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より良き明日の為に

人類の英知と勇気を結集して世界連邦実現へ一日も早く

伝言その1

2007-12-31 19:27:19 | より良き世界のために

 私は1948年生まれで団塊の世代に属します。 学生時代はフォークソング全盛の頃で「♪戦争を知らない、子供たちさア♪」と仲間とギターに合わせてよく歌いました。 確かに私たちは戦争を直接知ってはいません。 しかし我々の親の世代は満州事変から第二次世界大戦までを生き延びて私たちをこの世に送り出したいわゆる戦中派です。 この戦中派の人たちは夫や兄弟に戦死者がいたり、自分自身が戦傷者だったり、大陸から命からがら帰ってきたり、戦後何年間もシベリヤに抑留されたり、戦場と化した沖縄の生存者だったり、内地で空襲の下を逃げまわったり、原爆の被害者だったりします。 私たち団塊世代はその戦中派の子供ですから、あの戦争を直接知ってはいませんが、彼らからの“伝言”を受けた最初の世代といえるでしょう。

 私が最初に、かつ最も多くの“伝言”を受けたのは母からでした。 母は3歳で母親を亡くし、8歳で父親も亡くしています。 そのため学歴は小学校3年生止まりでした。 そんな母は中学生の私に自分の越し方を何回も何回も、それこそ耳にたこができるほど繰り返し語ってくれました。 母の話は“反戦平和・人権尊重”というような高邁なオピニオンに根ざしたものではなく、単に自分の体験がいかに過酷なものだったのかを息子に聞かせるだけのものでした。 それでも中学生の私にとって、戦争がどんなものであり、差別がどんなものであるかを後から考えるに十分な内容があったのです。

 母は1923年7歳の時に東京市深川区にいて関東大震災に遭遇しています。 地震の直後に起きた火災で家を焼かれ、襲い掛かる炎の中を母は父親、姉、兄と共に逃げ迷っていました。 とある川の橋を渡ろうとした時です。 川の中は飛び込んで亡くなった人の死体でいっぱいでした。 橋の上には自警団の人たちがいて竹やりを構え、通る人たちに合言葉を言わせていました。 その合言葉があやふやであれば朝鮮人だということで、竹やりで突かれ、縛り上げられるのです。 そのとき母の父親は足を負傷し気が動転していて合言葉に詰まりました。 あわや竹やりで突かれそうになった時、とっさに兄が合言葉を言い、難を逃れたそうです。 橋を渡りきった所に何人もの朝鮮人が後ろ手に縛られ、更に首を数珠繋ぎにされていました。 自警団の人が先頭の縄を引くたびに首を絞められ、朝鮮人たちの「ううっ、ううっ」といううめき声があたりに響きました。

 日本はこの関東大震災の13年前つまり1910年に韓国を併合しています。 つまり日本の植民地であった朝鮮の人たちに対して、日本人の中には優越感を持ち、差別し、蔑視する人々がいました。 そんな優越感はこのような阿鼻叫喚の中にあっては日ごろの差別や蔑視に対する彼らからの“仕返し”を恐れるあまりの疑心暗鬼に変わります。 その疑心暗鬼が「朝鮮人が火をつけ井戸に毒を流した」というデマを生み、上記のような“朝鮮人狩り”が行われ、多くの朝鮮人の命を奪ったのです。 ただしこのとき犠牲になったのは朝鮮人ばかりではなく、中国人や日本の社会主義者も殺されているようです。

 私はこの事実をもって我々日本人が他の民族に比べて特に“卑劣”だとか“不公正”だと思っているわけでは有りません。 世界史上には例えば西欧列強による中南米、アジア、アフリカ大陸の植民地における先住民族の差別、蔑視、搾取、虐殺などの例は山ほどあります。 人は社会的な動物であり、“社会的身内”にはやさしく親切で、“それ以外”には冷たく邪険になりがちなのです。 “社会的身内”の範囲は人類の黎明期は“家族”であり、次に“部族”更に“民族”と文化の発達と共に次第に広がってきました。 近代はその範囲が“国家”になり、そして現代は“国連”や“EU”そして“東アジア連合”に代表されるように国家をも超えて世界中を“社会的身内”にしようという努力が続けられている最中です。

 そこで大事なことはかつて差別し、蔑視し、虐殺した相手が“社会的身内”になろうとしている時に、まず双方の記憶を持ち寄って共通の歴史を確立することです。 史実はひとつなのですから。 そして必要に応じて謝罪することです。 これなくして真の“社会的身内”としてお付き合いしていくことはできません。 加害側からすれば史実を認め、謝罪することはつらく苦しいことです。 賠償も必要かもしれないし、子や孫たちに顔向けできないと思うかも知れません。 でも考えてみてください。 これが国内問題だとしたら、加害者は裁判で確定された事実に基づき被害者に謝罪し、必要に応じて賠償せねばなりません。 これから私たち人類が向かおうとしているのは世界中を“身内”つまりひとつの国家(ただし、戦争と平和、貧困と人権、資源と環境など人類が一つになってかからねば解決できない限られた範囲での)のような地球社会なのです。

 母は東京で結婚し、やがて夫の故郷である山形の庄内平野で暮らし始めました。 二人目の子供を授かるとまもなく夫は軍隊に召集されます。 母の戦争体験はすべて庄内平野の中であり、東京大空襲のような地獄絵はなく、比較的のどかなものではありました。 庄内平野は全国有数の穀倉地帯ですが、戦時中は厳しい米の統制が果され農家でも十分に食べることができませんでした。 まして小作農の生活は悲惨を極め、人々はいろいろ知恵を働かせて穀物を隠したそうです。 例えば家の壁の中に隙間を設け、その中に米を蓄えた人もいました。 しかし検査官もさるもの、やがて竹やり持参で来て壁を突き、中の米を全部没収して行ったそうです。 軍事教練もありました。 働き手の男性が軍隊に出払っていない中、年寄りと子供、そして女ばかりのバケツリレーで防火訓練をしました。 分列行進では左右の手と足が同時に動く人が多かったそうです。 また藁人形に真っ赤な腰巻(当時の女性の下着)を巻いて“マッカーサー(米軍の元帥)”に見立て、これを竹やりで突く訓練もしました。 落下傘で降りてくる敵兵の足が地面に付く前に刺すという作戦でした。 たまに空襲警報発令があり、空を見上げるとキラキラ光る敵機が行き、その高さに我軍の高射砲は届きません。 その後を我軍機が追いかけますが、戦闘の末、煙を吐きながら落ちてくるのはたいてい我軍機だったそうです。

 戦争の終盤になって母の元に夫の遺骨が届きました。 箱の中には小石がひとつ入っていたそうです。 それに南方の海で戦死したという知らせも付いていました。 母はそれから戦後のかなり後まで、家の中に迷い込んで来た蝶を見るたびにそれが夫の化身で、海を越えて妻と我子の様子を見守りに来たのだと思ったそうです。 1948年に母は再婚します。 相手はやはり子供がいて妻に先立たれた元軍人です。 この妻の死も食糧難や医療不足など戦争に起因していました。 同年この二人の間に私は生まれました。 共にあの戦争で伴侶を亡くした者同士から生まれた私、あの戦争が無ければ生まれてこなかった私、つくづく自分を戦争の申し子だと思った私でした。 そんな私はいつの頃からか、二度と戦争の無い世界にするために自分も何か力を尽くしたいと考えるようになったのです。

 父から直接戦争の話を聞いたことはありません。 戦時中の父の様子はほんのわずかな内容しか判りませんが、それも母が話してくれたことばかりでした。 庄内平野の農家の三男だったので19歳で海軍の志願兵になったこと。 横須賀時代に結婚して子供を授かった後、舞鶴に行って新兵教育に携わったこと。 “上官の命令は天皇の命令と思え”という時代、海軍の新兵教育の教官の権威は絶大でした。 泳げない新兵を海に叩き込んで泳げるようにしたそうです。 自分より年上の新兵でも殴ったようです。 不条理がまかり通った軍隊の世界でした。 若くして強い権力を持った父のこの教官魂は戦後の我が家にも長い間影を落としました。 何事も軍隊調で鉄拳指導の父に母は勿論、子供たちもビクビクの毎日でした。 そして父はどこに就職しても長続きせず、会社側と喧嘩しては辞めてしまいました。 お陰で我が家はいつまでたっても貧乏暮らしで、私の兄や姉達は全員中学卒で就職し、母は手内職、後には会社勤めをして家計を支え、苦労が絶えなかったのです。

 母は戦中戦後の混乱の中で何人かの子供を幼くして亡くしています。 食糧難と医療不足が原因でした。 無医村でもありましたが、隣町の医者に掛かるお金も無かったのです。 1997年に81歳で母は亡くなりました。 病のため晩年は恍惚状態でしたが、近所のお地蔵さんにお参りする日課は欠かしませんでした。 お地蔵さんは幼子の守り神、母はその前に額づいて長い間祈っていました。 幼くして亡くした子供たちに母は当時の自分の非力を悔やみ、詫びていたに違いありません。 私は母の墓の脇に小さなお地蔵さんを備えました。 今頃母はあの世で先に逝った私の兄や姉たちに囲まれて幸せでいることでしょう。

 先の戦争で辛酸を舐めた家族は多いことでしょう。 日本に限らず、アジアにも欧米にも無数にあるに違い有りません。 その子供たちは私と同じように両親から何らかの“伝言”を受け取っているはずです。 受け取った人たちはどうか具体的に行動してください。 戦争は人権の軽視から始まります。 セイフティネットが破れて弱者が生きていけなくなるのは危険な兆候です。 戦争は表現の制約からも始まります。 特定の政党のビラ配りをした人に有罪判決が出るのは危険な兆候です。 戦争は教育の歪みからも始まります。 教科書が検定で歪められ、教師の思想が統制されるのは危険な兆候です。 戦争は政治的無関心からも始まります。 日本国憲法の平和条項が消える前段階までさしたる議論なしで来ていることは危険な兆候です。

 国連がある今日、第二次世界大戦のような大戦争が起きることは無いかも知れません。 しかし、中東やスーダン、コソボやアフガニスタンで起きているような紛争はこれからも起こりえます。 国連の努力にも関わらず、核兵器を持つ国は減るどころか増えているではありませんか。 核の恐怖は確実に増しています。 私を含めた世界連邦主義者たちは一刻も早く国連を改革し、戦争と平和、人権と貧困、エネルギーと地球環境といった人類共通の問題分野に限った世界政府を作ろうとしています。 地球全体を世界法をもって統治し、散在する武器を核兵器も含めて廃絶することによって初めてこういった地域紛争を根絶することができるのです。 私は明日をも知れぬ病人なので、すでに次の世代への“伝言”を始めています。 さしたる行動もせぬまま“伝言”を始めることは心苦しい限りですが・・・。 あなたが今読んでおられるこのネット上のエリアこそが私の“伝言板”なのです。 皆さんはまだまだいろいろな行動ができるはず。 是非あなたなりの行動を起こしてください。 そしていつかあなたの次の世代に、あなたなりの行動を踏まえたあなたなりの“伝言”を残して下さるようお願いいたします。


日本国憲法と世界連邦

2007-12-04 20:53:22 | より良き世界のために

 戦後レジームからの脱却を掲げた安倍内閣から福田内閣に替って、憲法改定論議が少し遠のいた感があります。 しかし教育基本法と国民投票法は既に先の国会で可決しており、3年後以降いつでも憲法改定法案が上程されうる事態になったことは確かなことです。 そこで日本国憲法と世界連邦との関連性について考えてみたいと思います。

 1946年に制定された日本国憲法には武力を持たず、戦争を放棄した人類史上初の平和条項が書かれています。 この平和条項の発案者が日本人であるとか、いや全体の流れは米国の押し付けであるとか、多くの議論があるようです。 しかし発布された憲法について、多くの日本国民は、国の内外を問わず膨大な犠牲を払うに至った大戦を深く反省し、二度と過ちを繰り返さないという決意の元に、前文と9条のいわゆる平和条項に心の底から共感し、納得して受け入れたのだと思うのです。 従ってこの平和条項は日本国民にとって多くの戦争犠牲者の血で購った宝とも言うべきものであり、同時にアジア全体の宝、さらにはその先進性において世界全体の宝でもあるといえるでしょう。 たとえ生まれ方にどのようないわくがあろうとも、人類の理想を先取りした平和条項を改定して戦争のできる体制に戻してはいけないと考える人は多いものと思います。

 この日本国憲法はその前年に制定された国連憲章に基礎を置いていることは確かです。 新設された国連には紛争の恐れに対して勧告により未然に調整する平和的措置と、この効果が見込めなかったときには加盟国の軍備を借りて紛争を押さえ込む軍事的措置とが準備されていました。 これらの措置が有効に働けば憲法で武力を放棄した日本が脅かされることなく平和に生存できると考えた人も多かったと思います。 ただし日本を含む世界の一部の人たちはこの時すでに国連が日本のような平和憲法を持つ国の安全を保障するには力不足であることを予見していました。 世界の恒久平和のためには国連を改組し、安全保証を初めとする全世界レベルの問題についてのみ責任を負う世界政府を組織し、世界法をもって各国の軍備を撤廃し、世界警察(軍)で律する必要があると考える人たちでした。 彼らが世界連邦主義者であり、その目指したものが世界連邦政府です。

 国連の機能だけで日本の安全が保てると考えていた人々の思いは終戦後ほどなく打ち砕かれます。 その原因は東西冷戦時代の到来でした。 冷戦時代は紛争の勃発に対する平和的措置も軍事的措置もなんら有効な手段が取れませんでした。 それは安全保障理事会において東西の利害がぶつかり合い、互いの拒否権の応酬で有効な措置をつぶし合ってしまったからです。 そこで国連が苦肉の策で編み出したものが“平和維持活動(PKO)”というものでした。 紛争を未然に防ぐことはできないが、ある程度戦火が治まってきたところで国連加盟国の武力を借りて兵力引き離しを行うというものです。 この状況下で日本は日米安保条約を締結して米軍の傘の中に入り、さらにその要請にこたえて後に“自衛隊”となる武力を備えたのです。 国連に紛争を未然に防ぐ力がない以上やむをえないことでした。 一方この間世界の連邦主義者の活動も活発でした。 特に敗戦国であり原子爆弾の洗礼も受けた日本の団体は自治体、宗教団体、国会などへの働きかけ等で常に世界の運動をリードしていました。 しかし世界の大勢を動かすほどの力には至らなかったのです。

 1990年代に入り、ベルリンの壁の崩壊と共に冷戦は終結します。 これで安全保障理事会での拒否権の応酬はかなり影を潜めますが、依然として国連に紛争を未然に阻止する力は無く、むしろ国連の地位の低下が見られました。 唯一の超大国となった米国が世界の保安官を自ら任じ、国連はその助手を務めているかのような状況で現在に至っています。 第二次大戦終結直後から引き続くパレスチナ紛争は米国が影の当事者であり、いま泥沼状態に陥っているイラク戦争は米国が国連の承認を十分に得ないまま突き進んだ結果なのです。 これらは国連の安全保障能力の限界を示しています。 各国に住む個々人はいかに善人であろうとも、国同士の付き合いでは利害むき出しのぶつかり合いになることはいかにも不思議です。 国連のようにそれぞれの国の主権を100%尊重していては紛争を未然に防ぐことはできません。 また世界のあちこちに武器が遍在している状態では戦火を未然に抑えることはできないのです。 かくして現在の日本は米軍の傘下で守られ、代わりに沖縄を中心としてあまたの基地を提供し、そこで生じる少なからぬコストを肩代わりしています。 さらに国際貢献と称してイラクのような紛争当事国に自衛隊派遣を要請され、これに応じざるを得ない状況になったのです。 たとえそれが空路の物資輸送であっても“相手”から見れば敵の兵站部隊と変わりなく、撤退しない限りいつでも“日本”が攻撃を受ける危険性があります。 また撤退した後でも“敵に味方した日本”という記憶は残ります。

 北朝鮮の核武装化もあってこのまま座視を続けていては日本国民の安全に対する不安が募り、その総意が憲法の平和条項を捨てて集団的自衛権の行使、つまり戦争のできる方向に傾く可能性が出てきます。 一方こうした憲法改定論議の高まりと共にそれに反対して憲法の、分けても“9条”を守ろうとする人々が全国津々浦々で結集し活動しています。 私の住む小さな街にも“9条の会”はあって発病以前の私もそのイベントに参加していました。 しかし憲法9条を守るためには憲法9条で十分日本の安全が確保できるだけの世界の体制が必要なのです。 それなくして憲法9条を守ることはできません。 そしてその世界体制とは世界平和を含めた地球規模の諸問題についてのみ統治する世界行政府、そのための世界法を作る世界議会、紛争を調停する世界裁判所および行政府の下に置く強制力としての世界警察(軍)等で構成される世界システム、つまり世界連邦なのです。

 世界連邦では世界平和を含めた地球規模の諸問題については各国間の国境を取り払い、地球全体がひとつの法治国家のようになります。 国連での取り決めは条約であり、批准するか否かは各国の自由ですが、世界連邦では世界法による統治でありこれを破れば罰を受けます。 各国の軍備は撤廃され、地球上で唯一の武力は世界政府の下に設置される世界警察(軍)のみとなります。 これまで各国が個別にあがなってきた膨大な軍事予算に比べて、その何割かほどの世界連邦税を負担することにより、世界連邦を運営できることを考えれば、世界は軍備という莫大な消耗が不要となり、武器弾薬から出る有害無益な地球温暖化物質の増加も防ぐことができます。 さらに余った資源を貧困撲滅等ほかの地球規模の問題解決の為に振り向けることも可能になるでしょう。 日本国憲法の平和条項はこの世界連邦のような世界システムの中でしか活かすことができません。 多くの日本国民は1946年以来無意識にこの世界連邦を待ち望んできたというべきでしょう。 憲法9条を守り続けようと願う人たちには世界連邦を一日も早く実現するために力を貸して頂きたいと思うのです。

 日本国憲法の前文に“われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。”とあります。 第二次世界大戦の敗戦国であり、国の内外を問わず膨大な犠牲を払い、かつ人類初の原子爆弾の洗礼を受けたわれら日本国民こそ世界連邦実現のための先頭に立つことで地球上の全民族の中で名誉ある地位を占めるべきではないでしょうか。 そして資源をほとんど持たず、食料自給率も低いわれら日本国民ほど世界連邦がもたらすであろう恒久平和の世界から多大な恩恵を受ける民族もほかに無いのです。

参考文献
1)新しい国連  臼井久和、馬橋憲男  有信堂
2)日本と世界連邦  時子山常三郎  世界連邦建設同盟