5夜
大島復興計画から40年後の町を確かめたくて、現地に立った。海から吉谷神社まで都電の廃材を敷いた御影石の参道。野増の出張所と灯台。差木地の小学校。その他椿の街路枡や中学校などの幾つかを見ることが出来た。でも、島らしからぬスケールアウトした元町の風景にがっかりしたという印象の方が強い。
今回大島をブログに書いたことから、地元中学校の先生からコメントとメールをいただいた。(先生、ありがとうございます)そこでは20年にわたって地域教育がなされていること、今年は3学年39人全9班が60時間をかけて自分の町の再開発計画を調査研究したこと、そこで吉阪研究室の復興計画が取り上げられていること、そして子供たちなりの提案を考えるときに柱としたのが「今の風情を残す」「住民の暮らしやすさを最優先する」 ということだったこと等を教えていただいた。その一方、少子化問題や観光業の衰退という現実、無味乾燥な町になっていることへの危惧などのお話もいただいた。70年代以降に壊された日本の典型がそこにもある。
しかしどんな状況(大火で町のほとんどを失った時もそうだった)であろうと、夢を描くことがどんなに大切か、時にはそれがおむすびよりも大切であることを、40年前の吉阪隆正氏から学びたいと思うのです。このばかばかしいくらいに大きな気持ちを。
自然はここに年間3000ミリの水を与えてくれている。
1000ミリが蒸発しても2000ミリ残る。
水は地下ばかりでなく大気の中にもあるのだ。
この大気の中の水をつかまえる三葉虫、
生物が生きはじめた初源をつくろう。
村ごとに競ってデッカイ奴を作るがよい。
その村がまず栄えるだろう。
これは聖なる仕事だ。
全員でかかれ。
難しい工事じゃない。
何千年前の人たちの知恵なのだ。
頭の山は湿気を、
ひろげた両翼は降る雨をとらえて池にためる。
山上にためた水は、村まで下る間に発電もできる。
灌漑にも使える。
だが池の形がかわったら、水を節約すべき時と思え。
吉阪隆正『水取山計画』(第一次報告書1965年9~11月)
大島復興計画から40年後の町を確かめたくて、現地に立った。海から吉谷神社まで都電の廃材を敷いた御影石の参道。野増の出張所と灯台。差木地の小学校。その他椿の街路枡や中学校などの幾つかを見ることが出来た。でも、島らしからぬスケールアウトした元町の風景にがっかりしたという印象の方が強い。
今回大島をブログに書いたことから、地元中学校の先生からコメントとメールをいただいた。(先生、ありがとうございます)そこでは20年にわたって地域教育がなされていること、今年は3学年39人全9班が60時間をかけて自分の町の再開発計画を調査研究したこと、そこで吉阪研究室の復興計画が取り上げられていること、そして子供たちなりの提案を考えるときに柱としたのが「今の風情を残す」「住民の暮らしやすさを最優先する」 ということだったこと等を教えていただいた。その一方、少子化問題や観光業の衰退という現実、無味乾燥な町になっていることへの危惧などのお話もいただいた。70年代以降に壊された日本の典型がそこにもある。
しかしどんな状況(大火で町のほとんどを失った時もそうだった)であろうと、夢を描くことがどんなに大切か、時にはそれがおむすびよりも大切であることを、40年前の吉阪隆正氏から学びたいと思うのです。このばかばかしいくらいに大きな気持ちを。
自然はここに年間3000ミリの水を与えてくれている。
1000ミリが蒸発しても2000ミリ残る。
水は地下ばかりでなく大気の中にもあるのだ。
この大気の中の水をつかまえる三葉虫、
生物が生きはじめた初源をつくろう。
村ごとに競ってデッカイ奴を作るがよい。
その村がまず栄えるだろう。
これは聖なる仕事だ。
全員でかかれ。
難しい工事じゃない。
何千年前の人たちの知恵なのだ。
頭の山は湿気を、
ひろげた両翼は降る雨をとらえて池にためる。
山上にためた水は、村まで下る間に発電もできる。
灌漑にも使える。
だが池の形がかわったら、水を節約すべき時と思え。
吉阪隆正『水取山計画』(第一次報告書1965年9~11月)