韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

キャンドルとTHAAD配備~パク・ジンさんの文章

2017-09-12 02:48:54 | 韓国あれこれ

7月、福岡で行ったキャンドル集会連続講演でスピーカーの一人だったパク・ジンさんの文章を紹介します。今、北朝鮮の核開発に対抗するためTHAADが臨時配備されましたが、このとき住民や支援活動家と警察との間で衝突が起こり、多くのけが人が出ました。これをめぐり、様々な意見が出て、議論が起きています。その参考になればと思い、日本語に訳しました。(原文はフェイスブックにあります)

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キャンドルが望んだことは何であるかについては、様々な解釈がある。それはキャンドルを持った人たちが多かっただけに、同じ価値があったかどうか... 同じ価値を考えてみると<朴槿恵退陣>という目標は達成して、権力は変わったので、キャンドルは朴正熙の遺産の退場という時代の課題を成し遂げたと思う。

それでは、新しい世の中は残った弊害と社会改革の要求はどうするのか。

私は「私がこれをしようとしてキャンドルを持ったのか」という問いはしない。 キャンドルは類型(有形?)とか終焉ではなく命の課題のようなものであり、広場は絶えまなく開かれているためであり、それでこれをしようとか、いう類の言葉はそのまま自己満足にすぎないと考えている。

日曜日からソソン里(ソンジュにある地域、THAADの配置予定地)に行かなければならないのに、以前だったら今すぐソソン里に行ったはずなのに、行かなかった。 警察の靴と夜が明ける明け方を迎える心を締め付ける恐怖と緊張感を恐れてではない。もうそんな感じのものは、あまり怖くない。いつからか、そのまま死んでも大丈夫だ、と思うことに気がついていた。特に、公権力の前では怖くなくなったが、それが私がしている活動ということへの自尊心のためだと考えるようになった。刑務所にもあまり怖くない。

ソソン里に行けなかったのは、「新しい時代はまだまだだ」と諦めと恥ずかしさを現場で直接目撃することを恐れたからだ。テチュ里(ピョンテクにある地域、米軍基地拡大のため強制代執行で収用された)と龍山(ヨンサン/再開発の立ち退きをめぐる衝突で数人が死亡する)、双竜(サンヨン)自動車塗装工場、カンジョン村(チェジュ島の海軍基地を強制的に建設した)で無数に見てきた国家暴力のすべての場面が同じように、国家がそのような存在であることを疑ってみたこともない。文在寅(ムン・ジェイン)政権は変えてくれると期待したこともない。 大統領が誰であっても、権力は同じだ。国家は国家に過ぎない。それでも体で、この政府と再び一緒には歩めないという事を心に刻みたくなかったのかも知れない。

テチュ里で私はそれを見た。 李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・グンヘ)を過ぎて多数が懐かしがった盧武鉉(ノ・ムヒョン)を、たった一度も恋しなかったのは、テチュ里のためだった。

テチュ里を守りたい心を、私の魂を悪魔に捧げても守りたかった心を5月4日、「黎明のファンセウル(警察と軍による強制収用の作戦名)」、その成功した作戦中に体で十分に学んだ。それが何の戦いだったかは関係ない。青くて目が冷えきった秋の空の空き家の屋上から十数時間の立てこもりをしながら、黒いファイバー(警察?)しか見えない脅威の時間を一人で粘って、十分に学習した。私たちは負けているんだね。この国家に勝てないな。あの農民たちを守ることがないな、私は守ることがないな。

そんなに十年が経過し、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の文在寅(ムン・ジェイン)…キャンドルで誕生した政権で、踏みにじられたソソン里をみながら、まだ同じだな。国家に勝てないな。 自壊感がごちゃまぜになった一晩を過ごした。行かなくてもその暴力と抵抗の悲鳴が細胞のいたるところを刺激した。

THAADの配置より昨日の警察の暴力は、さらに悪い効果を残すことになるだろう。体に刻ざまれたものは簡単に消えない。それも政権初期に、それも無責任に海外歴訪の時期に。それも警察改革や人権侵害の過去を清算するという言葉のまえで...また十年を遡ってきた既視感の前に冷静になるだろう。

それで新しい世の中は、国家に期待するのではなく、依然として私が負うべき課題ではないか。キャンドルを持って広場を埋め尽くして権力を引き下げたように。私の人生の中に広場が消えるなら、新しいものが来るだろうか。 絶えず声をあげ、絶えずぶつかり、絶えず成長してあなたではなく、わたしが主人公という断固たる態度が世の中を変えるようになるはずだ。

ソソン里の絶叫を見て見ぬふりをしてはいけない。そこでは、2017年、韓国社会の民主主義が再び挑戦を受けていることを否定することはできないことだ。多分、そうなるだろう。

 


キャンドル市民革命の作り方7

2017-07-16 12:07:22 | 韓国あれこれ
今、日本にいます。今日(7/19)まで3泊4日の日程で九州の河川を見てまわりました。その報告もいずれ書きますが、キャンドル市民革命についてまとめをしてみましょう。
2週間前、パク•グネ退陣非常国民行動の二人と福岡を巡り参加者の皆さんと質疑応答をしながら一番感じたのは、韓国の市民運動の足腰の強さと政治的課題に対する積極的な対応じゃないかなと思いました。
足腰の強さとは、キチンとした会員制度で市民団体が運営されていることです。例えば、福岡で講演したパク•ジンさんが所属している人権運動の団体も500人ほどの会員がいて、4名の専従スタッフがいます。もちろん、専従費の給料は高額ではありませんが、最低賃金(月額15万円ぐらい)はクリアーしているそうです。
会員も毎月、1000円から2000円程度の会費を払っているので、500名の会員がいれば、毎月50万円から100万円程度の活動のための資金が保証されていることになります。環境運動連合という環境団体の場合、全国で50以上の支部と専門機関があるので、専従スタッフだけで200名以上になっています。環境問題という単一イッシューで会費納入会員が20000人以上いるのですから、これはものすごいことです。今回のパク•グネ弾劾では、ソウルだけではなく全国各地でキャンドル集会が行われましたが、確実地域で"国民行動"の地域版ができましたが、僕が知っている環境運動連合の各地のメンバーも大活躍をしています。ただし、会員の拡大にはあまり繋がらなかったそうです。参与連帯は会員が増えたのに、とボヤイていました。
まあ、それはさておき、足腰の強さは、いわゆる専従活動家の数だけでなく、能力や質のレベルでも優れているし、広い意味での民主化運動の共通言語を持っていて、運動に対しての献身性や、守るべき価値感、目指す方向性が大きな枠の中で一致していると思います。
この事を日本の進歩的な運動と比較すると、僕らがこれから解決しないとならない課題が浮き上がってきます。
まず、日本の進歩的な運動の共通言語があるのだろうかという心もとなさを感じてしまいます。これは、僕の推論ですが、日本の進歩的な運動の共通言語があったのが、敗戦後から60年安保ぐらいまでの時期で、それ以降はそれぞれの政治的な色合いによって、使っていた"言語"が違っていたと思います。60年代後半からの急進的な運動の中では、"言語"の分裂がどんどん進行し、共通言語が成り立たなくなります。これは、いわゆる政治セクトと呼ばれた政治グループだけの問題でなく、公害問題とか反核とか消費者問題とか様々な市民運動に関わった人たちの間でも同じではなかったかと思います。
僕個人の経験から言っても、70年代の後半は成田空港反対の運動と狭山裁判支援の運動、そして80年代に入って光州5•18民主化運動と金大中死刑判決糾弾の闘いと繋がって行くのですが、労働組合で活動していた人は違う"言語"で語るでしょうし、個別の市民運動をしていた人は、また違う"言語"で話すと思います。
ここで問題にしたい事、日本の進歩的な運動が、多分70年代頃から抱えていた課題として、共通言語を作るための努力をどれだけやれてきたか、という事です。異なった"言語"の間での討論、直面する課題のすり合わせ、それらを基礎にした共同行動、その結果としての信頼関係の強化といった作業を、どの程度行ってきたかということです。
韓国の場合、2000年の選挙での落選運動の成果として、市民団体や社会団体の恒常的な連絡体制を維持するために"市民社会団体連帯会議"が作られ、これらの組織が中心になって様々な課題にそのつど取り組んできたと言います。こういった共同行動、統一行動の積み重ねが、韓国の進歩的な運動の"共通言語"を鍛え、今回のパク•グネ弾劾の原動力の一つであることは、間違いないでしょう。
果たして、日本の運動は、どうすれば強固な"共通言語"を作り出すことができるのか、そのヒントが韓国の市民運動の中にあると思います。

写真はキャンドル講演会の新聞記事

キャンドル市民革命の作り方6

2017-07-13 00:00:33 | 韓国あれこれ

さて、いろいろ考えをまとめてみると、やはり90年代以降の韓国の進歩的な運動の様子を考えてみたほうがよさそうですね。僕は韓国生活を始めて間もなくのころで、高麗大学の大学院!に通い、その後、日本語の先生になった時期です。当時は、実際の運動には参加はしていません。というのも、日本人が参加する場も見つかりませんでしたし、それよりも運動経験のある日本人が参加すると迷惑がかかりそうな時代だったので、まだ距離を置いていました。(ちなみに、生まれて初めてのデモは、たしか1972年の暮れにあったべ平連のデモです^^ 古いですね~~)この時代のことも、以前、フェイスブックに書いてあるので、紹介します。

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今回のキャンドル集会とパク・グネ政権退陣運動が何であったのかを考えるとき、少なくとも80年代後半の民主化運動からひも解く必要があるでしょう。そして、同時に日本の進歩的な運動の停滞と限界がどこにあるかという問題を、同時に考えなければならないと思います。

今回の運動が進歩勢力(パク・グネ支持派や三K新聞などからみると北に操られた勢力)だけの運動でなかったのは、すでに述べました。また、特定の政治グループに指導された大衆運動でもなく、市民団体の代表などで<状況室>という事務局ができてはいましたが、ここが指導部であったというわけでもありません。とくに、既成政党とは一線を画し、野党の議員や代表がキャンドル集会に参加しても全体集会の中では発言を許可せず、政党からは自立した市民運動であることを貫きました。

この点は日本とちょっと違いがありそうで、どなたか研究者の方、分析してくれませんか? 記憶だけに頼るので間違っているかもしれませんが、僕としてはこんな風にとらえています。

まず、80年代後半から90年代全般にかけて、韓国社会の民主化が一定のレベルまで進む中で、軍事独裁に対する闘いから他の分野の闘いへと活動領域が広がっていきます。具体的には、労働運動であったり、国会議員を持つ進歩政党の結成であったり、生協運動であったり、女性解放運動であったり、環境運動であった、とにかくいろいろな分野で新しい活動が80年代後半の民主化運動の体験を共通言語として始めるわけです。

日本のばあい、活動家や中心メンバーが大量に生まれた時期は60年代後半からの70年安保や全共闘・全学連の闘いになってしまうので、韓国とは20年近くの違いがあるわけです。僕のかかわっている環境運動も日本側のメンバーは60代から70代が多いのですが、韓国は40代~50代となっているのも、このような背景があるからです。

このような全国的な運動による活動家や核心メンバーの大量排出という時代の違いも大切ですが、ここでは政治グループ(政党)と市民団体との関係に注目したいと思います。
日本の場合、進歩的な運動は社会党と共産党、そしてそれ以外の新左翼と呼ばれた複数の政治集団によって作られたり、あるいは政治的な指導を受けたりという関係が多かったように見られます。とくに進歩的な運動の中で労働組合の持つ力が強く、いい意味でも悪い意味でも労働運動が日本の大衆運動(市民運動ではありませんよ)を代表していたと思います。そして、現在では労働運動も社会的な影響力やメッセージ力はほとんどなくなってしまい、日本の進歩勢力の体力の低下につながったと思います。

一方で、環境運動などをみればわかりますが、韓国の市民運動は政治的な主張をはっきりと行い、政府や行政との闘いというのも躊躇しません。(もちろん、政府のいいなりの環境運動もありますが、影響力は小さいです)今回のパク・グネ退陣運動でも中心グループとして活躍しました。
日本の場合、政府の政策に反対することはありますが、例えば戦争法反対の集会に、環境団体がそっくりそのまま参加するということは、ほとんどないと思います。(60年安保の時はあったかもしれませんね)ですので、韓国の場合は政治的な発言や立場を市民団体が独自に打ち出すという経験と能力を備えていて、さまざまな市民団体と共通行動をとってきた信頼関係と歴史があると思います。

日本の場合は、ようやく一昨年の戦争法案反対の運動から、そんな動きが出てきましたが、韓国の力量やレベルと比べるとまだまだ、という感じですね。

そうそう、ひとつ書き忘れましたが、宗教グループの社会的・政治的発言とか主張というのも、韓国では大きな力を持っています。もちろん、金儲けに忙しい宗教者もいますし、パク・グネ支持派の集会でミサをするプロテスタントの教会もありますが、進歩的な市民や運動とともに歩んできたという韓国の宗教者の影響力もとても大きなものがあります。

次に指導部の問題ですが、日本の場合、政党同士、あるいは政治グループ同士の足の引っ張り合いどころか、暴力での妨害や破壊まで、ときには発生したわけで(僕も大学の時、自治会の白いオジサン・オニイサンたちにやられまして、おかげで色々勉強させてもらいました^^)これは大変なマイナスですよね。さっき、70年安保のことを書きましたが、政党や政治グループが違うと、70年安保の説明自体が違ってしまうので、困ります。
このように、日本の場合は、活動家や中心メンバー同士でも、大きな溝というか壁があって、共同行動をするための信頼関係を作るのに失敗し続けてきたような気がします。(もちろん、一生懸命やっている人たちがいるのはわかりますが、韓国と比較すると、成功したとは思えません)。韓国でも、議員がいる既存政党と議員がいない政党(というより政治グループですね)の間に、いろいろな対立があったり、学生運動の中で統一が先か、反米独立が先かというような対立があり、一時期はかなり厳しい状況だったようですが、そういう対立を飲み込んでしまうエネルギーが運動の中にあったと思います。今回のキャンドル集会の中でも、最初の1、2回は、直接行動至上主義のような人たちが警察バスの上に乗って扇動していたようですが、多くの市民の参加によって、不発におわったと聞いています。

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これをかいたのが、3月の終わりごろかな。まあ、おおざっぱなところでは正しいと思います。いくつか付け加えると、退陣運動の<状況室>は指導部といれば指導部です。ただ、その性格が中央集権的な指導部、あるいは前衛党的な指導部ではないとおもいます。共同室長が5名いる集団指導体制ですし、全体会議でも多数決による採決を取らないことは、すでに述べたと思います。しかし、会場を準備することが中心の<事務屋>というわけでもありません。キャンドル広場に来る市民やネットへの書き込みなどをチェックしながら、市民と足並みをそろえながら、後からついていくのでなく、半歩ぐらい先を歩いて、、明日の展望というか未来の希望というか、私たちが望む世の中を示していこうとしたそうです。その点では、素晴らしい<指導部>だと、ぼくは思います。そして、この<状況室>の在り方が、21世紀の進歩的な社会運動のやり方のヒントではないかなと、考えています。

また、学生運動、とくに全大協(87年~93年)韓総連(93年~??)の影響力をあまり考えていませんでした。92年の全大協の全国大会には6万人集まっていますから、その影響力は半端ではないですね。実は、今回一緒に福岡へ行った二人も、この学生運動の中で活動家として鍛えられた世代で、かなり過激なこともしたそうです。この学生運動については、次回、まとめてみましょう。

写真は「退陣行動」解散式の様子


キャンドル市民革命の作り方 5

2017-07-11 23:41:39 | 韓国あれこれ

そろそろまとめにかからないと、いけないですね。ちょっと気持ちを引き締めて、キャンドル市民革命の成功について何点か整理をしてみます。

まず、市民の怒りのエネルギーをひとつに集中し、政治的な力として表現できる広場ができたことが大きいですね。このような広場ができる要因として、3つぐらい注目しましょう。

なんといっても、<パク・グネ政権退陣非常国民運動>が2500という韓国全土のほとんどの市民団体や社会団体を網羅して成立、毎週土曜日の集会を準備したことが大きいです。すでに書きましたが、<状況室>と呼ばれた事務局には100名ほどのスタッフが集まって、実務の準備をしました。たとえば、日本で集会を準備するとき、何人ぐらいが準備で動くのかな? 100名、それもずぶの素人ではなく、何人かはいわば「集会のプロ」です。どのように準備をするか、当日はどう運営するか、万が一の対応はなど、キッチリと基礎ができている活動家がチームリーダーになったようです。今回、日本に一緒に行ったイ・スンフンさんも学生運動を経験していますから、20年近く活動歴があるベテランです。このような中堅活動家の層の厚さが、今回のキャンドル市民革命の成功の理由の一つだと思います。

次に、基礎動員力の力が大きいです。市民社会団体連絡会議に500の団体が所属していますが、これに民主労組などの労働運動、政治グループなどが参加すると、10万人から15万人ぐらいの動員力があります。もちろん、今回のキャンドル集会では100万人以上集まっているので、この動員力をはるかにオーバーしています。日本の場合、70年代から80年代ぐらい、社会党‐総評の枠で一番集まったのが10万人ぐらいだったと思います。いわゆる新左翼と呼ばれた勢力の場合、77年の4月に三里塚で1万5000人ぐらい集まったのが最高でしょう。ですので、日本の数字に比べると韓国の動員力が、どれだけ大きいかがわかると思います。

そして、非暴力を最後まで守り切り、逮捕者もけが人も出さなかったという点です。最初の2、3回は警察のバスの上に上がったり、明け方に小競り合いをした参加者もいたそうですが、長期戦になるとみなが判断してからは、不必要な挑発や衝突はなくなりました。これは、本当にすごいことで、みんなが安心して参加できる雰囲気を作りました。ただ、ここで注意をしたい点があります。非暴力というと合法的な闘いとなって、デモ行進などもきちんと警察の指示に従ってやるようなイメージを持ちますが、韓国の集会やデモは決してそうではありません。そもそも、光化門広場の周辺はアメリカ大使館があるので、デモや集会は禁止されている地域です(大使館より、100メートル以内)ですので、文化行事としてソウル市に光化門広場の使用許可を出して、使っているわけです。ソウル市も市長が進歩的なパク・ウォンスン弁護士ですので、そのあたりはあ・うんの呼吸ですね。このほかにも、放水用の水を使わせない、周辺のビルのトイレを開放させる、など大変協力的でした。話を元に戻しましょう。今回も青瓦台までデモをしようと、さまざまな手段を使って実現させました。そして、いざ、デモが始まると、許可された時間をはるかにオーバーしてデモを行っています。自分たちの要求を通すため、ぎりぎりのところまで抵抗します。なぜなら、韓国の憲法一条にあるように、すべての権力は国民から生まれるからだ、という自信が参加者全員を精神的に強くしたのだと思います。この強さがキャンドル市民革命の成功の大きな要因でしょう。

次回は、90年代の韓国の進歩的な運動をスケッチしてみます。この時代がわからないと、今回のキャンドル市民革命を本当に理解するのは大変だと思います。こうご期待!

高校生たちのデモ(入試統一試験が終わり、下野が始まる)

 


キャンドル市民革命の作り方 4

2017-07-07 08:03:08 | 韓国あれこれ
5ヶ所の講演で共通して出された質問のひとつが、どうやってあれだけの人数が集まったのか、集めることが出来たのかという質問でした。
その質問の背景には、パク•グネと同じように安倍政権は権力の私物化を行い一部の特権階層のための政治を行っています。それなのに、日本では韓国のような大衆的な反撃が起きないという現状を、どうにかしたいという気持ちがあると思います。

この点について、退陣行動の状況室(事務局)の5人の共同室長の一人だったパク•ジンさんと10つあったチームの中の市民参加対策チームリーダーだったイ•スンフンさんの二人から、次のような話しを聞くことができました。なお、5ヵ所の話しを僕の頭の中で纏めましたので、場所によっては出てこなかった内容もあると思いますが、その点はご理解下さい。

退陣行動の最初の集会は、10月29日にチョンゲチョン広場で行われました。24日にJTBCというケーブルテレビのニュースでチェ•スンシルのタブレットPCから大統領の演説草案等が発見され、チェ•スンシルの国政介入が明かになりました。ネットでも弾劾とか大統領下野という単語がトップになる状況でした。ただし、わずか5日後の集会なので準備期間もなく2000人規模と想定して準備をしたそうです。
ところが、予想に反して一般市民がどんどん集まり、最終的には3万人に膨れ上がったそうです。そして、デモ行進の届け出もなしに光化門までのデモを行いました。もちろん周辺には警察もいましたが、放水や催涙弾のような規制をすることもなく、平和的にデモが終わりました。この時、パクさんたち主催者側、そして警察も、このデモはいつもと違うと感じたそうです。

今までのデモや集会と違うと感じた部分が、もうひとつあったと言います。
それは、夜遅く、あるいは明け方まで残る人がいなくなったそうです。それまでのデモや集会では、警察と小競り合いをしながら明け方まで残っているグループや個人がいたそうです。しかし、今回はそのような動きが、3回目か4回目ごろからなくなり、無駄なエネルギーを使わなくなったそうです。つまり、広場に集まっている市民は弾劾させるまで本気で続けるのだ、とイさんは感じたそうです。

そのような市民のエネルギーをどのように受け止め、先走らず、同時に市民の要求や提案に遅れをとらないように、足並みを揃えるのに神経を使ったそうです。そして、広場の安全にも注意を払ったそうです。というのも、キャンドル集会は安全で誰でも参加ができるという認識が拡がるにつれて、参加する人たちは増え続け、参加する層も拡大しました。
保守的なマスコミでの報道や今までの進歩陣営の集会のイメージ、つまり活動家が集まり警察との小競り合いが起こるかもしれないというイメージとは、全くレベルの違う集会が毎週、各地で行われたわけです。
最終的には23回、キャンドル集会が行われたわけですが、全国で1700万人が参加したと言われています。
それでは、何が市民をつき動かしたのでしょうか。

まず、人々の共通の意識として、「これが国家なのか?」という怒りだったと言っています。チェ•スンシルという一個人が私的な利益のために国の政治に介入し、めちゃくちゃにしたという怒りです。これまで、パク•グネ政権のもとで様々な不正や反則、政治への不信があり、この怒りが爆発したと言います。
この怒りを生み出したものに、セウォル号があり、チョン•ユラの不正入学があり、デモ鎮圧用放水による農民活動家の死があり、ブラックリストがあったわけです。(これ以外にも、色々ありましたが)

では、このような怒りが、どのように組織化されるのか?
逆に言うと、怒りを政治的行動へと転換できたのか? この辺りに、どうやら秘密がありそうですね。

もちろん、韓国人は元々政治の話が好きという指摘もあり、民主化闘争の経験が豊富だという考えもあります。
この問題については、ちょっと考え始めたポイントがありますので、次回はそれについて書いてみます。

写真は、初日の打ち上げの様子。



キャンドル市民革命の作り方 3

2017-07-05 00:37:50 | 韓国あれこれ
以前、フェイスブックに次のようなことを書いたことがあります。まず、これを読んでもらってから、今回の連続講演会で出てきた話を紹介しましょう。
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キャンドル集会を主催した"退陣運動"が、1億ウオンの赤字を抱え、特別カンパを要請したところ、なんと約21000名から8億8千万ウオンが集まったそうです。
やはり、キャンドル集会の動員力や集金力には、ものすごいものがありますね。前回の文章(~作り方1 を見て下さい)で、いわゆる"運動圏"と無所属市民が、有機的に一つになったことを述べましたが、もうひとつ忘れてはならないことがあります。
それは、今回の運動が進歩と保守、あるいは左と右の対立ではなかったという点で、これは憲法裁判所の判決文にも出てきましたね。
ですので、ラジカルな労働組合が運動の中心という訳でもありませんし、ましてや北の指導によって起きた運動でもありません。ただ一点、パクグネを退陣させようという要求で集まった訳ですが、この要求の背景、根拠の一つが憲法第一条であり、直接民主主義の実践なのだと思います。パクグネとチェスンシルによって国民に主権がある民主共和国という憲法第一条の約束が破られているので、国会議員だけに任せるのではない直接民主主義の行動を積極的に行います。例えば、キャンドル集会に参加したり、国会議員の携帯電話に万単位でメッセージを送り、文化体育観光部の職員は特別検察に情報を提供し、国税庁の退職幹部は野党の国会議員と一緒にチェスンシルの秘密財産を探しにドイツまで行っているわけです。
3ヵ月の間、常に80%前後が大統領の退陣を要求するという国民全体の闘いになったからこそ、実現したと思います。
もちろん、長年の民主化闘争も大きな影響を与えているとおもいますが、それについては次回に考えてみます(3/17)
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実は、今回福岡に行ったパク•ジンさんが、特別カンパを要請した張本人でした。
憲法裁判所の判決前後に3回連続で集会を行ったため、現場でのカンパが追い付かず、2億ウオンの赤字が発生したそうです。ステージを設置する業者が1回分の1億ウオンを値引きしてくれて(カンパですね)、でも1億ウオンが残った訳です。
1億ウオンと言ったら、小さな市民団体の1年分の予算、どうしようと悩み、自分のフェイスブックにちょこっと書いたそうです。"退陣行動"で正式に決定したものでもありません。
すると、このコメントがどんどんシェアされ拡散していき、同時にどんどんカンパが振り込まれたそうです。結局、数日間で12億ウオンのカンパが集まったそうです。
どうやら、パク•ジンさんには金運があるようで、彼女のおかげで福岡での5回の連続講演会も会場カンパでかかった費用を埋め、少し黒字が出たそうです。

さて、直接行動の一つに、<18ウオン、カンパ運動>というのが、あったそうです。"18"という数を読むと、悪口と同じような音になるので、弾劾反対派やパク•グネ支持派に18ウオンを送ろうとうと、誰かが言い出したそうです。今となっては、確認出来ないそうですが、この抗議運動があっという間に拡がりました。
このように毎週土曜日に広場に集まるだけでなく、また、上からの指令を待つのでなく、参加した市民が自分達のやり方を自分達で編み出していきました。パク•グネ退陣の強さの源泉は、こんな所にもありそうです。


キャンドル市民革命の作り方 2

2017-07-01 08:24:32 | 韓国あれこれ
6月30日から始まった福岡県内5ヶ所でのキャンドル市民革命の講演会、"キャンドルデモクラシー~彼らが大統領を弾劾できたわけ"も、昨晩(7/2)無事に終わりました。
キャンドル集会、正確には"パク•グネ政権退陣非常国民行動"で5名の実務責任者の一人だったパク•ジンさん(女性)と市民参加支援チームの責任者だったイ•スンフンさんの話しは、とてもリアルで示唆するところも多い内容でした。これから、いくつか気がついた事をメモしておきます。

1 今回の"退陣国民行動"には、2500以上の団体が参加しましたが、会議をすると100名以上集まったそうです。その会議で決めたことに従って、約100名ぐらいの実務スタッフが次の集会を準備しました。ここで大切なのが、多数決での決定はしなかったそうです。全員が合意できるところを探りながら話し合いを行い、全員一致で決定したそうです。
このような決定方法は時間がかかりますが、参加団体の積極性や相互信頼等を作り出すという点で、多数決の形式的な決定の弊害を取り除くことが出来ると思います。
実際、一番長い会議は8時間もかかったそうで、決まった事は3つか4つ。この決定を実行するのが"状況室"でここには各参加団体のメンバーが100名ほど所属、10つのチームに別れて土曜日の集会を準備したわけです。
その上、色々な団体、市民団体から労働組合、政治グループまで参加しているので、お互いの経験や運動の進め方、活動現場や会議で使う"言葉"まで違います。そのため、常に論争や意見対立があったのも事実だそうです。全体会議だけでなく、"状況室"のグループ内部でも、進め方等をめぐって違いがあり、明け方までsnsで討論したこともあるそうです。
但し、多くの市民、すなわち退陣行動に参加している市民団体のメンバーでない、"無所属市民"が参加したため、お互いに譲歩しながらキャンドル広場に参加したみんなが合意できる要求やスローガンを作っていったそうです。
このプロセスこそ民主主義を学ぶ事であり、集団知性の現れだったと語ってくれました。この話、これからじっくり考えて見ます。




キャンドル市民革命の作り方 1

2017-06-30 08:35:31 | 韓国あれこれ
今日、6月30日から3日間、福岡でキャンドル市民革命の講演会を行いますが、通訳&コーディネーターで同行します。そのつど報告を載せますが、以前フェイスブックに書いた文を紹介しますので、参考にして下さい。
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今回の韓国でのパクグネ退陣運動で気がついたことをメモします。
まず、運動の主体側のことですが、昨年11月9日に"パクグネ政権退陣国民緊急行動"が1500余りの市民団体や労働組合、政治グループなどによって結成されます。
新聞で報道されているだけでも、参与連帯、環境運動連合、民主化のための弁護士会、民主労組、宗教団体などが参加していますが、いわゆる"運動圏"の団体だけでなく幅広い団体が参加して、最終的には2500団体まで拡大したそうです。
また、毎週土曜日のキャンドル集会には、個人や家族、友人同士といった参加も目立ち、どの時期からか確認しなければなりませんが、こういった"無所属市民"の参加が中心になっていったそうです。(主催側として活動していた環境運動連合の専従スタッフの話から)
そして、このような非運動圏の"無所属市民"から、運動の進め方や改善点などについて、様々な提案やアイデアの提供があったそうです。
僕がすごいなと思ったところは、これらの提案やアイデアをキチンと受け入れ、共有したり具体的なアクションに繋げていった調整能力や柔軟性の高さです。これは特定の個人の能力でなく、また昨日今日生まれたものでもないと思います。民主主義と社会正義のための長く幅広い闘いの中で培われたものじゃないかなと推測しています。
退陣運動のホームページを見ると、執行部(状況室)から毎日のようにアピールや訴えがアップされ、また会員からも提案やアイデア提供があったのが分かります。
このアピールも参加団体の中で合意をとるためのプロセスや調整がとても大変なのは、市民運動などに参加したことのある人なら、よく分かると思いますが、2000以上の団体が参加したなかで、どのようにやっていたのか気になります。今度、機会があったら聞いてみましょう。
では、次回をお楽しみに(笑)

#3月15日の書きこみです。

アン・ヒジョン忠清南道知事~SBSスペシャル 韓国大統領候補の横顔 2

2017-01-22 01:34:09 | 韓国あれこれ

계급장을 떼라

日本でアン・ヒジョン忠清南道知事のことは、あまり知られていないでしょう。ウィキペディアには紹介がありますが、韓国語のページをそのまま翻訳しただけなので、あまりわからないと思います。ので、ちょっと、僕の感想を付け加えながら説明しましょう。

まず、生まれたのが1965年なので、高校入学が1981年。81年とは光州民主化闘争の翌年です。このとき、大田市内の本屋で地下出版物を購入し、これが原因で退学となります。

韓国は90年代の半ばまで、社会主義や共産主義、あるいは労働運動などの社会運動に関連する本は自由に出版できない状況でした。しかし、そんな政治状況でも学生街にある本屋では、80年代後半から90年代の全般にかけて、地下出版物が公然と売っているたぶん唯一の場所でした。とくに多かったのが日本語の本を韓国語に翻訳したもの。1か月ぐらいで先輩から特訓を受け、とにかく読めて意味が分かる能力をつけて、分担して翻訳したという話を聞いたことがあります。ジャンルは幅広く、大月書店や新日本出版からいわゆる全共闘関連の新左翼の本まで、いろいろありました。もっとも、あんまりじっくり見ていると、怪しまれるので、チラチラとしか見ていませんが。

話を、アン・ヒジョンに戻しましょう。大田の高校を退学になったアン・ヒジョンはソウルにきて、高校に入りますが、今度は自主的に退学します。このころ、革命をしないとだめだという考えを持っていたそうで、高校の時からベトナム反戦のデモに参加したことがある僕も、16~17歳ごろに社会的に目覚めたときの興奮と使命感が、非常によくわかります。

韓国の場合、4・19革命のように民主化運動(植民地時代の独立運動も含めて)の主体が学生運動であったので、本格的に民主化運動をするためには大学に入らないとだめだと考え、日本でいう大検試験を受け、高麗大学へ進学します。

実は、僕も1990年から94年まで高麗大学の大学院に通っていて、アン・ヒジョンも92年に復学して94年に学部を卒業したというのですから、同じ時期に通っていたんですね。この文章書きながら、気が付きました。

その後、民主党(いろいろ名前は変わりますが、系譜は同じです)のスタッフ、本人の言葉では職業政治家として活動をはじめ、とくにノ・ムヒョンの片腕として、その能力を発揮します。2002年、ノ・ムヒョンが大統領になった時も政策スタッフの中心として働きますが、企業から献金を受けていたことが選挙法違反となり、有罪・実刑判決を受けます(懲役1年)

2004年には出所しますが、ノ・ムヒョンに迷惑をかけてはいけないとして、一切の公職につきませんでした。ここの部分は説明がいるでしょうが、企業からの献金はどの政党も慣例的に受けていて、グレーゾーンだったようです。結局、ノ・ムヒョンがわの代表として、彼が逮捕され実刑判決を受けるわけです。このとき、彼と一緒に選挙運動を闘った活動家は、みな、それなりのポストについて、自分の政治的能力を発揮します。大統領府に入ったメンバーもいますし、国会議員になるメンバーもいます。アン・ヒジョン一人だけが、例外でした。ノ・ムヒョンがアン・ヒジョンに対して、本当に申し訳ないと泣きながらインタビューに答えているビデオが、ユーチューブにありますので、探してみてください。当時のアン・ヒジョンの状況がどんなものだったのか、想像できます。

その後、政治に復帰し、2010年に忠清南道知事に当選します。このとき、45歳。新しいリーダーとして注目を浴びます。特に、忠清南道は保守的な地域として知られていますが、こんなところに学生運動上がりの知事が誕生したわけですから、当初は大変だったそうです。

冒頭に紹介している映像は、知事の顔をしらない村をさがして、その村に地区長(里長イジャン)に化けたアン・ヒジョンが村のおじいさんやおばあさんにこき使われるという内容です。当時、アン・ヒジョンは40代の後半ですから、知事とは想像もつかないでしょう。

このビデオはテレビ局の番組として作られましたが、かなり頻繁に現場に行っています。2か月に一回は1泊2日の日程で農家たちと合宿して、学んだり討論したり、また要求を聞いたりしているそうです。有機農業で有名なホンソンも忠清南道で、ホンソンの村の施設をこの合宿で使っています。

このように、地方自治体の長としてはかなり高い評価を受け、いま2期目となっています。果たして、今回の大統領選挙に、民主党の候補として立候補できるか難しいですが(今、支持率は5%ぐらいです)若いし、保守的で高齢者の多い忠清南道をまとめ、さまざまな進歩的な政策も交えながら、地方自治体を運営している能力は高く評価できます。たとえば、大きな病院を建てる財政的な余裕がないので、救急車の体制をととのえ、そのうえ、大学病院にドクターヘリを導入させて、緊急医療体制を充実させるという政策は、日本でも参考になりますし、知事と道民が泊まり込んでお互いに討論するというスタイルも見習う点があると思います。

ということで、アン・ヒジョンの紹介はこのぐらいにしておきます。もし、知りたいことがありましたら、メッセージに書き込んでください。さあ、次はだれにしようかな?

 


パン・ギムンとノ・ムヒョン~韓国大統領候補の横顔 1

2017-01-18 01:42:27 | 韓国あれこれ

今行われている憲法裁判所でのパク・グネ弾劾の違憲訴訟が終わると60日以内に大統領選挙となります。おそらく、今年の5月ごろが投票となりそうですが、立候補の可能性のある政治家を何人か紹介します。

まず、トップ・バッターが、国連の事務総長だったパン・ギムンです。

パン・ギムンに関しては、忠清南道知事のアン・ヒジョンが痛烈に非難しています。その理由は、パン・ギムンが国連の事務総長になれた恩人とも言えるノ・ムヒョン元大統領の葬儀に参列しなく、2年以上たってからノ・ムヒョン元大統領の墓参りを、非公開でしたそうです。これは、人の道にも劣ると激しい口調で攻撃しています。

これを裏付ける証言が、「キム・オジュンのニュース工場」で報道されましたので、内容をまとめてみました。(1月16日報道)

ノ・ムヒョン政権のとき、大統領府で外交戦略秘書官をしていたパク・ソンウォンが、ノ・ムヒョン元大統領の葬儀の時や国連事務総長の選挙の時のエピソードを証言しています。

2009年5月23日、ノ・ムヒョン元大統領は亡くなりますが、当時、アメリカに留学していたパク・ソンウォンは急いで韓国に戻り、葬儀委員会の準備をします。まず、パン・ギムンに葬儀委員長に就任してほしいと秘書官に頼みますが断られ、次に、葬儀委員に名前を載せたいと頼みます。パン・ギムンはノ・ムヒョン政権で外務部長官(外務大臣)であり、葬儀委員には大臣の欄があり、そこに載せたいという事でした。ところが、これも断ります。結局、200字程度の形式的な弔電が届くだけでした。

さて、この後にも、もう一つ、エピソードがあります。葬儀に参列したり、弔電を送ってくれた各国の首脳に、ノ・ムヒョン元大統領の夫人、クォン・ヨンスク女史の手紙を渡すという仕事をパク・ソンウォンが担当します。日本にもやってきて、森元首相や小泉元首相などと会って、手紙を直接渡しました。アメリカでもホワイトハウスに行き、オバマ大統領の秘書に渡したそうです。

続いて、国連のパン・ギムン事務総長にも手渡そうと、ニューヨークの国連本部に行きます。事務室で待っていても、事務総長は出てこない。結局、一週間、ニューヨークのホテルで待っていましたが、手紙を受け取らなかったそうです。

ここまで、拒否するのはどう考えても不自然です。何か、特別な働きかけがあったとしか、考えられません。

パク・ソンウォンの推測によると、パク・ヨンチャという事業家が賄賂を提供したという証言があるパン・ギムンは、当時のイ・ミョンバク政権にこの弱みを握られ、身動きが取れなかったのだろうということです。

もともと、外交部のエリート公務員だったパン・ギムンが国連の事務総長になるために、ノ・ムヒョン政権は全面的に協力します。大統領府、外務部、各国大使館、貿易担当部署、海外援助の専門機関まで人的にも財政的にも動員して、「事務総長選挙」を闘うわけです。これだけできたのも、ノ・ムヒョン元大統領の積極的な後押しがあったからだ、とパク・ソンウォンは証言しています。

昨年の1月には、パク・グネ大統領に日韓の慰安婦合意は歴史的に素晴らしいことだと、電話で話していますが、最近の弾劾の動きを見て、10億円を返せばいいとか、発言しています。

これ以外にも、弟親子がアメリカで詐欺で逮捕されていたり、国連の機関や関連企業に家族や親せきを就職させたり、いろいろな問題点が出てきました。果たして、パン・ギムンは最後まで走り切れるでしょうか?


写真は、コットンネという福祉施設で介護の演技をしているパン・ギムン。寝たままでは、食べ物がのどに詰まるという批判と、なんで食事介助をしてるほうが、エプロン?をしているんだという、批難が巻き起こっています。

パン・ギムンキャンプはどうもピントはずれの人間ばかりなようです。こんなことやったら、演技ってすぐ分かるし、マイナスだと思うのですが。