1991年1月3日、中国雲南省の梅里雪山に世界初登頂を試みた、京都大学学士山岳会を中心とした日中合同登山隊17人が遭難。
雪崩に巻き込まれた17人は、遺体も発見されることはなかった…。
『神の山を侵した天罰なのか…』 残された者たちの無念。 その17人の亡き友を探し続ける男がいる。小林尚礼(なおゆき) 39歳。
1998年7月、6人の遺体の発見以来、 ここまで16人を探し出し、遺族の元へ送り届けてきた。残りは1人。 そして、地球温暖化が進むいま、遺体は氷河から川へ流れ出そうとしている。 探しだすことができるのは最後のチャンス。だという(日テレ「梅里雪山17人の友を探して」)
■梅里雪山遭難事故 平成3年1月3日、梅里雪山(中国・雲南省、標高6740メートル)への初登頂を目指した日中合同学術登山隊が標高5100メートル地点で消息を絶つ。捜索活動が行われたが、日本人メンバー11人、中国人登山家4人、地元協力員2人はいずれも見つからず、日本の海外登山史上最悪の事故となった。これまでに医師、清水久信さん=当時(36)=を除く16遺体を確認。梅里雪山は今も未踏峰のまま。明永村を含む一帯は15年、世界自然遺産に登録された。
「登山隊との交信が途絶えた」。大学3年生だった小林さんに知らせが届いたのは、正月休みを終えて京都へ戻った直後だった。
梅里雪山の初登頂を目指した登山隊には、京大OBを中心とした日本人11人と中国人登山家らが参加。2年12月に登山を開始したが、翌年の1月3日夜の交信を最後に音信は途絶えた。後の調査で、標高5100メートル地点にキャンプを張っていた登山隊を大規模な雪崩が襲ったと結論付けられた。
日中から救援隊が向かったが、悪天候に阻まれ、約3週間後、誰一人戻らないまま捜索は打ち切られた。
行方不明者の中には、山岳部でともに活動に励んだ同級生、笹倉俊一さん=当時(21)=や、登山の醍醐味(だいごみ)を教えてくれた先輩もいた。捜索打ち切りを告げるため笹倉さんの実家を訪れた小林さんに、両親が明るくふるまいながらも、ぽつりとつぶやいた言葉が忘れられない。
「21年の短い人生でした」
遺体発見の報を受け、小林さんが梅里雪山を訪れたのは、事故から7年後。隊員らをのみ込んだ氷河が長い年月をかけて動き、仲間たちをはき出したのだ。
横たわる仲間を前に出てきた言葉は「よく帰ってきたな」。悲しみよりも、再会した懐かしさのような不思議な感情がこみ上げた。
近くの町で行われた葬儀は悲しみに包まれた。遺族の一人が骨壺をいとおしそうに抱えながら、小林さんに声をかけた。「遭難から7年たって、やっと本当の区切りがつきました」。遺族にとって、遺体が持つ意味の大きさを知った。
小林さんは11年から毎年、梅里雪山の麓(ふもと)の明永(ミンヨン)村に数週間から数カ月間滞在し、遺体を捜索する傍ら、写真を撮って過ごしている。「仲間を家族の元へ連れて帰りたい」という思いからだ。
村での暮らしは、多くのことを教えてくれた。友をのみ込んだ恐ろしい山は、村人が毎朝欠かさず祈りをささげる「聖山」でもあった。「神の存在を信じる人々が、自然の中で生かされている」。「神々しさ」という言葉が適当なのか、いいようのない感動がこみ上げた。
小林さんは、パートナーを引き受けてくれた明永村村長のチャシさんとともに捜索を続ける。集めた遺品は1トンを超えた。10年間の捜索が与えた変化は大きい。「聖山を汚した者」として敵視していた村人との交流も芽生えた。チャシさんの長女、ペマツォモさんは今年から日本に留学している。
一方で、捜索活動の終わりが近いことも感じる。氷河は予想以上のスピードで解け、600メートル近く後退した。遺品が川に流れ込んでいる形跡もある。昨秋には頭蓋骨の一部が見つかり、DNA鑑定中だ。最後の1人と判明するのか、それとも…。
捜索活動は今年で10年目。これまでに16遺体が見つかったが、遭難現場の氷河が解け出し、遺品が川に流出するなど、捜索は年々難しくなっている。「最後の1人もできることなら見つけ出したい」。小林さんは26日から“節目の捜索”に着手する。
「大きな節目は確実に来る。でも、区切りとは言いたくない」
小林さんはこれからも聖なる山を撮り続け、御霊(みたま)と触れ合っていきたいと考えている。
(産経新聞)
梅里雪山(メイリー・シュエシャン)」は、中国南西部にそびえる長さ30kmの山群の総称である。そこには6,000メートル以上の頂が6つ,1年中雪におおわれる頂が20以上ある。山群の最高峰(6,740メートル)は,チベット語で「カワカブ(白い雪)」とよばれている。 梅里雪山は、チベット自治区・四川省・雲南省にまたがる「横断山脈」の怒山山系に属する。 梅里雪山の周辺では,金沙江(長江の上流)・瀾滄江(メコン川の上流)・怒江(サルウィン川の上流)の3つの大河が、わずか70kmから100kmの幅で並行して流れ,「三江併流」とよばれる大峡谷地帯を形成している。急流によって浸食されたその山容は険しく、またインド洋から吹くモンスーンの影響のため、一年中多量の雪を頂いている。2003年には、この一帯が「三江併流」という名の世界自然遺産に登録された。 梅里雪山には、青いケシや200種以上のシャクナゲ・ツツジ類をはじめとする多様な高山植物が生息している。梅里雪山の存在は、1913年に英国のプラントハンターのキングドン・ウォードが著した「青いケシの国」によって広く紹介された。
(小林尚礼 Home Pageより)
『神の山を侵した天罰なのか…』 残された者たちの無念。 その17人の亡き友を探し続ける男がいる。小林尚礼(なおゆき) 39歳。
1998年7月、6人の遺体の発見以来、 ここまで16人を探し出し、遺族の元へ送り届けてきた。残りは1人。 そして、地球温暖化が進むいま、遺体は氷河から川へ流れ出そうとしている。 探しだすことができるのは最後のチャンス。だという(日テレ「梅里雪山17人の友を探して」)
■梅里雪山遭難事故 平成3年1月3日、梅里雪山(中国・雲南省、標高6740メートル)への初登頂を目指した日中合同学術登山隊が標高5100メートル地点で消息を絶つ。捜索活動が行われたが、日本人メンバー11人、中国人登山家4人、地元協力員2人はいずれも見つからず、日本の海外登山史上最悪の事故となった。これまでに医師、清水久信さん=当時(36)=を除く16遺体を確認。梅里雪山は今も未踏峰のまま。明永村を含む一帯は15年、世界自然遺産に登録された。
「登山隊との交信が途絶えた」。大学3年生だった小林さんに知らせが届いたのは、正月休みを終えて京都へ戻った直後だった。
梅里雪山の初登頂を目指した登山隊には、京大OBを中心とした日本人11人と中国人登山家らが参加。2年12月に登山を開始したが、翌年の1月3日夜の交信を最後に音信は途絶えた。後の調査で、標高5100メートル地点にキャンプを張っていた登山隊を大規模な雪崩が襲ったと結論付けられた。
日中から救援隊が向かったが、悪天候に阻まれ、約3週間後、誰一人戻らないまま捜索は打ち切られた。
行方不明者の中には、山岳部でともに活動に励んだ同級生、笹倉俊一さん=当時(21)=や、登山の醍醐味(だいごみ)を教えてくれた先輩もいた。捜索打ち切りを告げるため笹倉さんの実家を訪れた小林さんに、両親が明るくふるまいながらも、ぽつりとつぶやいた言葉が忘れられない。
「21年の短い人生でした」
遺体発見の報を受け、小林さんが梅里雪山を訪れたのは、事故から7年後。隊員らをのみ込んだ氷河が長い年月をかけて動き、仲間たちをはき出したのだ。
横たわる仲間を前に出てきた言葉は「よく帰ってきたな」。悲しみよりも、再会した懐かしさのような不思議な感情がこみ上げた。
近くの町で行われた葬儀は悲しみに包まれた。遺族の一人が骨壺をいとおしそうに抱えながら、小林さんに声をかけた。「遭難から7年たって、やっと本当の区切りがつきました」。遺族にとって、遺体が持つ意味の大きさを知った。
小林さんは11年から毎年、梅里雪山の麓(ふもと)の明永(ミンヨン)村に数週間から数カ月間滞在し、遺体を捜索する傍ら、写真を撮って過ごしている。「仲間を家族の元へ連れて帰りたい」という思いからだ。
村での暮らしは、多くのことを教えてくれた。友をのみ込んだ恐ろしい山は、村人が毎朝欠かさず祈りをささげる「聖山」でもあった。「神の存在を信じる人々が、自然の中で生かされている」。「神々しさ」という言葉が適当なのか、いいようのない感動がこみ上げた。
小林さんは、パートナーを引き受けてくれた明永村村長のチャシさんとともに捜索を続ける。集めた遺品は1トンを超えた。10年間の捜索が与えた変化は大きい。「聖山を汚した者」として敵視していた村人との交流も芽生えた。チャシさんの長女、ペマツォモさんは今年から日本に留学している。
一方で、捜索活動の終わりが近いことも感じる。氷河は予想以上のスピードで解け、600メートル近く後退した。遺品が川に流れ込んでいる形跡もある。昨秋には頭蓋骨の一部が見つかり、DNA鑑定中だ。最後の1人と判明するのか、それとも…。
捜索活動は今年で10年目。これまでに16遺体が見つかったが、遭難現場の氷河が解け出し、遺品が川に流出するなど、捜索は年々難しくなっている。「最後の1人もできることなら見つけ出したい」。小林さんは26日から“節目の捜索”に着手する。
「大きな節目は確実に来る。でも、区切りとは言いたくない」
小林さんはこれからも聖なる山を撮り続け、御霊(みたま)と触れ合っていきたいと考えている。
(産経新聞)
梅里雪山(メイリー・シュエシャン)」は、中国南西部にそびえる長さ30kmの山群の総称である。そこには6,000メートル以上の頂が6つ,1年中雪におおわれる頂が20以上ある。山群の最高峰(6,740メートル)は,チベット語で「カワカブ(白い雪)」とよばれている。 梅里雪山は、チベット自治区・四川省・雲南省にまたがる「横断山脈」の怒山山系に属する。 梅里雪山の周辺では,金沙江(長江の上流)・瀾滄江(メコン川の上流)・怒江(サルウィン川の上流)の3つの大河が、わずか70kmから100kmの幅で並行して流れ,「三江併流」とよばれる大峡谷地帯を形成している。急流によって浸食されたその山容は険しく、またインド洋から吹くモンスーンの影響のため、一年中多量の雪を頂いている。2003年には、この一帯が「三江併流」という名の世界自然遺産に登録された。 梅里雪山には、青いケシや200種以上のシャクナゲ・ツツジ類をはじめとする多様な高山植物が生息している。梅里雪山の存在は、1913年に英国のプラントハンターのキングドン・ウォードが著した「青いケシの国」によって広く紹介された。
(小林尚礼 Home Pageより)