韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

最初の一歩 5

2017-10-20 13:30:00 | 最初の一歩~どこまで行っても
<最初の一歩 5>

1972~3年頃、地域に根ざした運動のなかで、僕が行ったり、チラシ等でどんな運動なのか知っていたものを思い出すと、こんな感じだ。
まず、もののべながおきさん達のちょうちんデモの会、武蔵野で活動していた老舗で、ベ平連ではない、といつも言っていたとべ平連事務局長の吉川勇一は書いている。
次に、小沢遼子で有名だった埼玉ベ平連、たしか事務所は浦和にあったはずだ。
新宿べ平連というのもあって、いつも和服で月例デモに来ていた古屋のおばちゃんという方がいた。とても自由な雰囲気の方で、僕たち若手グループとも自由に話をしてくれて、いろいろ教わった記憶がある。たしか、ヒロシマの原爆をアジア各国がどのように受け止めたのかという視点も大切だということを、古屋のおばちゃんから聞いた覚えがある。
大泉にもベ平連があって、代表は大学の先生だったはずだ。と書いて、調べてみたら、べ平連ではなかった。中心メンバーは和田春樹先生と清水知久先生(日本女子大)なので、この記憶はあっていた。なお、練馬区議の池尻さんが大泉の運動を記録した写真集の紹介をしています。
http://ikejiri.exblog.jp/d2010-11-01/

基地関係では、立川テント村、ヨコスカ市民グループ、横田基地反対の福生市民連合?などがあったが、ベ平連時代に知ったのか、それともそれ以降の活動で知ったのか、記憶があいまいだ。横田基地には80年代以降、何度か言ったことがあり、当時福生市議の遠藤洋一さんの案内で基地を見て、遠藤さんのハウスで昼ご飯をごちそうになったこともあったっけ。
相模原補給廠の反対運動を担っていたのが<ただの市民が戦車を止める会>と<相模原補給廠監視団>。戦車を止める会の梅林さんとは、そのあと、日韓の問題でもいろいろとお世話になった。
このような地域の運動にはすごいなと魅力を感じていたと同時に、僕がその地域に引っ越すわけにもいかないし、と考えていた。

今から考えると、この時代の僕の行動範囲には、地区労とか総評とかの労働組合はほとんどなかった。時々、全国一般南部支部などが来ていたかな?このあたりの記憶は74年以降の金大中救出運動とゴチャゴチャニなっていて、自信がない。市民運動と労働組合運動は、ほとんど接点がなかったという感じだったので、労働組合運動は大切だと頭では考えていたが、当時はきっかけがなかった。まあ、20年ほどあとに、ほんの少し体験することになるのだが。

もう一つ、通っていた新宿高校ではほとんど活動をしなかった。新宿高校は、僕の入学する前はバリケードを作ったりとかして、かなり派手な学園紛争があったところだったし、また定時制には世田谷区長、というより内申書裁判の保坂展人が通っていた。通った当時、71年から74年(だとおもう)には、1年留年した生徒や数人から10人ほどの<活動家ごっこ>をしている生徒がいた。(たしか、社会問題研究会のメンバーだったと思う)新左翼の党派(政治グループ)で言えば、ブンド(共産主義同盟)系列の影響を受けていたようだ。この辺りは、きちんと討論したこともなく、お互いやっているな、という距離感だったので、はっきりとはわからない。唯一の共同行動?が卒業式に校門や会場の体育館に掲げてある日の丸を捨てることで、これは彼らと一緒にやった記憶がある。僕の目から見ると彼らは明るく楽しい<活動家ごっこ>を一時的にやっているとしか見えなくて、当時、ネクラで純粋だった僕には、ついていけない連中だった。

そして、この時期は連合赤軍のリンチ事件や中核と革マルの内ゲバなど、政治をめぐる状況はだんだん悪くなっていた時代だった。市民運動をやりながら、なんであんな事が起きるのだという怒りと疑問があった。そのあたり、どう考えていたのか次に書いてみよう。

写真は、小田実が中心になって発行していた<週刊アンポ>というミニコミ。ここから本文を読むことができます。
http://www.jca.apc.org/…/635ShuukanAmpoZengougaPDFfileApplo…
次が、新宿西口のフォークゲリラ。当時、中学生だったので、参加はしていませんが、ニュースではよく見ました。


最初の一歩 4

2017-10-15 04:52:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 4>


ベ平連の事務所は東西線の神楽坂駅のすぐ上にあった。1階にコーヒー専門店とラーメン屋?がある小さな建物の2階だった。

僕の高校が新宿にあったので、飯田橋まで国鉄!で行って神楽坂の坂を登って事務所まで行った。
事務所は、確か4つに区切られていて、入り口の部屋に小西裁判を支援する会と三菱反戦一株運動の事務局が入っていた。右側が印刷機、と言ってもガリ板の輪転機、青焼きのコピーもあったと思う。
奥の二部屋の左が事務局のスペース、右が会議室だったと思う。事務局長は吉川勇一さんで、かなりオシャレな人だったと思う。実は、その後、代ゼミでお世話になった。(英語を教えていた)
ただ、金庫番というか事務局次長というか、確か吉田さんという人が事務を担当していた。ベ平連ニュースの編集が山口文憲さんだったと思うが、僕などとは10歳近く違うので、話した記憶はほとんどない。その他、室謙二さんや吉岡忍さんなどを見かけたが、大人の世界の人たちであまり近くには行かなかった。
僕が所属したというか、一緒に活動したグループが二つあって、一つは相模原補給厰から戦車、正確には装甲兵員輸送車のM113がベトナムに向けて再び運び出されたとき、ベ平連のメンバー4名が飛び出してトレーラーの下に潜って阻止しようとしたことがある。もちろん、現場で逮捕され、威力業務妨害に問われた裁判が始まっていた。その裁判を支える会の事務局として、会報を作ったり、裁判費用を作るためのバザーをしたり、裁判の傍聴なども高校生で体験した。事務局の中心が確か東洋大の純子さんと早稲田の中井?さん、今で言うフリーターのあんちゃん(本名、覚えていないな)、神奈川大の○○さんなどがいた。
被告は4名だったが、インディアンというあだ名のメンバーが未成年のため、3名で行われた。明大の大学院生、ペンギン、クロちゃんの3名だ。クロちゃんこと岡田理さんとはその後も関係があって、彼は僕が韓国に来る2年ほど前に韓国での暮らしを始めていた。僕が日本語教師をしていた頃に会ったのが最後だから、今から10年以上も会っていない。
もうひとつが、純生などと一緒に新宿の歩行者天国でビラを撒いたり、署名を集めたりしたが、あまり覚えていない。
こんな活動を、いわば学校の外でやっていたわけだが、何か物足りない、もっとラジカルな活動をしないと、という考えを持つようになった。その時、考えていたのが、地域の草の根の活動、労働組合運動、障がい者解放運動等の個別課題の活動、そして革命のための前衛党の活動の四つだった。

写真は新宿西口のフォークゲリラ、僕が<覚醒>する前の出来事。

最初の一歩 3

2017-10-15 04:45:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 3>


べ平連、ベトナムに平和を!市民連合が立ち上がったのが1965年のことだから、1972年の暮れから参加した僕などは、若手というか少年べ平連というか、はっきり言って、一番最後をヨチヨチついて行ったようなものだ。
べ平連を最初にキチンと知ったのが、三一新書の「ベ平連」だったと思う。ただ、当時は「朝日ジャーナル」とか「展望」(筑摩書房)、そして泣く子も黙る「世界」等が頑張っていて、読み始めていたと思う。この辺の記憶は曖昧で、もしかするとデモへの参加のほうが先かもしれない。高校生でこんなのを読んでいて、どのくらい理解していたか怪しいが、高校の時に書いた文章を読むと、今とあまり変わっていないので、驚いたことがある。
もう少し前、中学校に壁新聞形式の印刷された写真ニュースが張ってあって、その記事の中には、確かベトナムのソンミ村での虐殺のニュースがあった記憶がある。テレビのニュースでも、北ベトナムへの爆撃などが報道されていたし、ベトナム戦争が身近にあるという感じだった。
だから、<戦争を知らない子供たち>という歌が、タイトルからして嫌いで、日本だけの平和なんてナンセンス、と思っていた。
そんな時代に、高校生2年生で政治活動を始めたわけだ。僕の通っていた新宿高校は、めちゃくちゃ放任主義の学校で、制服は自由だし、連絡なしで欠席してもノータッチという、生徒の自主性に任せたところだった。なので、3年にもなると、週1、2回ぐらい学校が終わってから神楽坂の事務所に通っていた。月1回、ニュースが発行されていたから、ニュースの封筒入れとか、定例デモの準備とか、高校生でもやれる事はいろいろあった。
僕以外にも、高校生や20歳ぐらいの若手の固定メンバーが何人かいた。もう、45年も昔の事だから、分かる範囲で名前(あるいは、呼び名)を書くと、理工系大学の学生の純生、ひとつ年上の成り上がり、同い年は、小林君にゲホ君、フレンド学園の女の子達、エミちゃんだったかな姉妹で来てたっけ、純生の彼女もこの学校、2つぐらい上に、あんちゃん、ナカベ、そうそう、以前韓国にもいたクロちゃんこと、岡田君。
数人から10人ぐらい、若者グループがいた。
今では覚えていないけど、学習会等もやった覚えがある。
当時、神楽坂の事務所では定例会議があったようだが、1、2回しか出た記憶がない。確か大きな国際会議を準備する会議で、この時、小田実(おだまこと)も来ていて、体に似合わない甲高い早口で仕事の分担を指示していた記憶がある。 写真は小田実


最初の一歩 2

2017-10-11 13:05:55 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 2>

話しは今から45年も前の1972年から始まる。その年の夏、相模原補給厰から修理をおえベトナムに送られていた戦車を、横浜市が村雨橋で止め、2日ほど現場で睨みあいを続けたあげく、補給厰に戻るという出来事が起きた。
当時の横浜市長は社会党の飛鳥田一雄、村雨橋は横浜市のもの、戦車を積んだトレーラーが重量オーバーなので、管理責任者として止めた訳だ。米軍の港、ノースピアの入り口にこの橋があるので、他の道や橋は使えないし、国がしゃしゃり出てきても出来る事はない。横浜市長自らベトナム反戦運動を直接行動で示したと言える。
結局、トレーラーは補給厰に戻り、補給厰の前にはベトナムへの戦車搬出を阻止するために泊まり込み用のテント村が出来た。社会党や共産党はもちろん、新左翼の各グループやべ平連などの市民グループまで、10以上(20以上という話も聞いたことがある。正確な情報、お願いします)のテントが並び、"解放区"となった。補給厰の西門から国道16号線に繋がる道路はかなり広く、片側2車線+並木のあるグリーンベルト+1車線という構造だったので、テントを建てるスペースには困らなかった。法的な許可を取っていたのか不明だが、それが可能な世論があり、警察も手が出せない状況だった。
僕は当時、町田に住んでいたので、目と鼻の先の出来事だった。まだ、小田急の新原町田駅と横浜線の原町田駅は離れていて乗換え用の路地があったが、ヘルメットを被った学生等がそこを通ったという話も聞いていた。
政府が法律を改悪し、テント村が撤去され、9月18日の早朝、戦車はベトナムへ送られる事になる。
結局、テント村があった時には相模原に行かず、だいぶたってから現場に何度も行くことになる。
そして、12月、自分で事務所に電話して日時や場所を確認し、北ベトナムへの空爆に抗議するべ平連のデモに参加することなる。今から、45年も前の昔話だ。

#なお、この<最初の一歩>の文章はフェイスブックに載せましたが、検索ができないのブログに再度載せます。皆さんの感想や事実関係の確認、修正をお願いします。

写真は、上が村雨橋で横浜市と組合が戦車の通行を阻止している様子。下が国が法律を改正して戦車が再び送り出される様子


最初の一歩 1

2017-10-11 01:52:53 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩、その1>


日本の政治状況を韓国から眺めると溜め息ばかりです。アベ一族の身勝手な国家運営を黙って見ている一部の国民も問題ですし、憲法改正を阻止する陣営を作るために努力をしない政党にも腹がたちます。
どうして日本という国は、こんなにワガママで情けない国になったのでしょうか?
高校生の時から、ベトナム反戦デモなどに参加して、できる範囲で様々な運動に、時にはのんびりと時にはラジカルに関わってきました。そのなかで、差別は絶対ダメだ、日本は今もアジア各国を侵略し支配しようとしている、アジア各国の人々との友好が大事だ、民主主義を守るために直接行動も必要だ、等の考えを持つようになりました。
ところが、こんな考えがだんだん"絶滅危惧"になっているようです。この流れを変えて、多数派にならないとダメですが、その第一歩として、韓国のキャンドル集会1周年のスタディツアーを企画しました。これから、昔話も含めて、考えていることを皆さん、特に若い人たちに伝えようと思います。

写真は日本大使館前の少女像