1972~3年頃、地域に根ざした運動のなかで、僕が行ったり、チラシ等でどんな運動なのか知っていたものを思い出すと、こんな感じだ。
まず、もののべながおきさん達のちょうちんデモの会、武蔵野で活動していた老舗で、ベ平連ではない、といつも言っていたとべ平連事務局長の吉川勇一は書いている。
次に、小沢遼子で有名だった埼玉ベ平連、たしか事務所は浦和にあったはずだ。
新宿べ平連というのもあって、いつも和服で月例デモに来ていた古屋のおばちゃんという方がいた。とても自由な雰囲気の方で、僕たち若手グループとも自由に話をしてくれて、いろいろ教わった記憶がある。たしか、ヒロシマの原爆をアジア各国がどのように受け止めたのかという視点も大切だということを、古屋のおばちゃんから聞いた覚えがある。
大泉にもベ平連があって、代表は大学の先生だったはずだ。と書いて、調べてみたら、べ平連ではなかった。中心メンバーは和田春樹先生と清水知久先生(日本女子大)なので、この記憶はあっていた。なお、練馬区議の池尻さんが大泉の運動を記録した写真集の紹介をしています。
http://ikejiri.exblog.jp/d2010-11-01/
基地関係では、立川テント村、ヨコスカ市民グループ、横田基地反対の福生市民連合?などがあったが、ベ平連時代に知ったのか、それともそれ以降の活動で知ったのか、記憶があいまいだ。横田基地には80年代以降、何度か言ったことがあり、当時福生市議の遠藤洋一さんの案内で基地を見て、遠藤さんのハウスで昼ご飯をごちそうになったこともあったっけ。
相模原補給廠の反対運動を担っていたのが<ただの市民が戦車を止める会>と<相模原補給廠監視団>。戦車を止める会の梅林さんとは、そのあと、日韓の問題でもいろいろとお世話になった。
このような地域の運動にはすごいなと魅力を感じていたと同時に、僕がその地域に引っ越すわけにもいかないし、と考えていた。
今から考えると、この時代の僕の行動範囲には、地区労とか総評とかの労働組合はほとんどなかった。時々、全国一般南部支部などが来ていたかな?このあたりの記憶は74年以降の金大中救出運動とゴチャゴチャニなっていて、自信がない。市民運動と労働組合運動は、ほとんど接点がなかったという感じだったので、労働組合運動は大切だと頭では考えていたが、当時はきっかけがなかった。まあ、20年ほどあとに、ほんの少し体験することになるのだが。
もう一つ、通っていた新宿高校ではほとんど活動をしなかった。新宿高校は、僕の入学する前はバリケードを作ったりとかして、かなり派手な学園紛争があったところだったし、また定時制には世田谷区長、というより内申書裁判の保坂展人が通っていた。通った当時、71年から74年(だとおもう)には、1年留年した生徒や数人から10人ほどの<活動家ごっこ>をしている生徒がいた。(たしか、社会問題研究会のメンバーだったと思う)新左翼の党派(政治グループ)で言えば、ブンド(共産主義同盟)系列の影響を受けていたようだ。この辺りは、きちんと討論したこともなく、お互いやっているな、という距離感だったので、はっきりとはわからない。唯一の共同行動?が卒業式に校門や会場の体育館に掲げてある日の丸を捨てることで、これは彼らと一緒にやった記憶がある。僕の目から見ると彼らは明るく楽しい<活動家ごっこ>を一時的にやっているとしか見えなくて、当時、ネクラで純粋だった僕には、ついていけない連中だった。
そして、この時期は連合赤軍のリンチ事件や中核と革マルの内ゲバなど、政治をめぐる状況はだんだん悪くなっていた時代だった。市民運動をやりながら、なんであんな事が起きるのだという怒りと疑問があった。そのあたり、どう考えていたのか次に書いてみよう。
写真は、小田実が中心になって発行していた<週刊アンポ>というミニコミ。ここから本文を読むことができます。
http://www.jca.apc.org/…/635ShuukanAmpoZengougaPDFfileApplo…
次が、新宿西口のフォークゲリラ。当時、中学生だったので、参加はしていませんが、ニュースではよく見ました。