かめ設計室*3丁目通信

2005年4月より、西新宿にて一級建築士事務所かめ設計室がはじまりました。3丁目からのかめバー通信。

一重の椿/大島編

2006年11月29日 | 空間に恋して
最終夜
 大島の椿は八重でなく一重で咲く。
 焼き鳥屋にひとり酔った女が入ってくる。「アンコ椿は恋の花」を歌っている。「こんなおばちゃんでも恋はするのよ」と照れ笑い。「私の恋は大島の椿と同じ、一重なの、ただひとえ。」と女は言った。「三原山から 吹き出す煙り 北へなびけば 思い出す」という歌詞の北は、東京のことをさしているのよと女は教えてくれた。こんな内容の中上健次の短いエッセイを思い出していた。
 東京へ帰るため元町港に向かうと、船は元町港ではなく岡田港から出港するのだと知らされた。仕方なく、大島の北岸にあたる岡田港へとバスで回ることになった。連絡船は行きも帰りもこんな具合。天候の具合で海ではよくあることだ。まだ島らしさの残った岡田を後にしてようやく年の暮れの帰路についた。三日遅れの便りをのせて。

 三日おくれの 便りをのせて
 船が行く行く 波浮港
 いくら好きでも あなたは遠い
 波の彼方へ いったきり
  (1964年 都はるみ) 

大島から/大島編

2006年11月27日 | 空間に恋して
5夜
 大島復興計画から40年後の町を確かめたくて、現地に立った。海から吉谷神社まで都電の廃材を敷いた御影石の参道。野増の出張所と灯台。差木地の小学校。その他椿の街路枡や中学校などの幾つかを見ることが出来た。でも、島らしからぬスケールアウトした元町の風景にがっかりしたという印象の方が強い。

 今回大島をブログに書いたことから、地元中学校の先生からコメントとメールをいただいた。(先生、ありがとうございます)そこでは20年にわたって地域教育がなされていること、今年は3学年39人全9班が60時間をかけて自分の町の再開発計画を調査研究したこと、そこで吉阪研究室の復興計画が取り上げられていること、そして子供たちなりの提案を考えるときに柱としたのが「今の風情を残す」「住民の暮らしやすさを最優先する」 ということだったこと等を教えていただいた。その一方、少子化問題や観光業の衰退という現実、無味乾燥な町になっていることへの危惧などのお話もいただいた。70年代以降に壊された日本の典型がそこにもある。

 しかしどんな状況(大火で町のほとんどを失った時もそうだった)であろうと、夢を描くことがどんなに大切か、時にはそれがおむすびよりも大切であることを、40年前の吉阪隆正氏から学びたいと思うのです。このばかばかしいくらいに大きな気持ちを。

 自然はここに年間3000ミリの水を与えてくれている。
 1000ミリが蒸発しても2000ミリ残る。
 水は地下ばかりでなく大気の中にもあるのだ。
 この大気の中の水をつかまえる三葉虫、
 生物が生きはじめた初源をつくろう。
 村ごとに競ってデッカイ奴を作るがよい。
 その村がまず栄えるだろう。
 これは聖なる仕事だ。
 全員でかかれ。
 難しい工事じゃない。
 何千年前の人たちの知恵なのだ。
 頭の山は湿気を、
 ひろげた両翼は降る雨をとらえて池にためる。
 山上にためた水は、村まで下る間に発電もできる。
 灌漑にも使える。
 だが池の形がかわったら、水を節約すべき時と思え。
 吉阪隆正『水取山計画』(第一次報告書1965年9~11月)

熱海から/大島編

2006年11月25日 | 空間に恋して
4夜
 3年前の年の暮れに一度だけ伊豆大島へ渡ったことがある。
 12月29日、東京から乗った船がシケのため元町港につけず、引き返してしまった。翌日着くには熱海から出る連絡船に乗れと言う。特に急いでいた訳でもないが、熱海もいいかという思いもあり、そうすることにした。翌朝の出航を待って熱海に泊まる。突然の宿泊なので夕食は外食となった。
 ふらりと入った店のカウンターで、訳ありのカップルと並んだ。年も押し迫った12月29日、熱海、小料理屋、不倫カップル、そして海はシケ。場面は整っていた。何がキッカケだったか意気投合し、そのままスナックへ行った記憶まではある。この旅の後、女は男と別れ、故郷青森に帰ったと知らせがあった。青森で小さな飲み屋を出したいからアルバイトを始めたのだと元気に話してくれた。そろそろ、青森に行くのもいいかなと時々この夜を思い出す。
 翌朝、港近くの喫茶店で朝食をとった後、熱海を出た連絡船はようやく大島元町港に着いた。

涙の連絡船/大島編

2006年10月30日 | 空間に恋して
3夜
 住民グループと関わる中で、町から正式に復興計画を委託される事となった。東京都が進める区画整理事業計画の中で出来る事は限られていたが、この後実現する事となったコミュニティ道路などの幾つかは今も姿をとどめている。
 大島復興計画には、宝箱のようにエッセンスがつまっている。「地域資源」「自力建設」「水取山」「発見的方法」、その後の象設計集団へと受け継がれたフィールドに向かう姿勢、場所の発見。大島の経験を原点として、象設計集団は沖縄、台湾、十勝とその後フィールドを広げていった。そして同じく大島を原点として、漁村研究に生涯を尽くされた地井先生がこの6月に亡くなられたことを知った。
 実は大島大火のひと月前、都はるみは新曲を発表している。地井先生に捧げる「涙の連絡船」。

 いつも群れ飛ぶ かもめさえ
 とうに忘れた 恋なのに
 今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が
 独りぼっちで 泣いている
 忘れられない 私がばかね
 連絡船の 着く港
 (1965年 都はるみ)

続アンコ椿は恋の花/大島編

2006年10月29日 | 空間に恋して
2夜
 舞台は波浮行きの連絡船。船内では、前年に大ヒットした都はるみの「アンコ椿は恋の花」がきっと流れていたはずだ。流れていた事にしよう。現実を暗示している訳ではないのだが・・・時代はいつでもドラマティックだ。
 青図を持たされた青年は当時まだ20代の樋口さんと渡部さん(だったと聞いている)。住民組織や町、都関係者に復興計画を投げかけた。「焼け野原の中でみんなおにぎりの方がありがたいだろうに、どうして青図なのか。納得するまでに20年くらいかかったよ」と樋口さんが話してくれた。

 三原山から 吹き出す煙
 北へなびけば 思いだす
 惚れちゃならない 都の人に
 よせる思いが 灯ともえて
 あんこ椿は あんこ椿は
 あ・・・・あ すすり泣き
    (1964年 都はるみ)

 大島元町を焼いたのは、恋の炎か、寝たばこか。

アンコ椿は恋の花/大島編

2006年10月28日 | 空間に恋して
 コメントしづらい記事ばかり、これまでに200以上書いた。もう飽きたとも言えるし、何も書いていない気もする。読者を想定せずに、懲りずに書いておきたいことがある。空間に恋してシリーズ、3夜連続ではじまり。

1夜
 「フィールドを持つ」。計画者にとってこれは重要だ。
 この思いは、吉阪隆正を中心とした(吉阪研究室、産専、U研究室他)伊豆大島での活動を知ってからだ。「ユートピアの不可能性を自覚しながら理想の存在を忘れない人たちがいる」というスーザン・ソンタグの言葉の通りかあるいは、大島で描かれた計画はユートピアだったかもしれないとさへ思う。

 昭和40年1月の大火から始まる大島復興計画のことである。1月11日午後11時10分、煙草の不始末から広がった火災で元町中心地はほぼ焼失した。(参照:東京都大島町公式サイト【大島小史】)翌日に吉阪を中心に一気に描き上げられた元町復興計画の青図は、そのまま現地へ持ち込むこととなった。まだ食料さえ満足いかない状況のその火中へと。

 三日おくれの 便りをのせて
 船が行く行く 波浮港
 いくら好きでも あなたは遠い
 波の彼方へ いったきり
 あんこ便りは あんこ便りは
 あ・・・・あ 片便り
  (1964年 都はるみ)