かめ設計室*3丁目通信

2005年4月より、西新宿にて一級建築士事務所かめ設計室がはじまりました。3丁目からのかめバー通信。

アルピニストと建築家

2007年12月07日 | トータル アーキテクト
 行こう 戻ろか 南陵のテラス
 戻りゃ 俺らの心がすたる
 行けば あの娘が涙を流す
 ここが男の辛いとこ

 「アルピニストとは、登山という領域の中で自己を高める、向上心を持つ人だ。とにかく山に登りさえすればいいというものではないのだ。」アルピニスト長谷川恒男さんは言う。アルピニストでもアルピニズムでもその定義が、たぶん人それぞれに違うのだろう。

 山へ行かずに 私といてと
 泣いて あの娘が止めている

 建築家の間では、建築と建物という言葉はどこかで使い分けがなされている。建築は建物より、より純粋な何かを含んでいるところがあるのだろう。
あなたは建築家か?」「住宅は建築か?」議論はわかれるところ。定義よりは精神を問うている。
「建築家とは、建築という領域の中で自己を高める、向上心を持つ人だ。とにかく建物を建てさえすればいいというものではないのだ。」

 だけど俺らは山、山、山
 アルピニストの名がすたる

[かめ設計室]HP

世間の事情・建築基準法施行規則の見直し

2007年11月17日 | トータル アーキテクト
 建築確認申請が滞っているというニュースがようやく新聞テレビで報道されるようになった。発端となる建築基準法改正は6月だから、世間に広まるまで4~5ヶ月かかっている。これは早いのか遅いのか、世の中のことはよくわからない。
 住宅やマンション着工数が減少し、国内総生産を押し下げているとなれば、国交省もようやく重い腰を少しあげたようだ。11月14日付けで建築基準法施行規則の見直しの公布・施行~を発表した。

 内容は次のふたつ。
1 ) 確認申請の際に必要になっていた構造方法や材料等に係る大臣認定書の写し(膨大なコピー)の添付が基本的に不要になったこと
2 )構造安全性、防火・避難性能に関わらない間仕切りや開口部の変更は「軽微な変更」として扱い、計画の変更に係る確認申請が不要になったこと

 理念なきこの国に、振り回されずに、生きていく道は、針の穴より狭い。その狭い針の穴のこちらもあちらも変わらない世の中だから、そんな穴なら目がけずに、悠々と針の上を渡って進みたい。

[かめ設計室]HP

ときどきパンクするあたま

2006年09月14日 | トータル アーキテクト
 基本設計やコンペ等をやっている時と、実施設計をやっている時と、現場をかかえている時と、それぞれ頭の使い方が違う。例えば,基本設計の頃は本がすごく読みたくなるのに,実施設計に集中している時は時間があってもあまり本が読めず、文字は流れてしまう。
 大きなコンセプトづくりから始まって、S=1:500、1:200、1:100、1:50、1:20、1:10、そして現場は1:1。よく頭がスケールについていけるもんだ。「基本設計、実施設計、現場監理」は、音楽で例えるなら「曲づくり、レコーディング、ライブツアー」くらい違う。ライブになれば、できた曲はあれど場所や客によって演奏はみな違う。実施設計もそのまま現場で変らないということは絶対にない。現場は大勢の職人との共同作業、理念より直感が、論理より仁義が優先したりもする。
 頭の使い方に違いがあるという言い方をしたが、本当のところはそんなことではいけない。もっと自由自在にならないといけない。アイデア丸出しも見ていられないが、技術に遊ばれても意味がない。走り込みが足りない。

9.11・・・。

2006年09月12日 | トータル アーキテクト
 9.11。テロ、戦争、テロ。相変わらずアメリカの中東政策は破綻している。それはイギリスのインド統治とも重なるが、中東には民主主義よりも大切なものがある。人の価値観に他人が優劣をつけることに無理がある。
 大工と設計者の価値観はやはり違う。(設計者間の価値観の差の方が大きい気もするが・・さて)大工には、蓄積された技術への信頼と自信があり、地域に伝わる伝統がある。保守的になりやすいことは否めない。かわりに設計者はあらゆるものからの自由を求めたがる。
 価値観の違うもの同士が共に、いい建物をつくるにはどうしたらいいか、現場に携わっていると、宗教も習慣もちがう国家間のなんだかんだに重なる教訓があるように思う。
 異なる価値観が正面からぶつかっても、相手を否定するだけで解決の道は遠い。大工と設計屋は、論争はしても戦争にはならないのは、ものを造り上げるという同じ目標をもっているから。ただしこれに金欲が加わると、現場は大抵うまくいかない。
 自国の利益以外に目標はないものだろうか・・・と憂いてばかりの9月。

橋はなぜ落ちたのか 付録

2006年06月11日 | トータル アーキテクト
 新しい空間、新しい構造、新しい提案、新しいコンセプト。
 新しい、という言葉にそれほどとらわれない方がいい。
 新しい○○というのに限って、もう古い。
 橋はなぜ落ちたのか 前編で取り上げた図に、日本語訳をつけてくれているものがありました。面白いので日本語版で再び掲載させてもらいます。
 →参照ITプロジェクトの実態とは!

自画像と自邸

2006年06月09日 | トータル アーキテクト
画家はなぜ自分を描くんだろう?

たいがいの画家は自画像を描く。
それも若い時、中年、晩年と三度描く。
若い時は自分を格好よく描き、
中年の頃は自分のありのままを描き、
晩年は自分の中身を描く。
と言った人がいる。

建築家ならば自邸を建てる。
名作と言われている住宅の多くは自邸だろう。
他人の言うことを聞いていては名作は出来ないのだろうか。
だとしたら建築家は勘違いされても仕方がない。
他人の家をいいものにしたい。
ありのままを、暮らしの中身を描きたい。
自邸を建てる甲斐性のないかわりに・・・がんばろっと。

橋はなぜ落ちたのか 後編

2006年06月01日 | トータル アーキテクト
 ヘンリー・ペトロフスキー著『橋はなぜ落ちたのか 』の中に、ある科学者の分析を紹介している。
 大きな崩壊に至った橋と場所、年、その構造を記したものだ。
 ディー橋(イングランド)1847 トラス桁
 ティ橋(スコットランド)1879 トラス
 ケベック橋(カナダ)  1907 片持ち梁
 タコマ海峡橋(アメリカ)1940 吊り
 ミルフォード港橋(ウェールズ)1970 箱形桁
  「シブリーとウォーカーのパターンからの推定」

 驚く事にほぼ30年周期で大きな橋梁事故が発生している。そしてその場所も構造も皆違うという。単なる偶然とやり過ごす事もできるが、著者はこの事実を設計者への教訓として啓示する。
 「失敗の回避ではなく、成功のモデルに基礎を置いたことが大きな事故を招く」のだと著者は言う。失敗のない--過去の成功モデルは、設計が完全であることを証明しない。これは肝に銘じておいてもいい。
 設計者はもっと軽く!もっと経済的に!もっと格好よく!もっと!もっと!という宿命を背負ってしまう。
 流行建築のディテールを矢継ぎ早に真似ていないか。僕たちの建築は大丈夫か。
 目に見えないままにミスは蓄積していってはいないか。 

橋はなぜ落ちたのか 前編

2006年05月30日 | トータル アーキテクト
 建築模型の初心者に多いが、ある棒と同じ長さの棒を10本切り出す場合、いま切った棒をあてて次の棒を切るということを続ければ次第に誤差が出てきてしまう。そうならないように最初の棒を定規にすればいい。少しのミスも見逃しているうちにとんでもなく異なった結果として表れてしまう。伝言ゲームと同じ理屈だ。
 棒を切り出すくらいならすぐに気がつくが、関わる人が多ければ多いほどミスは知らぬ間に増大する。挿絵は「Typical Project Life(典型的なプロジェクトの一生)」と題されている。クライアントは右下のようなモノを望んだのにそうならなかったという笑えない笑い話。
 こういうことは社会の中にもいっぱい潜んでいるが、このミスコミュニケーションが人命に関わる事になったなら。設計者はいつもそういうきわどい立場に立たされている。

楽観と悲観

2006年05月22日 | トータル アーキテクト
 碁には楽観派と悲観派がある。
 形勢判断においてである。
 悲観派は概して長考派が多い。
 自分が劣勢だと思うから、
 最善手を求めて長考してしまう。
 また妥協する事がない。
 常にいっぱいの手を選ぶ。
      (藤沢秀行)

 碁は建築と似たところがあるようです。
 僕らは、生活では楽観派、仕事では悲観派かな。
 先立つものも何もない暮らしに焦ることはないかわりに、仕事はああでもないこうでもないと長考に入っていく。

月に吠える

2006年04月28日 | トータル アーキテクト
 構造偽造問題と現代の建築事情を的確に言い当てた次のような言説を紹介します。驚くべき事にこれは、76年前の1930年に発表されたものです。「建築事務所がみずからの存在理由を否定するかのような方向に進んでいる」事を前置きして、こう分析しています。

1 構造強度計算の単純化ならびに標準化。
特に専門的な知識を必要としないほど、鉄筋・鉄骨の強度計算が容易に習得できるようになってきた。これは事務所の営業項目のうちの重要な一つを消失させるだろう。

2 一般工業界の建築材料への着目。
  能率の良い建築部材の発明および大量生産。
今日までの建築設計者は、建築材料の使用について指導的立場を保っていた。ことに仕上材料については、建築家の工夫・選択によって製造・製作されていた。しかし現在このような建築家の地位と職能は、すべて材料生産者の握るところとなった。

3 建築の合理化、建築各部の定型化。
従来の「様式建築」の場合のように、建築家は装飾やディテールに苦心を払う必要がなくなった。建築家の仕事は、プランニングとせいぜい百分の一のエレベーションをひくだけで全て事足りる事になるであろう。
(新名種夫『建築事務所は何処へ行く』1930年)

 1は姉歯問題を、2はカタログ建築を、3は建築家のイマジネーションがプランとファサードにしか向かわなくなる事を。3に至っては、nLDKという概念すらない戦前における予言ですから驚くばかりです。現代の建築界が抱える病理はこれほどに根が深いということでしょうか。

建築の作法

2006年03月07日 | トータル アーキテクト
 メーカーとゼネコンの技術力と情報力が日本の建築界を支えているという図式と常識にはあまり縁がない。建築界の周縁で僕たちが関わってきた仕事のほとんどは、地元工務店と地元大工だ。ここには昔ながらの木造在来が根強い。といいたいところだが、そうでもない。プレカットと金物が広まってからは、都会に媚びた地方都市の国道沿いの陳腐な風景のように、大工の腕は活かされないまま急速に退行している。次世代への技術伝承が途絶えてしまったというべきかもしれない。信頼のおける大工はもちろんいるし、設計者の怠慢や倫理の欠如、下らない建築法規など、大工ばかりの責任ではない。ただ崩れていく建築の作法を目の前に苛立つばかりでも仕方がない。
 これまで全国各地で仕事をする機会が多かった。そのたび初顔合わせの土地と職人を相手に仕事をすることになる。様々な土地と人間に出会える事はとても貴重な体験である。その反面、土地を知り尽くすまでにも至らず、気心の知れた関係でお互いの技術がストックされていく喜びも体験がない。いつも職人たちとは行き当たりの探り合いになる。実はそのスリリングを楽しんでいるところがあるかもしれない。結局、建築は図面を引いているだけではすまないし、人としての器みたいなところが試されているような気がして、その度身にしみる。
 建築の作法といいながら、結局は人格かと言ってしまっては元も子もない。

建築家の気質

2005年12月21日 | トータル アーキテクト
 『五重塔』という小説が幸田露伴によって明治中期に書かれている。江戸は谷中感応寺五重塔の建設を巡る話になる。技量はありながらも世渡りが下手で「のっそり」とあだ名される大工十兵衛。こののっそりが実に面白い。今の言葉で言えば、すべて逆、逆の行動をとっていく。

 塔建設の噂を聞くや、親方源太をさしおいて上人様(施主)に我こそはと模型を作り直談判する。義理と人情の江戸っ子として描かれる親方源太は一緒にやろうと弟子を気遣うが、のっそりは一人じゃなきゃ意味が無いと断ってしまう。上人様の理解あって、源太は裏方にまわりのっそりを支えることになる。ところが棟梁となったのっそりはこの源太のフォローさえも、余計な気遣いはいらぬと拒否してしまう。
 完成した五重塔に猛烈な台風が襲う。上人様の使いがのっそりを呼び出すが、見に行くまでもない、釘一本抜ける事はないとまたも拒否。そんなのっそりの貧乏家屋は屋根も半分吹き飛んでいるというのに。少しでも壊れようものなら自ら死を覚悟している迫力であった。

 文学的価値には門外漢だが、リズム感あふれる文体がまたいい。名誉欲や金銭欲よりも創作欲が勝っているところもいい。やりたいと思ったらここまでやらなきゃと尻を叩かれる。

建築家の職能 

2005年12月14日 | トータル アーキテクト
 国会証人喚問を見た。建築家に職能はあるのだろうか?
 建築家探しの旅にでる。ドイツの建築家ブルーノタウトは、著書『日本美の再発見』(1939年)の中で、桂離宮を造営した小堀遠州(諸説あり)を次のように讃えている。
 小堀遠州は、あらかじめ三個の条件を提出してその承認を求めた。
 これは現代の建築家にはまるで夢のような話である。
 その条件の
 第一は「ご費用お構いなきこと」、
 第二は「ご催促なきこと」、
 第三は「ご助言なきこと」、
 というのである。
 彼は最高の単純を成就するには、多くの労力と時間を要することを知っていた。そこで多大な時間を必要とする多くの試みを意のままに行う自由をまず確保しようとした。つまり、彼は自分自身に課した任務を達成するためにこの自由を必修としたのである。
 建築家としての極端な美談ではあるし、一般の方には誤解があるかもしれない。しかしこのような凛とした態度と熱意は失いたくない。

建築家の役割 

2005年12月03日 | トータル アーキテクト
 ややため息まじりで書いている。建築家の立場は地に落ちた。と言えば他人事のような態度だが、現実を直視したい。経済市場主義に浸るなら当然の結果だ。構造偽造問題を持ち出すまでもなく、汐留や品川駅周辺の風景を見れば明らかだろう。経済論理のみでシュミレートされた高層建築と、その排泄物のような公開空地はどちらも愛情のかけらも感じない。
 なんと!ここ3丁目に、51階建て180mのマンション建設計画が立ち上がった。そして住民説明会は行われた。罵声が飛び交う中、淡々と説明がなされていく。説明する側とされる側のどちらの気持ちも察することは出来る。でもやっぱり、51階のマンションを建てる者の気持ちは到底理解できない。「なぜ51階なの?」この素朴な住民の質問に納得させる説明は最後までなかった。
 「役職を名乗れ!」「聞こえん!」「それでもプロか!」こんなヤジや怒りが不動産屋と設計者に浴びせられた。浴びせられた側は、どちらも日本最大級の組織会社である。医者や弁護士同様、先生と呼ばれた建築家の立場はどこへいったのだろうか。
 しばらくは、建築家を探す旅にでも出よう。