より良き明日の為に

人類の英知と勇気を結集して世界連邦実現へ一日も早く

ロシア紀行

2009-10-18 17:11:23 | ジェットの丸窓から

 

1. 初めての飛行機、初めての外地

 

1980年5月世界連邦の会議出席のためフランスに行く途中でモスクワに立ち寄りました。

飛行機に乗ったのも生まれて初めてで、最初に外地に降り立ったのがモスクワでした。

折しもモスクワオリンピックの直前でしたが、空港待合室の配管が壊れたままになっていて、

パイプが廊下に転がっており、これが開催都市の表玄関かと目を疑ったものでした。

 

土産物店でトナカイの骨で拵えたペーパーナイフを買ったのですが、

女性店員はこちらが声をかけるまでテレビに夢中でした。

そして終始にこりともしない無愛想、使っていた電卓は日本のシャープ製でした。

 

1時間後、出発時間が来たのですが、ここで大失敗をしてしまいました。

到着ゲートと出立ゲートが違うことを知らず、到着ゲートに戻ってしまったのです。

「ここではない、あっちだ!」と言われて空港内を200メートルほど全力疾走しました。

出立ゲートに着いたのは良いのですが、金属探知器のゲートに引っかかって通れません。

小銭をすべて預けても、靴を脱いでも「チャリン」と鳴るばかり。

とうとう鞄を開けて中身を見せてやっとOKになり、バスに飛び乗りました。

 

バスの乗客は私一人、連絡を受けて私だけの為に待機していたのでした。

タラップを駆け上がって座席に着くと同時にジェット機はゆっくりと動き始めました。

バスを待機させ、ジェット機も待たせた私は大いに反省しました。

配管が壊れたままだったこと、女性店員の無愛想、金属探知器の不具合など、

私は社会主義国の後進性の表れと感じ、内心蔑んでいたのです。

反対に機敏に完璧に手まわしをしてくれた現地の地上スタッフに助けられたのでした。

 

2. 経済危機下のモスクワ

 

2度目のモスクワは1991年6月、VTRのサービス技術教育講師としての出張でした。

時あたかもソ連崩壊の半年前でモスクワは極度の食糧難に喘いでいました。

私の荷物の大半は現地駐在員から懇願された即席ラーメンなどの食糧品が占めていました。

ホテルに滞在するためにはバウチャー(予約確認書)が必要でした。

その後世界の多くのホテルに泊りましたが、これはこの時限りでした。

身分保証並びに宿泊代を踏み倒されないための自衛手段だったのでしょう。

 

私が泊まったホテルコスモスは市内でも有数のホテルでしたが、食事は粗末でした。

小さな食パン数切れとサラミソーセージ数切れ、あとはミルクだけといった感じです。

まともな食事を摂るために駐在員と一緒にかなり街中を歩き廻りました。

ホテルを出たとたんに子供たちに囲まれました。「ギブミー マールボロ」と口々に言います。

ルーブルの価値が地に落ちてアメリカ煙草が貨幣代わりになっているのでした。

更に彼らは私が持っているビデオカメラに手を掛け奪おうとしました。

駐在員がロシア語で彼らを追い払いました。ジプシーの子供たちだそうです。

ジプシーだけではなく、ガード下などでは必ずと言って良いほどロシア人も物乞いしていました。

 

移動には地下鉄を使います。いざとなれば核シェルターにもなるという大深度の地下鉄でした。

アルバート通りで買い物をしました。露店の画家から油絵や水彩画をドル札で買いました。

外国人は生存中の画家の絵しか持ち出せないとのことで、買った絵には画家がサインと日付を裏書するのです。

マトリョーシカも幾つか買いました。変わり種では政治家のマトリョーシカがありました。

当時の大統領ゴルバチョフの人形をエリツィンの人形が包含するのがミソでした。

前者は4月の拉致事件で後者に助けられ、既にエリツィンの方が人気があったのです。

 

講習会の途中に晩餐会がありました。

めったにない豪華(?)な食事に受講生たちが湧き立っていました。

ロシア民謡が大好きな私は余興にロシア語で「カチューシャ」を歌ったのですが、

受講生たちの受けはいまいちでした。年配の通訳メルニコフさんによれば、

いまどきの若者はロシア民謡を知らないのだそうです。

 

全ての講習を終えた私は、ポプラの白い綿毛が降り注ぐモスクワの街を後にしました。

 

3. ローカル空港での冷汗

 

3度目のモスクワは1997年9月末、ビデオカメラのサービス技術教育講師としての出張でした。

前年にわが社のモスクワ営業所ができ、終始そこのスタッフのネステレンコさんのアテンドを受けました。

食糧事情も街の様子も6年前の経済危機の頃とは打って変わって活気に満ち溢れていました。

ホテルも市中心部のインターナショナルという名の近代的なホテルで都会的な雰囲気でした。

 

今回は連日ホテルと研修会場の間をピストンするばかりで街に出ませんでした。

ホテルには珍しく和食レストランがあったので入ってみたのですが、どうも様子が変なのです。

箸はプラスチック製で縦置き、箸置きも箸袋もありません。味にもだいぶ違和感がありました。

店の外に出て分かったのですが、隣が韓国レストランで経営が一緒、

つまり韓国人が経営する韓流の和食レストランだったのです。

 

モスクワでの講習会が終わり、次の開催地は遥か東のイルクーツクです。

ネステレンコさんには市内のローカル空港まで送ってもらって別れました。

しかしそれからが大変でした。まず私の乗るフライト名が電光掲示板に見当たりません。

何人かの空港スタッフに尋ねたのですが、英語が通じずたらい回しになりました。

国際空港には英語を話すスタッフが多くいるのですが、ローカル空港には殆どいないのです。

 

5人目でやっと英語の分かる人に当たりました。4人目の人が奥の方から連れてきた人です。

彼女の説明によれば私の便名は別の便名に隠れているのでした。

一つのフライトに二つの便名がついていて、運の悪いことに別の便名しか表示していないのでした。

一時はどうなることかと思ったのですが、なんとかイルクーツク行きの飛行機に乗り込むことができました。

 

4. イルクーツクとバイカル湖

 

ビデオカメラのサービス技術教育の為にイルクーツクに着いたのは1997年10月初め、寒くなる直前でした。

とある大学の一室を講習会場として借り、昼食も構内の学食で学生たちと一緒でした。

女子学生がほぼ全員10センチ以上もあるハイヒールを履いていましたが、多分流行なのでしょう。

私の受講生には朝鮮系の顔と名前の人もいて、このあたりまで朝鮮民族がいることを知りました。

 

街で突如「クロネコ」マークの車とすれ違いました。日本で廃車したヤマト運輸の車がそのままの姿で走っているのでした。

ある通りには「金沢通り」と日本語表示があり、<msnctyst addresslist="17:石川県金沢市;" address="金沢市" w:st="on">

金沢市

</msnctyst>とは姉妹都市になっているとのことです。

ホテルは60キロ先のバイカル湖から流れ出るアンガラ河の畔にありました。

川の向う岸にはシベリア鉄道が走っており、イルクーツク駅も見えます。

ホテルの一廓は展示室になっており、工芸品などと共に日本人シベリア抑留者に関する資料も多くありました。

かつてこのあたりに夥しい数の日本人捕虜がいて、厳しい環境の中で辛酸を舐め亡くなった人も多いことを知ったのです。

 

講習会の中日には受講生と一緒にバイカル湖までドライブをして来ました。

約60キロの起伏に富んだ白樺林の中の一本道でした。

突然目の前が開けて明るい湖面が姿を現しました。向こう岸には既に雪を頂いた山々も見えます。

湖畔に小さな動物園があり、クマやアザラシがいました。

アザラシは海の動物ですがここにいるのはバイカルアザラシという淡水固有種です。

太古の昔、バイカル湖が海の一部だった頃に取り残され、長い年月をかけて湖水と共に淡水化したようです。

 

渚の露店ではドラム缶で燻したバイカルオムリを手掴みで食べました。

これも30センチくらいのサケ科の魚が淡水化した固有種で、白樺の木で燻します。

湯気の立つ出来たてをロシアビール片手に食べた味は忘れられません。

帰途、街道左手の日本でいえば「江戸村」のようなところに寄りました。

朝鮮のオンドルに似た暖房設備のある古民家や小学校らしき建物がありました。

ここの土産物店では寄木細工の小物入れを買いました。

 

この夜イルクーツク郊外のレストランで晩餐会がありました。

数々のロシア料理とウオッカがふるまわれ、私は余興にロシア民謡「バイカル湖のほとり」をロシア語で歌いました。

6年前の「カチューシャ」同様今時の若者は知らないだろうと覚悟していたのですが、

さすがにご当地ソング、ほぼ皆が知っており、途中から合唱になって盛り上がりました。

 

講習会も終わり帰国の日が来ました。

空港まで見送りに来てくれた人の中にこの講習会のコーディネーターを務めたナターシャさんがいました。

ロシア風の「ハグ」で別れを惜しんだのですが、外国の女性とハグをしたのは後にも先にもこの時限りです。

イルクーツクから新潟までの空路のうち途中のハバロフスク以降はガラガラで空席がすべて倒してありました。

安全のため見通しを良くしたのだと思いますが、これもこの時限りの珍しい光景でした。

 

これで私のロシアの旅は終りです。

ロシアの人々にはかつて米国と超大国を競った国民としての誇り、矜持、心意気のようなものが感じられました。