韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

原発を拒否した三陟(サムチョク)の人たち~ 韓国草の根塾オンライン土曜セミナー

2020-10-28 17:27:38 | 韓国の市民運動

韓国の東海岸にある人口6万7000人あまりのサムチョクは、地域住民の草の根の活動によって原発の建設を拒否した地域です。地域の住民が自ら住民投票を企画運営して85%が原発建設反対をします。国は正式の住民投票でないと無視しようとしますが、原発建設に反対する住民は原発反対で当選した市長と共に政府に圧力をかけ、サムチョクでの原発建設は中止になります。
31日はサムチョクでの反対運動の中心メンバーのマ•キョンマンをゲストに迎え、当時の話を聞こうと思います。
なお、今回からZOOMを利用しますので、間違えないようにお願いします。url とパスワードは木曜日に会員の皆さんのメールアドレスに送ります。
また、新しく参加される方、一回だけ覗いて見たい方も木曜日までに連絡をお願いします。
韓国草の根塾 田中博

 


ソウルの公共給食、広報ビデオ

2019-10-30 15:15:43 | 韓国の市民運動

ソウル市の公共給食(保育園、福祉施設、公共施設の給食)のPRビデオです。オーガニック学校給食は2010年ごろから小学校、中学校、高校と拡大していき、2016年ごろから保育園などのほかの施設の給食もオーガニックの食材を増やしていきます。
一番のポイントはソウル市の各区と生産地をマッチングしている点、収穫から24時間以内に保育園などの消費者へ配送する点、生産地の給食センターでは集荷だけでなく前処理も行っている点、30メニューぐらいの標準メニューがあってこれをベースにメニューを組み立て、消費予想量を算出、またこの消費予想量をもとに計画栽培を行っています。
また、バナナなど海外からの輸入物はなるべく減らし、国内で生産できる果物に変えるように保育園を説得しているそうです。具体的な内容はこれから整理して紹介します。1月29日から3泊4日で現地見学のツアーを実施する予定ですので、ぜひ多くの皆さんに見てもらいたいと思います。
ビデオのナレーションの翻訳を下に載せますので、ご覧ください。
× × × ×
私たちは自然を考えます。
私たちは人間を考えます。
私たちは農家の苦労を考えます。
私たちはともに歩む未来を考えます。
未来を創っていきます。

ソウル市都市農村共生公共給食

持続可能なフードシステムを構築

ソウル市は都市農村共生の公共給食を通じて
満足に食べられえない人たちに食料の基本権が
保証されるようにしました。

また、農村の中小家族経営農家の育成を通じて
農村経済が活性化する互いに生きる社会の基盤を準備し

公共給食に使われる食材料はオーガニック農産物に替え、
生産地でもオーガニック農産物に転換するように誘導し
持続可能なフードシステムを構築しました。

生産地の農家で収穫された農産物は生産地の地方自治体の公共給食センターと
都市の公共給食センターによって保育園のような公共給食施設に供給されます。

ソウル市の給食費の差額支援制度により
2018年現在50%のオーガニック農産物の比率を
2020年には70%まで引き上げます。

<産地直売 循環流通構造>

健康な農産物を安定的に供給するため、既存の7段階まである流通段階を
3段階に減らしました。

<24時間内の供給>
当日、収穫したものをその日のうちに配送、供給することで
産地からその季節に生産された新鮮な農産物を安定的に供給します。

産地と消費者の間の産地直接取引で流通経費を節約し、
節約した費用を生産者と消費者に還元します。

ソウル市の流通費、安全性検査費用の差額支援で、費用の節約はより大きくなります。

今朝、収穫したものです、私たちの家族が食べているものと同じものですよ。
わたしもこれを食べて暮らしています。

ソウル市は市内の各区と生産地の中小規模の家族経営農家と1対1のマッチングを
直接実施し、産地直送の循環流通構造を確立しました。

2017年、試験事業を開始、6つの区で1対1のマッチングを進め

ソウル市カンドン区  - ワンジュ郡
ソウル市クムチョン区 - ナジュ市
ソウル市ソンボク区  - タミャン郡
ソウル市カンボク区  - プヨ郡
ソウル市ノウォン区  - ホンソン郡
ソウル市トボン区   - ウォンジュ市

2018年度下半期に4つの区が追加で参加をする予定です。

ソウル市内の各区は産地と十分な協議を通して必要なだけ生産する計画栽培で

農産物の廃棄をできるだけ少なくして365日安定した価格で供給します。

産地の自治体では多くの品目を少量生産するシステムを構築、
気候変動に対応し、中小家族農業の育成に寄与できるようにします。

<良質の食べ物 安全な供給>

都市農村が共に生きる公共給食は生産、流通、消費の3段階で安全性の検査を行い
1次 産地検査、2次 自治体納品検査、3次 産地訪問モニタリング検査

安心できる信じられる食べ物を供給します。

1次の生産段階では産地の自治体がソウル市の食材品質及び調達基準の遵守、
土壌検査、水質検査はもちろん、出荷農家別、品目別の残留農薬の検査を行います。

2次流通段階では、各区の公共給食センターの産地検査成績書を確認、
使用頻度が高い食材の中で農薬の検出頻度が高い品目を中心にサンプリング検査をします。

3次の消費段階では保護者が産地を直接訪問して品質、調達基準に合っているか
モニタリングをして点検をします。

ソウル市が信念をもって実施していますから私たちは子供たちがオーガニック農産物を使った
質の高い給食を食べることができるため

子供たちを預けている母親としてはありがたいですし、安心できます。

<都市農村お互いに生きる>

ソウル市は市民を対象にして、食生活教育や都市農村交流、産地体験プログラムを
通して持続可能な食べ物についての市民の関心と認識変化を推し進めています。

2016年からソウル市と9つの産地自治体は農産物をとおして都市と農漁村の
バランスの取れた発展とともに生きることを通して

MOUを結び、都市と農村がともに生きる価値を実現させました。

農村は信頼できる農産物を生産する価値を認めてもらい
都市は新鮮で良質な食材を価値を認めて消費する都市農村がともに生きる公共給食

人々は夢みます
良質な食べ物 自足可能な農業 健康な未来  
いま、ソウル市は信頼とともに生きる未来を作っていきます。

(フェイスブックの書き込みをアップしました)

韓国のオーガニック学校給食の歴史 1

2019-10-02 23:21:11 | 韓国の市民運動

9月初めに訪問したソウル市で、1冊の本をもらいました。お役所が作ったにしては、中身が濃い、熱意がすごい。

どれだけ翻訳できるかわかりませんが、まず、第1部の「オーガニック無償給食の歩みと成果」をお届けします。

   +    +     +     +

ソウル市オーガニック無償給食成果白書~ 挑戦と省察、そして未来 2012~2017

 

01 学校給食の新しい扉を開く

 <学校給食の危機>

韓国の学校給食は、1953年、朝鮮戦争当時、外国からの援助物資による無償給食として始まった。カナダ政府が1953年3月に送ってくれた粉ミルク14万パウンドを全国の小学校の欠食児童に提供したことが、学校給食の始まりだった。その後、1981年に学校給食法が施行、部分的に政府支援の学校給食が実施されたが、2003年に特殊学校、小・中・高当学校で全面給食が実施された。

 

学校給食法が制定された1981年、全国の給食利用率は2.8%に過ぎなかった。1991年に特殊学校、1998年に小学校、1999年に高等学校、2003年に中学校の全面給食が実施され、全国の給食実施率は98.5%、給食利用率は90.0%に達するほど拡大した。このように量的な拡大がなされた決定的な契機は、1996年に導入された委託給食と教室内配膳だった。政府からの支援もなく保護者の経済的負担で、そして学校に別途に施設を作らなくても全校生徒を対象に給食を実施することが可能だった。

 

委託給食は給食施設の設置からメニュー、調理、配膳などすべての過程を民間の業者に委託して実施することである。委託給食の導入により、政府の予算投入なしで学校給食が急速に拡大したが、委託業者の行き過ぎた営利追及によって給食の質と衛生面に多くの問題が現れた。毎年、食中毒事故が発生するぐらい衛生管理がキチンと実施されず、食材料も価格の安い輸入農水産物を使用した。政府は委託による量的な拡大にだけ関心を寄せ、安全と健康という質的な管理にはとりわけて対策がなかった。その上、給食に対する政府の責任といえる無償給食についての認識は全くなかった。これらが、給食環境の改善のために保護者が立ち上がった背景である。

 

<保護者と市民が立ち上がる>

2001年から劣悪な給食環境を改善するためには、学校給食法を改定しなければならないという認識が社会的に拡散しだした。保護者団体と農民団体が中心になって「学校給食で国家や地方自治体の役割を強化し、安全な国内産食材を使用し、国内の安定した食糧需給をもたらすことができる方法で学校給食法が改訂されねばならない」(学校給食法の改定と条例制定のための市民社会団体連帯会議、2003.11.4)という主張とともに学校給食法を改定のための立法請願運動、街頭での署名運動が始まった。

 

2006年6月、保護者の粘り強い給食運動と市民の積極的な参加により、ついに学校給食法が改訂された。これにより、大部分の学校で委託給食を直営給食に変え、政府と地方自治体が給食費を支給できる法的な根拠が整った。国内産農産物を学校給食で使用した場合は、これに対する支援も可能となった。しかし、保護者と市民団体が続けて主張してきた無償給食の実施は行われなかった。

 

中央の学校給食法改定運動とは別途に、地方自治体の条例制定で学校給食にたいする支援を制度化するための学校給食支援条例制定運動が展開された。ここでも保護者の熱意と市民団体との連帯が大きな力となった。2002年5月、全羅北道で初めて26の団体が参加して学校給食条例制定連帯会議が作られ、2003年9月に全羅南道のナジュで初めて学校給食支援条例が制定された。ソウル市も2004年11月、20万人の超える署名で請願が行われた学校給食支援条例が市議会を通過した。それ以降、2010年まで全国で16の広域地方自治体を含む2300の市町村の大部分で直営給食、国産農産物の使用、無償給食の原則を取り入れた学校給食支援条例が制定された。

 

<オーガニック無償学校給食が政策となる>

2008年の米国産牛肉輸入反対のキャンドル集会は、国民に食料主権と食品安全の重要性を悟らせてくれた。学校給食運動も、一食を提供するという量的な拡大を超え、安全と品質という質的な転換の必要性を痛感した。これに対して「学校給食法改定と条例制定のための国民運動本部」は2009年の下半期ワークショップで持続可能な農業・農村と子供たちの健康を守るため、2010年の地方選挙の核心公約として「オーガニック無償給食」を提案した。全国をまわり懇談会を実施、街頭署名活動を行って、国民の総意としてハンナラ党(保守与党)を除くすべての政党と選挙公約の調印式を実施、国民への広報活動として政策討論会を開いた。これをきっかけに、2010年の地方選挙でオーガニック給食と無償給食は政治的な関心を持つようになった。

 

2010年3月、韓国の市民運動で初めて2200団体の市民団体が集まって「オーガニック無償給食草の根国民連帯」が発足、オーガニック無償給食を公約とする政策キャンペーンが展開された。国民連帯は

① オーガニック無償給食は教育だ。

② オーガニック無償給食は普遍的な福祉の実現だ。

③ オーガニック無償給食は地域経済を活性化する。

④ オーガニック無償給食はオーガニック農業を拡大させる。

⑤ オーガニック無償給食は子供たちの幸せだ。

という5つの共同行動のスローガンを示した。

学校給食を通じてオーガニックの価値、普遍的な福祉の価値、地域循環経済の価値、子供たちの幸福という価値が出会い、国民連帯はこれらの価値が韓国社会の成長と教育の議題(アジェンデ)であると提示したわけだ。

 

このような韓国社会の成長と教育の議題(アジェンデ)という提案は、マニフェストから選挙運動まで2010年の地方選挙の中心となり、選挙の結果、オーガニック無償給食を公約に掲げた候補が多数当選した。地方自治レベルでオーガニック無償給食が制度の中に組み込まれ、具体的な政策として実施される機会が訪れた。これは保護者と市民社会が力を合わせて勝ち取った成果だ。(続く)

 


10月17日~20日 韓国カジノ問題現地視察のお知らせ

2019-09-19 15:07:24 | 韓国の市民運動
急なお知らせですが、横浜市の動きに驚いて、実施を決めましたことをご理解ください。韓国にひとつだけある自国民が利用できる江原(カンウォン)ランドカジノの問題点と危険性を直接確認してください。また、ギャンブル中毒者への支援活動をしている地域の牧師さんにも会う予定です。カジノ問題に興味のある方の参加をお願いします。(日韓環境情報センター  田中博)
 
 
 
 
 ソウルから3時間余り、廃止された炭鉱地域に地域振興を目的にした特別法に基づいて、政府と江原道が設立を進めて作られたカジノが江原(カンウォン)ランドです。
 オープンから1年後には100万人が入場し、2002年には200万人、2004年には500万人の入場者を記録するなど、多くの韓国人が訪れています。外国人も入場可能ですが、外国人専用のカジノがソウル市内だけでなくインチョン市内やインチョン空港などにもあるため、江原ランドの年間300万人の利用者の99%が韓国人の利用になっています。
 2006年にはスキー場とコンドミニアム、2011年にはコンベンションセンターなどをオープンし、総合レジャー施設への転換を図っていますが、年間1兆4381億ウォン(約1500億円)の売り上げの90~95%はカジノ収入で、カジノの占める大きさがよくわかります。
そして何よりも、ギャンブルによって多くの人が破産し、行方不明になり、また自殺も増加しています。江原ランド・カジノの近くには中古車を扱う店が数多いですが、現金がなくなった利用者が乗ってきた車を売るための店です。
 これ以外にも、臓器売買や売買春、窃盗や詐欺などの犯罪など、通常のレジャー施設では見ることのない現象が頻繁に起こっています。
今回、横浜市の動きをみて、急遽、現地調査を計画しました。現地調査では江原ランドカジノにも入場し、またギャンブル中毒対策に奮闘している関係者にも会い、カジノが持つ問題点を探りたいと思います。
 
 
<ご注意>
この現地調査はソウル集合&解散ですので、航空券は各自で購入してください。
指定のホテルまでの移動に自信のない方はおっしゃってください。途中まで迎えに行きます。
数名集まれば随時可能ですので、他の時期に希望される方はご相談ください。

<スケジュール>
10月17日(木)  
夜6時までに指定のホテル集合、夕食をとりながら準備&レクチャー
10月18日(金)  
午前 ソウル市内で関係者を訪問、インタビュー調査 
午後 チョンリャンリ駅より列車で江原ランドへ移動(約3時間)到着後、ギャンブル被害者の救援関係者と面談  
夕方 江原ランドカジノ入場
10月19日(土)  
午前 江原ランド関係者と面談 
午後 ソウルへ、夕方ソウル市内観光
10月20日(日)  
帰国便の時間まで自由、希望によっては別途観光や視察も可能

<参加費>
7万円前後  
参加費に含まれるもの=3泊宿泊、韓国内移動、同行通訳、コーディネート、カジノ入場料
参加費に含まれないもの=食事代、空港~ソウルホテル間の交通費
 
<申し込み締め切り>
9月30日
 
 
 
 

朝鮮半島DMZ平和の人間の鎖アクションに参加を!

2019-02-26 12:47:22 | 韓国の市民運動

南北首脳会談と共同声明1周年を記念して江華島から江原道まで260キロにわたる非武装地帯を人間の鎖で繋ぐ平和アクションが、4月27日に行われます。今、韓国各地でこの人間の鎖を成功させるために地域の実行委員会や運動本部が作られていて、50万人の参加を目標に取り組まれています。
この平和アクションに参加し、南北の境界地域を探訪し、地域の住民や市民団体のメンバーと交流するスタディツアーを実施します。
26日の夜、ソウル市内のホテルに集合、27日は人間の鎖アクションに参加、28~29日にパジュ、ヨンチョン、チョルウォンなどの境界地域を探訪、30日に帰国するスケジュールです。(帰国日は調整可能です。29日帰国もできます)
バス一緒に動きますので、10名以上で実施します。航空券も高い時期ですので、早めに確保して下さい。
くわしいスケジュール等は3月中旬以降になりますが、とりあえず参加したい人はメッセージを下さい。
田中博(韓国スタディツアー世話人)


ジャパン フィルム プロジェクトのお知らせ

2018-12-06 13:30:43 | 韓国の市民運動
[[ お願い ]]
月曜日、ソウルにある"独立映画" 専用映画館の副館長という人にあって、今考えてる"ジャパン フィルム プロジェクト"について色々と相談しました。で、皆さんにお願いです。

1. 最近観た日本のドキュメンタリー映画で、これはお勧め、という作品があったら教えてください。
とくに、沖縄、在日、有機農業、ペット等のドキュメンタリーを探しています。
2. ドキュメンタリーを作った監督やプロダクションに、韓国に住んでる田中が、こんな事、始めたと伝えて下さい。その後、こちらからコンタクトをとります。
3. 最初に、韓国で公開(自主上映)予定の作品を数本、選んで、出来る限り、字幕作業や宣伝の準備をしようと考えています。そのための資金集めにご協力下さい。
日本国内で50万円、韓国で500万ウォンを目標にします。これだけ準備できれば、3本ぐらいの作業ができます。
4. 資金集めと関連して、どなたか口座管理をして頂けませんか?日本での田中名義の口座がなく(マイナンバーもありません^^)、韓国へ海外送金も手数料が高く現実的ではありません。お手数ですが、どなたかお願いします。
5. 今、来年5月にソウルで行われる環境映画フェスティバルの公募受付中です。興味のある方、作品を出したい方、連絡下さい。

今日はこんなところ、また明日詳しい書き込みしますので、お休みなさい^^ 2018/12/6

"2018韓国市民運動との出会い、そして対話" 参加者募集中です!

2018-10-30 12:51:07 | 韓国の市民運動
12月21日~24日、韓国を訪問してパク•グネを退陣に追い込んだ韓国の市民運動をはじめとする様々な活動を現場で感じ、対話をする時間を持ちます。
具体的には日本から参加される皆さんのリクエストを参考にしながら、韓国の仲間と相談して決める予定です。
12月21日金曜の夜、ソウル市内で集まり、22日の土曜に現場2~3ヶ所を訪問、23日の日曜日に4~5時間ぐらいしっかりと対話を行い、共に何らかのアクションが出来ればと考えています。
団体レベルでの交流や対話は様々に行われていますので、個人レベルでの出会いと話し合いを行おうと思います。
今まで行ったことのない試みですが、まず参加しようという方、興味があるという方、連絡を下さい。


https://www.facebook.com/events/2150032801708318/?ti=as




韓国でドキュメンタリ映画の上映をするためのメモ 1

2018-09-14 16:55:58 | 韓国の市民運動
フェイスブックに載せた文章ですが、ブログにもアップしておきます。今後、色々、お願いするかもしれませんが、その時はよろしく!

× × ×
韓国語で書いたので、日本語でも書いておきます。詳しい人、色々教えて下さい。

日本のドキュメンタリー映画を韓国で上映できないかな、と思い出したのは今年の夏頃の話。偶然、ドキュメンタリ映画の監督やえいが関係者に立て続けに会い、良い作品で上映運動(こっちでは共同体上映と言います)が出来ないかなと考え始めました。

ずーっと昔、まだVHSとベータがケンカしていたころ、在日の監督のドキュメンタリの上映運動を手伝ったことがあって、その頃の情熱が甦ったのか、やり残しの宿題を片付けるのか、とにかくやってみようと考えました。

字幕は最初は専門事務所に任せますが、半年位の内には自分でと考え、1本当たり50万円位あれば宣伝材料も作れ字幕処理もできると思いました。こちらでも上映運動の場合、貸出しの基本料金は2万から3万円ぐらいなので、30ヶ所から50ヶ所位上映して、年に数本確保できれば、やって行きそうな計算をしました。

ところが、韓国には"等級制度"があって、これの審査が必要なんですね。お金を取る上映の場合、これやっておかないと、法律違反になっちゃいます。5分で1万2千円で、2時間ものだとその半額なので、それでも15万円ぐらいかかります。
その上、キチンと輸入をしないとダメなので、映像物の輸出入の事業者登録が必要で、机一つでも事務所が必要になってきます。これじゃあ、1本で50ヶ所じゃなく100ヶ所位を目標にしないと。

何か、話が大きくなりそうで、少し戸惑っていますが、他にやる人もいないみたいです。

在日の友人が自分のドキュメンタリを売り込みに行ったら、商売にならないと、とある配給会社から断られたぐらいなんで、まあ、儲かる話じゃないので、他にやる人、いませんよね。

ということで、環境、原発、食生活、沖縄、反差別、歴史問題、農業、公害、住民運動と言った固いテーマのドキュメンタリ映画を紹介できれば、と考えています。この分野に詳しい方、ぜひ色々教えて下さい。(田中博、韓国在住)

キャンドル市民研究所のプロジェクトなどについて

2018-03-04 16:17:47 | 韓国の市民運動
なかなか、考えや作業が進まず申し訳ありません。この研究所で、皆さんと共に進めたいプロジェクト、紹介・分析したい分野やテーマについてメモしますので、ご覧ください。

1 韓国、歴史の歩き方プロジェクト
これは日韓両国で協力して進めようと思います。まず、100か所を選び、ネットでも公開し、同時に印刷物にもしたいと考えています。
韓国の歴史や日韓の歴史についてあまり勉強していない人たちを対象に、最低限知ってもらいたい歴史的な事実や出来事、人物などを、具体的な場所や施設をとおして紹介しようと思います。
皆さんが、それぞれお持ちの情報や体験、写真や動画などを共有して、多くの人たち、特に若い人たちに伝えたいと考えています。

2 韓国の街頭右翼やネトウヨの動きについての紹介
今日、僕のFbでも紹介しましたが、韓国の右翼、とくに保守系プロテスタント教会の動きがきになります。保守的な宗教団体の動きは、日韓でとても似通っています。この部分も共同研究などが必要かもしれません。
また、サムソンが、以前、正規の社員150名ぐらいの規模でネットへの対応(意図的な書き込みなど)をしていたという証言があり、最近の意図的な書き込みの動きとサムソンが関係があるのではないかという指摘もあります(キム・オジュンのニュース工場など)
日本でもネットへの書き込みが意図的に行われているので、この分野でも調査をしたいと思います。

3 #Metoo 運動の韓国の状況と日韓の比較について
これは、どなたか女性の方と一緒にできればと思います。韓国での展開や広がりと日本での足踏み状況の違いは、市民社会の成熟度の違い、市民社会でのお互いの信頼関係と繋がりの強さの違いだと僕は感じましたが、ほかの意見もぜひ来てみたいです。

いま、思いつくのは以上の3点ですが、ほかにもありましたが、ぜひ書き込んでください。

あと、別件ですが、3月中には正式に始めようと考えています。日本と韓国でそれぞれ会費や寄付の送金用の口座も準備します。最初は、ネットだけではじめ、ある程度会員があつまったり、ホームページで記事や紹介資料が蓄積された段階で、<運営委員>のようなものを作り、役割分担などを決めていこうと思います。変則的な始め方かもしれませんが、なるべくみなさん(僕も含めて)に負担にならないように運営をしたいと考えています。

では、よろしくお願いします。

<補足>
2020年の東京オリンピックで南北単一チームができた場合、日本ではどんな反応をするのかなと、かなり不安に思っています。表向きは歓迎しても、ネットのなかでは、あるいは一部の街頭で、差別的な言動が起こると思います。その時に反撃できる陣形を今から準備しようと思って、上のような文章を書きました。

1987年民主化運動、柳時春(ユシチュン)インタビュー2~韓国TBSラジオ<ニュース工場>より

2018-01-05 01:36:11 | 韓国の市民運動

さて、昨日の柳時春のインタビュー(12月26日分)の後半です。ちょっと、僕の体験を話すと、一番初めに韓国に来たのは、確か1986年の夏に在日韓国YMCAのツアーで来て、その後、年末、五月の連休、秋の連休と1987年には3回来ていました。当時は韓国語もようやく挨拶ができ、食事の注文ができる程度。町中では写真は撮れない雰囲気でした。当時のことは、また別の機会にしますので、柳時春のインタビューの後半をご覧ください。

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柳時春(ユ・シチュン):はい。 ビハインドストーリーをちょっと申し上げますと、最も重要なのが、そんなに爆発的な力を持つようになったのは最後に野党が合流し、共に組織を立ち上げたため、それだけ爆発的な力があるようになりました。 朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問致死事件が起きて、それこそ民主化運動団体だけで2月7日、3月3日に追悼集会と平和大行進をしたのですが、そのときは青年学生たちと民主化運動団体だけ結合をしてデモをしましたが、大きな大衆的な反応を得られませんでした。

李政烈(イ・ジョンヨル):怖くもあった、事実上その状況が?

柳時春(ユ・シチュン):怖かったです。 しかしこれもビハインドストーリーですが、3・3の追悼集会、平和大行進が学生たちと在野団体だけでたいへん小規模で行われ、すぐに鎮圧を受けたので、全斗煥(チョン・ドゥファン)集団が自信を持ったようです。 そこで登場したのが4・13護憲宣言です。 「我々はお前たち要求を聞き入れる事はできない。我々だけで体育館に集まり大統領選ぶ。 私は盧泰愚(ノ・テウ)に譲渡する」宣言を4月13日に行うことになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):「4・13護憲」も久しぶりに聞く言葉ですね。

柳時春(ユ・シチュン):はい。ところが、その直前に、数年前にシム・ウンギョンという名前で在韓米大使をしたスティーブンソンという女性の方がいらっしゃいます、韓国語が上手で。その時は、米大使館の参事官だったです。その方が私たちを訪ねて来ました。 友好的でしたね。私たち民主化運動勢力の所に来て、気をつけてと注意してくれました。「今、全斗煥(チョン・ドゥファン)は、なにも目に入らない。 明日か明後日ごろ、たぶん自分たち同士で体育館で再び権力を継承するという宣言をするつもりだ。そして弾圧がもっと深刻になるから、気を付けて行動して」と。その理由は、「2・7追悼集会と3・3平和大行進があなたたちだけの集会で終わったではないか。全斗煥(チョン・ドゥファン)が自信を持つようになったようだ。気をつけろ」と私たちにこっそり教えてくれました。

李政烈(イ・ジョンヨル):どうでした、その時の気分?

柳時春(ユ・シチュン):そうなってもそうでなくても、関係ない。私たちは、我が道を行く。

李政烈(イ・ジョンヨル):すごいですね。 座って話だけ聞いている私も背筋が寒くなります。

柳時春(ユ・シチュン):それで4・13護憲宣言が事実上、国本(国民運動本部)の結成に火をつけたことになります。到底、このままではダメだ。自分たちだけで、体育館に集まってひそひそ話し合って、「私、全斗煥は友達の盧泰愚(ノ・テウ)に大統領を譲る。お前たちは目を閉じて口を閉じて、じっとしていろ、与えるのも食べて」というような宣言だったという言葉です。 4・13護憲が出て、二日後に国本を結成する立ち上げの会議をすることになります。

李政烈(イ・ジョンヨル):その立ち上げの会議、国本を結成した。さっき、3・3大行進まで言われた。 4・13護憲まで出てきたので、およそ5月ごろですか。

柳時春(ユ・シチュン):違います。 4・13護憲出てこれは本当に我慢できない。このように思って、4月16日でしょうか? 牛耳洞レンギョウ山荘という粗末な家で、十人ほど集まって立ち上げたのです。その時は、野党、政党が合流するとは思いませんでしたが、宗教団体、在野団体、学生運動団体がみんなでひとつになることが必要がという立ち上げの会合をしたのが、たぶんその翌々日だったようです。

李政烈(イ・ジョンヨル):4月15日、16日。その時、私が覚えているにはその当時、87年度の状況を後から「6月抗争」と呼ばないですか? そして、その6月抗争と命名された理由が6月10日に大規模な集会があります。 6月10日、このあたり頃に国本や先生が。

柳時春(ユ・シチュン):はい。それで長い議論を経た上に最後に甲論乙駁を繰り広げたのが野党を参加させるかどうかでした。 そうでしたが、結果的に考えば、野党を参加させたのはとても良い判断でした。地域的には済州(チェジュ)からソウルまで、年齢的にも10代で70代の高齢者まで。 慶尚道と全羅道の区別がなかったし…。 その次に分野別でも農民、女性、貧民、学生、人権、法曹、文化、芸術、このすべてのジャンルで、民主化運動をしていたすべての団体が網羅されました。 それで6月10日の朝に、私たちがなぜそれが成功できたのかと言えば、韓勝憲(ハン・スンホン)弁護士のような方が非常に知的なユーモアで、ほとんど神話の段階にいらっしゃる方なので、後に回顧することを「6月抗争が成功したのは聖公会で開催したために成功した」と、こんなこともおっしゃっていたそうです。

李政烈(イ・ジョンヨル):今で言えば、それ、オヤジギャグですが。

柳時春(ユ・シチュン):オヤジギャグですか。その時は凄く新鮮でした。それで国本が発足した5月27日の朝は、昨日のように鮮明に覚えています。そこに出席した200余分の発起人たちは皆、私のように担当刑事が見張っている要注意人物です。

李政烈(イ・ジョンヨル):今のやり方で表現すれば「査察」。

柳時春(ユ・シチュン):ブラック、ブラック・ブラックリストに載っているんです。

李政烈(イ・ジョンヨル):どれだけ黒いば、3回言いますか?

柳時春(ユ・シチュン):そのために場所を事前に知らせる事ができませんでした。 定めませんでした。漏れていくかも知れないから。

李政烈(イ・ジョンヨル):今のように、インターネットでサイていがあるわけでもないし。

柳時春(ユ・シチュン):はい。なぜなら国本を結成したあいつらが何か事をおこすということは捜査機関も知っていましたたが、何月何日どこなのかは知らなかったんです。 5月27日は私たちが決めております。場所はその前日まで誰も知りませんでした。 それでまず、すべての団体が鍾路通りに隠れていることにしました。 光化門(クァンファムン)から、東大門まで鍾路(チョンノ)両方の道に適した場所にいることにして、伝令がメモを書いて通いました。

李政烈(イ・ジョンヨル):笑ってしまいますが。

柳時春(ユ・シチュン):でも、その時はとても切迫していました。それでうちの民家協(逮捕者の家族の組織)はどこにいたかというと鍾路2街の路地にある、その当時、民家協の会員がしていたカフェを夜明けに開けてもらい、そこに待っていました。 私が外に出ると、夜明けの光が輝く朝でした。 5月27日朝6時に、遠くから誰が来ました。キチュンさんです、明洞(ミョンドン)の青年連合の幹事をしていた。以前に大統領府でも働いていた。

李政烈(イ・ジョンヨル):キチュン、金淇春(キム・ギチュン)?

柳時春(ユ・シチュン):ではないです。やって来て、こんなふうに通り過ぎ、メモを、小さなメモ用紙を一枚を私の手に握ぎらせて、いきました。見たら「ヒャンリン教会」と書いてあるのです。その時、私たちがどこで会議をするかをめぐって民主化運動のメッカだった鍾路5街のキリスト教会館、その次に明洞聖堂、ヒャンリン教会、西大門にあるキリスト教社会問題研究院。その四ヶ所を考えていましたが、未明の5時ごろ行ってみたら気配を感じた警察が、警察隊たちを残りの三箇所は配置していきました。行ったり来たりしていますから。キリスト教会館とキ社研と明洞(ミョンドン)聖堂前は、戦警が敷かれていて、私服刑事たちが行ったり来たりします。

李政烈(イ・ジョンヨル):その側の立場で見れば予想問題じゃないですか。

柳時春(ユ・シチュン):そうです。 予想問題です。 ヒャンリン教会はなかったんです。 それでヒャンリン教会に決めたのが5時半ぐらい。そして6時にメモを書いて鐘路通を中心に散在していた団体に渡していったのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):まるで、映画ですね。

柳時春(ユ・シチュン):はい。 でも今回の映画には、その話までは出ませんでした。 映画は多分、国本を結成して6月抗争が起こる直前までの事実関係を追跡したものです。その後の話も、映画の前にしておかなければならないでしょう。 そうしてみんなヒャンリン教会に7時ごろに集まってきました。 一瀉千里に進行をして終わって出ると、その時になってようやく消息を聞いた警官らが、鶏を追っていた犬が屋根を見つめるように眺めていて、一方私たちが意気揚々と出てきました。 そんなにして、結成しました。

李政烈(イ・ジョンヨル):緊迫していましたね。さて、ヒャンリン教会で国本が発足をしました。 時間が早く行きますね。 今日、全て終わらせられませんね。 わ、大変だ。

柳時春(ユ・シチュン):それじゃ、6月10日に定めたのは。

李政烈(イ・ジョンヨル):先生、これは映画も映画ですが、もっと詳しく聞いて、それで先生にもう一度ご迷惑かもしれませんが、詳しく一回追加したらと思います。それでは、ヒャンリン教会で発足して、その次にさっきおっしゃった聖公会でしたからに成功したと、聖公会は、それでどのようにして出たんですか?

柳時春(ユ・シチュン):私たちが聖公会はその時、守らなかったために、そして聖公会にその時若い神父たちがたくさんいて、ほとんどが最近の486世代たちで、その時は20代、30代の若者で、私たちに非常に協力的でした。 そこは警察が守っていなかったのです。そして6月10日に決めたのは、初日の会議で全斗煥(チョン・ドゥファン)が盧泰愚(ノ・テウ)に権力を継承する民政党全党大会が6月10日12時なので、その日に私たちが対応をしたのです。

李政烈(イ・ジョンヨル):その時、私も記憶が生々しいですけど、1987年6月10日に民主正義党全党大会で大統領候補を選出するが…。

柳時春(ユ・シチュン):ヒルトンホテル。

李政烈(イ・ジョンヨル):はい、そこで祝宴をそこでしました。 ヒルトンホテル、崇礼門の隣に。私がそのとき6月10日に崇礼門付近にあったんですよ。

柳時春(ユ・シチュン):催涙弾の煙、膨大なものだったでしょう。

李政烈(イ・ジョンヨル):南大門(ナムデムン)市場を初めて行ってみたのがその時でした。 逃げて行く、と。 時間がもうこんなになりましたね。 私が先生もう一回出てくれるように説得をして、明日、もう一度お迎えようと思います。先生、今日の話、ありがとうございます。

柳時春(ユ・シチュン):そうですが、 6月10日に機動隊が水が漏れる隙間もないぐらい取り囲んでいる3重、4重の機動隊の壁をかき分けて聖公会の進入に成功した二十人の話が一つ一つが映画です。

(続く)