入りました。しかし仏語だけのメニューが全く読めず、ウェイターに英語で聞いて何とか鴨肉料理にありつくことができました。料理には満足した私でしたが、会計で一悶着ありました。食べていない物が加算されていたのです。ウェイターに抗議して訂正してもらいました。

レストランを出たところで乗用車とバイクの接触事故があり、倒れたバイクが私の足元1メートルまで飛ばされてきました。幸い双方に怪我なく警察沙汰にしないで別れたようでしたが、ここでもし私が事故に巻き込まれていたらと思うとゾッとします。

更に歩いて行くと街娼とおぼしきマダムから声を掛けられました。「シッシ、シッシ」とまるで追い払われてでもいるかのように聞こえたのですが、一人旅の日本人男性は彼女らにとって恰好の「鴨」なのでしょう。

地図を広げ、ルーブル美術館が近いことを知ってタクシーを止めました。運転手は「ルーブル?」と復唱するや、さも「仕方ない」と云ったしぐさをして交差点を一つ曲がり向いの建物を指さしました。そこがルーブル美術館でした。乗車距離にして200メートル位でしょうか。代金は受け取ってもらえませんでした。「いよいよ憧れのルーブル!」と勇んで近づいてみると、何と閉館中でした。立て看板には「従業員のストライキによる」とありました。フランスのストライキの多さは有名ですが、自分がそれに遭遇して実感に変わりました。

私同様当てが外れた観光客は大勢いて、彼らとともに中庭を通りカルーゼルの凱旋門をくぐってチュイルリー庭園に入りました。あちこちに彫刻があり、人だかりの中でミュージシャン達が演奏していました。開いて置かれたギターケースにコインや紙幣が投げ入れられました。庭園の終端にあるグランバッサン(大きな池)から坂を上るとコンコルド広場を見下ろすテラスがあります。ここからシャンゼリゼ通りがまっすぐに延び、そのはるか先に凱旋門が見え、更にその左手にエッフェル塔の上半分が見えます。

空は夕映え。のどの渇きを覚えた私は黄金色の斜光の中、セーヌ川越しにシテ島を望むオープンレストランでビールを飲みました。

ホテルに戻った私は部屋に「普通のトイレ」が無いのに気が付きました。浴室に床からノズルが垂直に飛び出ている「ビデ」とおぼしき物はあるのですが、普通の洋式の便器は無かったのです。部屋で用を足すことができず、やむなく廊下に出て共用?のトイレを使わざるを得ませんでした。ひょっとしてここは日本でいうファッションホテルつまり連れ込み宿だったのでしょうか。ただし翌朝のトーストとハムエッグの朝食はおいしく、接客態度も親切で立派でした。

ホテルをチェックアウトして向いの北駅に着きインフォーメイションカウンターの美しいパリジェンヌに英語で尋ねました。「ドゴール空港行きは何番線ですか?」「○△×□・・・!」彼女は早口英語で、かつものすごい剣幕で私に答えると「プイッ」と次の客に顔を向け、二度とこちらを向きませんでした。「パードゥンミィ」という私の声は空しく響くばかりでした。やむなく改札口まで行って年配の男性駅員に同じ問いかけをしました。「スピークフレンチ!」彼はこれを繰り返すばかりでした。その時後ろにいた客が私の肩を叩き、「フォローミィ」と云って私を乗り場まで誘導してくれたのです。二人の国鉄職員の態度には明らかな怒気がありました。「フランスでは英語でなく仏語を使え!」と云っていたのです。

これで私のフランスの旅は終りです。このあと延べ50回にも及ぶ私の海外旅行の中でもこれが最初の旅であり、唯一の一人旅でした。そのため多くの失敗やトラブルがありました。一般のフランス国民は皆さんとても親切です。特にバスやタクシーの運転手には「ただ乗り」までさせてもらいました。ただし「スピークフレンチ!」という気持ちは彼らの心底に共通しているのかも知れません。二人の国鉄職員がそれを明らかにしてくれたのです。私はこれを教訓にして、以後どこの国へ行くにもその国でのせめて挨拶言葉だけでも調べて使うようにしました。これでかなりこちらの努力を認めてもらえるように思います。