私は1948年生まれで団塊の世代に属します。 学生時代はフォークソング全盛の頃で「♪戦争を知らない、子供たちさア♪」と仲間とギターに合わせてよく歌いました。 確かに私たちは戦争を直接知ってはいません。 しかし我々の親の世代は満州事変から第二次世界大戦までを生き延びて私たちをこの世に送り出したいわゆる戦中派です。 この戦中派の人たちは夫や兄弟に戦死者がいたり、自分自身が戦傷者だったり、大陸から命からがら帰ってきたり、戦後何年間もシベリヤに抑留されたり、戦場と化した沖縄の生存者だったり、内地で空襲の下を逃げまわったり、原爆の被害者だったりします。 私たち団塊世代はその戦中派の子供ですから、あの戦争を直接知ってはいませんが、彼らからの“伝言”を受けた最初の世代といえるでしょう。
私が最初に、かつ最も多くの“伝言”を受けたのは母からでした。 母は3歳で母親を亡くし、8歳で父親も亡くしています。 そのため学歴は小学校3年生止まりでした。 そんな母は中学生の私に自分の越し方を何回も何回も、それこそ耳にたこができるほど繰り返し語ってくれました。 母の話は“反戦平和・人権尊重”というような高邁なオピニオンに根ざしたものではなく、単に自分の体験がいかに過酷なものだったのかを息子に聞かせるだけのものでした。 それでも中学生の私にとって、戦争がどんなものであり、差別がどんなものであるかを後から考えるに十分な内容があったのです。
母は1923年7歳の時に東京市深川区にいて関東大震災に遭遇しています。 地震の直後に起きた火災で家を焼かれ、襲い掛かる炎の中を母は父親、姉、兄と共に逃げ迷っていました。 とある川の橋を渡ろうとした時です。 川の中は飛び込んで亡くなった人の死体でいっぱいでした。 橋の上には自警団の人たちがいて竹やりを構え、通る人たちに合言葉を言わせていました。 その合言葉があやふやであれば朝鮮人だということで、竹やりで突かれ、縛り上げられるのです。 そのとき母の父親は足を負傷し気が動転していて合言葉に詰まりました。 あわや竹やりで突かれそうになった時、とっさに兄が合言葉を言い、難を逃れたそうです。 橋を渡りきった所に何人もの朝鮮人が後ろ手に縛られ、更に首を数珠繋ぎにされていました。 自警団の人が先頭の縄を引くたびに首を絞められ、朝鮮人たちの「ううっ、ううっ」といううめき声があたりに響きました。
日本はこの関東大震災の13年前つまり1910年に韓国を併合しています。 つまり日本の植民地であった朝鮮の人たちに対して、日本人の中には優越感を持ち、差別し、蔑視する人々がいました。 そんな優越感はこのような阿鼻叫喚の中にあっては日ごろの差別や蔑視に対する彼らからの“仕返し”を恐れるあまりの疑心暗鬼に変わります。 その疑心暗鬼が「朝鮮人が火をつけ井戸に毒を流した」というデマを生み、上記のような“朝鮮人狩り”が行われ、多くの朝鮮人の命を奪ったのです。 ただしこのとき犠牲になったのは朝鮮人ばかりではなく、中国人や日本の社会主義者も殺されているようです。
私はこの事実をもって我々日本人が他の民族に比べて特に“卑劣”だとか“不公正”だと思っているわけでは有りません。 世界史上には例えば西欧列強による中南米、アジア、アフリカ大陸の植民地における先住民族の差別、蔑視、搾取、虐殺などの例は山ほどあります。 人は社会的な動物であり、“社会的身内”にはやさしく親切で、“それ以外”には冷たく邪険になりがちなのです。 “社会的身内”の範囲は人類の黎明期は“家族”であり、次に“部族”更に“民族”と文化の発達と共に次第に広がってきました。 近代はその範囲が“国家”になり、そして現代は“国連”や“EU”そして“東アジア連合”に代表されるように国家をも超えて世界中を“社会的身内”にしようという努力が続けられている最中です。
そこで大事なことはかつて差別し、蔑視し、虐殺した相手が“社会的身内”になろうとしている時に、まず双方の記憶を持ち寄って共通の歴史を確立することです。 史実はひとつなのですから。 そして必要に応じて謝罪することです。 これなくして真の“社会的身内”としてお付き合いしていくことはできません。 加害側からすれば史実を認め、謝罪することはつらく苦しいことです。 賠償も必要かもしれないし、子や孫たちに顔向けできないと思うかも知れません。 でも考えてみてください。 これが国内問題だとしたら、加害者は裁判で確定された事実に基づき被害者に謝罪し、必要に応じて賠償せねばなりません。 これから私たち人類が向かおうとしているのは世界中を“身内”つまりひとつの国家(ただし、戦争と平和、貧困と人権、資源と環境など人類が一つになってかからねば解決できない限られた範囲での)のような地球社会なのです。
母は東京で結婚し、やがて夫の故郷である山形の庄内平野で暮らし始めました。 二人目の子供を授かるとまもなく夫は軍隊に召集されます。 母の戦争体験はすべて庄内平野の中であり、東京大空襲のような地獄絵はなく、比較的のどかなものではありました。 庄内平野は全国有数の穀倉地帯ですが、戦時中は厳しい米の統制が果され農家でも十分に食べることができませんでした。 まして小作農の生活は悲惨を極め、人々はいろいろ知恵を働かせて穀物を隠したそうです。 例えば家の壁の中に隙間を設け、その中に米を蓄えた人もいました。 しかし検査官もさるもの、やがて竹やり持参で来て壁を突き、中の米を全部没収して行ったそうです。 軍事教練もありました。 働き手の男性が軍隊に出払っていない中、年寄りと子供、そして女ばかりのバケツリレーで防火訓練をしました。 分列行進では左右の手と足が同時に動く人が多かったそうです。 また藁人形に真っ赤な腰巻(当時の女性の下着)を巻いて“マッカーサー(米軍の元帥)”に見立て、これを竹やりで突く訓練もしました。 落下傘で降りてくる敵兵の足が地面に付く前に刺すという作戦でした。 たまに空襲警報発令があり、空を見上げるとキラキラ光る敵機が行き、その高さに我軍の高射砲は届きません。 その後を我軍機が追いかけますが、戦闘の末、煙を吐きながら落ちてくるのはたいてい我軍機だったそうです。
戦争の終盤になって母の元に夫の遺骨が届きました。 箱の中には小石がひとつ入っていたそうです。 それに南方の海で戦死したという知らせも付いていました。 母はそれから戦後のかなり後まで、家の中に迷い込んで来た蝶を見るたびにそれが夫の化身で、海を越えて妻と我子の様子を見守りに来たのだと思ったそうです。 1948年に母は再婚します。 相手はやはり子供がいて妻に先立たれた元軍人です。 この妻の死も食糧難や医療不足など戦争に起因していました。 同年この二人の間に私は生まれました。 共にあの戦争で伴侶を亡くした者同士から生まれた私、あの戦争が無ければ生まれてこなかった私、つくづく自分を戦争の申し子だと思った私でした。 そんな私はいつの頃からか、二度と戦争の無い世界にするために自分も何か力を尽くしたいと考えるようになったのです。
父から直接戦争の話を聞いたことはありません。 戦時中の父の様子はほんのわずかな内容しか判りませんが、それも母が話してくれたことばかりでした。 庄内平野の農家の三男だったので19歳で海軍の志願兵になったこと。 横須賀時代に結婚して子供を授かった後、舞鶴に行って新兵教育に携わったこと。 “上官の命令は天皇の命令と思え”という時代、海軍の新兵教育の教官の権威は絶大でした。 泳げない新兵を海に叩き込んで泳げるようにしたそうです。 自分より年上の新兵でも殴ったようです。 不条理がまかり通った軍隊の世界でした。 若くして強い権力を持った父のこの教官魂は戦後の我が家にも長い間影を落としました。 何事も軍隊調で鉄拳指導の父に母は勿論、子供たちもビクビクの毎日でした。 そして父はどこに就職しても長続きせず、会社側と喧嘩しては辞めてしまいました。 お陰で我が家はいつまでたっても貧乏暮らしで、私の兄や姉達は全員中学卒で就職し、母は手内職、後には会社勤めをして家計を支え、苦労が絶えなかったのです。
母は戦中戦後の混乱の中で何人かの子供を幼くして亡くしています。 食糧難と医療不足が原因でした。 無医村でもありましたが、隣町の医者に掛かるお金も無かったのです。 1997年に81歳で母は亡くなりました。 病のため晩年は恍惚状態でしたが、近所のお地蔵さんにお参りする日課は欠かしませんでした。 お地蔵さんは幼子の守り神、母はその前に額づいて長い間祈っていました。 幼くして亡くした子供たちに母は当時の自分の非力を悔やみ、詫びていたに違いありません。 私は母の墓の脇に小さなお地蔵さんを備えました。 今頃母はあの世で先に逝った私の兄や姉たちに囲まれて幸せでいることでしょう。
先の戦争で辛酸を舐めた家族は多いことでしょう。 日本に限らず、アジアにも欧米にも無数にあるに違い有りません。 その子供たちは私と同じように両親から何らかの“伝言”を受け取っているはずです。 受け取った人たちはどうか具体的に行動してください。 戦争は人権の軽視から始まります。 セイフティネットが破れて弱者が生きていけなくなるのは危険な兆候です。 戦争は表現の制約からも始まります。 特定の政党のビラ配りをした人に有罪判決が出るのは危険な兆候です。 戦争は教育の歪みからも始まります。 教科書が検定で歪められ、教師の思想が統制されるのは危険な兆候です。 戦争は政治的無関心からも始まります。 日本国憲法の平和条項が消える前段階までさしたる議論なしで来ていることは危険な兆候です。
国連がある今日、第二次世界大戦のような大戦争が起きることは無いかも知れません。 しかし、中東やスーダン、コソボやアフガニスタンで起きているような紛争はこれからも起こりえます。 国連の努力にも関わらず、核兵器を持つ国は減るどころか増えているではありませんか。 核の恐怖は確実に増しています。 私を含めた世界連邦主義者たちは一刻も早く国連を改革し、戦争と平和、人権と貧困、エネルギーと地球環境といった人類共通の問題分野に限った世界政府を作ろうとしています。 地球全体を世界法をもって統治し、散在する武器を核兵器も含めて廃絶することによって初めてこういった地域紛争を根絶することができるのです。 私は明日をも知れぬ病人なので、すでに次の世代への“伝言”を始めています。 さしたる行動もせぬまま“伝言”を始めることは心苦しい限りですが・・・。 あなたが今読んでおられるこのネット上のエリアこそが私の“伝言板”なのです。 皆さんはまだまだいろいろな行動ができるはず。 是非あなたなりの行動を起こしてください。 そしていつかあなたの次の世代に、あなたなりの行動を踏まえたあなたなりの“伝言”を残して下さるようお願いいたします。