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明月院

 『明月院』は、鎌倉市内に無数ある寺院のなかでも、まさに鎌倉を代表する寺院といえます。
 別名「あじさい寺」と呼ばれ、あじさいの時期である6月中~下旬にかけては、とても多くの観光客で賑わいます。
 創建は、1160年で、開基は、「山ノ内首藤經俊」となり、平治の乱の際、源義朝に味方をして戦死した父・俊道の菩提を弔って建立した「明月庵」が始まりとされています。
 その後、鎌倉幕府第5代執権「北条時頼」が、この地に「最明寺」を建立しますが、時頼死後、廃寺となっていたのを、時頼の息子「北条時宗」が開山として「蘭渓道隆」を迎えて再建し、「禅興寺」となります。「明月院」は、この「禅興寺」の塔頭の一院となりますが、明治元年、「禅興寺」が廃寺となった際に、「明月院」のみ残り、現在に至ります。


「明月院」・・・あじさいの時期、境内の至る所で、見事なあじさいを観ることができます。






ガクアジサイも見事です。



「明月院やぐら」・・・この写真ではわかりにくいのですが、壁面には釈迦如来、多宝如来が彫られた磨崖仏が見られます。ちなみにこの宝篋印塔は、「上杉憲方」のものと云われています。



 「上杉憲方(1335~1394)」・・・関東管領として、鎌倉公方「足利氏満」をよく補佐し、小山義政の反乱を鎮圧したりします。憲方は、「密室守厳禅師」を迎え、明月院を再建中興し、その寺域を拡大します。法号は「明月院天樹道合」といいます。
 ちなみに「上杉憲方」の墓と伝えられているものは、極楽寺坂にもあります。



「北条時頼の墓」



「北条時頼(1227~1263)」は、鎌倉幕府第四代執権の兄・「北条経時」の弟となります。兄・経時がわずか、23歳で亡くなったのを受け、第五代の執権となりますが、執権となるやいなや、優れた指導力を示し、「宮騒動」や「宝治合戦」の難局を乗り越えます。また、京都大番役の任期を6ヶ月から3ヶ月に短縮し、御家人の負担軽減や、裁判の迅速化を図り、引付衆を設け、訴訟制度の改革を図ったり、また、薪や炭の公定価格を決定したりと、その治世は善政を敷いた名君として知られています。
 信仰心が篤く、また倹約家で知られ、酒の肴に台所にあった味噌を舐めて酒を飲んでいたという話もありますが、「徒然草」には、北条時頼が、鶴岡八幡宮にお参りした後、足利義氏の屋敷に寄り、「毎年、いただく足利地方の染物が待ち遠しいです。」とお土産を催促したという話が載っており、何だかちょっと親近感を感じてしまいますね^^
 

「行き方」
JR横須賀線「北鎌倉駅」から徒歩10分位
①臨時改札口から鎌倉方面に、横須賀線沿いに進みます。
②橋を越え左折したら、真っ直ぐに進んだ突き当たりになります。


①JR北鎌倉駅臨時改札口


②橋を越えたら左折です。案内もあり行き易いです。



『明月院』
住所:鎌倉市山ノ内189
電話:0467(24)3437
拝観時間:9:00~16:00(6月以外)
        8:30~17:00(6月のみ)
拝観料:300円(6月以外)
      500円(6月のみ)
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和賀江嶋(続編)

 既に『和賀江嶋』については、当ブログにてご紹介した所ですが、潮位が低い時の写真を撮ってみましたので、ご紹介します。



確か・・・潮位は23センチ・・・だった様な気が・・・
なにせ正直な話、もう何ヶ月も前に撮りに行ったものなので、あまり覚えていないのです(>_<)



潮位が高い時の『和賀江嶋』の写真と比べてみてください。
確かにこれを見ると島だなぁ~と思いませんか(^O^)




大きい石がごろごろしています。安定していないので危ない限りです




思いきってぎりぎりの所まで来ました。振り返ると・・・向こうに見える建物は「逗子マリーナ」です。





 潮位が低いと『和賀江嶋』は、結構、歩いていけちゃいます。ただし、行く際には、まず長靴は必須となりますし、また足場は不安定で相当悪いので、転倒の危険性大ですので、覚悟した上で気をつけて行ってきて下さいね。






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覚賢塔(亀ヶ谷にて彷徨う)

 『覚賢塔』からの帰りは、来る途中で遭遇した「熊おじさん」の跡を追って亀ヶ谷方面に進んだのでした。


 熊おじさんと別れた分岐(『覚賢塔』を参照して下さい)を亀ケ谷方面に進むと、じきに立派なやぐら群にぶつかります。


「やぐら群」・・・「新編鎌倉誌」によるとこの周辺は「勝縁寺谷」と云い、昔は寺院があったそうです。ここのやぐらはその寺のゆかりのものでしょうか?






 このやぐら群の脇にある階段を登ると、その上には祠があります。先のやぐら群同様、どのような云われがあるのでしょうか。


右の階段を上がると、祠にたどり着きます。亀ヶ谷方面は、真っ直ぐに進みます。



「祠」・・・やぐらの上の少し拓けた場所にあります。自分が思うに「新編鎌倉誌」に記載のある勝縁寺谷にある天神の小祠とは、ここのことなのでしょうか。



 そのまま亀ヶ谷方面に進んで行くと、「禅居院」墓地の裏山にでます。墓地から裏山に登る道も見え、自分もさっとそこから降りたかったのですが、「禅居院」は非公開の寺院なので、降りる訳にもいかず、そのまま進むことに(>_<)

「禅居院」



 途中、小高い山腹にまた祠がありました。天神の小祠はここのことか?迷います^^:



謎の歌碑に遭遇




大正天皇陛下の碑




 どうも碑の内容を見ると、大正天皇がまだ東宮(皇太子)の時代にこの地を訪れ、大正時代に建てられた記念碑のようです。先の歌碑もその際に建てられたようです。
 何故、この地に大正天皇が訪れたのかは、よくわかりませんが、ひょっとしたら、亀ヶ谷に当時あったカメリア温泉に温泉療養にでも来たのでしょうか。謎が深まりますね。



 実は、この歌碑や天皇陛下の碑は、道がわからずにさ迷っている内に発見したもので、つまり、これらに遭遇するのは、他でもなく迷い子になっていることなので、皆さんも大いに慌てましょう(T_T)
その場合は、元の道に戻り(登ります)、周囲を注意深く見ると、ロープが降りている道(崖)がありますので、そのロープにつかまり降りて行くと、『亀ヶ谷の切通し』に到着します。


ロープがよく見るとありますので、これを頼りに下っていきます。


ロープを降りると「亀ヶ谷切通し」に出ます。こんな所から人が飛び出てきたので、道行く人達を驚かせてしまいました^^:



 この道は、迷うわ、危ないわと散々な道なので、お勧め度は0どころかマイナスなので、悪いことは言わないので、行かないことをアドバイスして終わりとします。
 ちなみに、熊おじさんもの姿も見当たらなかったので、無事に降りてこれたようですね^^

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観音食堂

 『観音食堂』は、地元の人達で賑わう人気のお店になります。
創業は、昭和35年となり、四十年以上もの間、大船・鎌倉の人達のお腹を満たしてきました。かくいう自分も午後から仕事が休みの時など、昼食によく寄ったりしており、お世話になっています。


『観音食堂』・・・店内は意外に広く、テーブル席から座敷まであります。
 


 ちなみに自分のお気に入りは「ぶつ切り定食」と「刺身定食」です。
 「ぶつ切り定食」・・・700円



 

 「刺身定食」・・・950円




 『観音食堂』は、魚屋(魚廣)さんも脇で営んでいます。つまり、魚屋さん直営となるわけで、鮮度の良さ、価格の安さの秘密は、ここにあるのですね。納得、納得(^O^)
 夜も営業しておりますが、午後9時過ぎまでと健康的なため、なかなか行く機会がないのですが、今度は是非、魚を肴に茅ヶ崎の地酒なんか飲んでみたいですね(^O^)/


魚屋の「魚廣」さん・・・こちらは創業昭和15年といいます。



「行き方」
JR大船駅南口改札口を出たら、左に進み階段を降ります。信号を渡り、派出所脇の道を進むと、右手の角にあるお店となります。南口改札口から徒歩1~2分程です。


『観音食堂』
住所:鎌倉市大船1-9-8
電話:0467-45-1848
営業時間:11:30~21:30(土日は~21:00)
休業日:水曜日(その他不定休あり)
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成福寺(伊豆韮山)

 鎌倉の小袋谷にある『成福寺』については、以前に当ブログにてご紹介した通りですが、伊豆韮山の地にも、同名の『成福寺』があります。やはり鎌倉の『成福寺』同様、北条氏ゆかりの寺院となります。

 伊豆韮山の『成福寺』は、創建が1289年となる浄土真宗の寺院となります。
 開基は北条正宗となり、元冦の時に活躍した、鎌裏幕府第8代執権「北条時宗」の三男となります。
 正宗は、父・時宗の命で元冦の際に亡くなった人達の菩提を弔うため、鎌倉・鶴岡八幡宮に一切経書写奉納の大願を立てさせます。その際に出会った本願寺二世の「如信」に教えを受け、仏門に入ります。父・時宗の死後、その菩提を弔うため、北条氏発祥の地である韮山の地に、この成福寺を建立したそうです。なお、現在のご住職の方も、開基の北条正宗の子孫にあたるそうです。



『成福寺』




 「北条時宗、正宗および覚山尼の墓」


鎌倉より正宗は、両親の遺骨を分骨し、菩提を弔ったそうです。なお、「覚山尼」は、北条時宗の正室になり、鎌倉の「東慶寺」を建立しました。


「北条氏一門の墓」



 『成福寺』の近くには、北条氏ゆかりの寺院も多く、当ブログにて紹介した『円成寺跡』にも徒歩10分弱で到着できますよ。また、『円成寺跡』に向かう途中には、「北条政子産湯の井戸」があります。

「北条政子産湯の井戸」・・・50㍍程歩くと「堀越御所跡」があります。






「堀越(ほりごえ)御所跡」・・・更地になっています。




 伊豆堀越公方は、室町将軍家に反抗する古河公方「足利成氏」に対抗するため、第7代将軍「足利義政」が兄の「足利政知」を関東公方として鎌倉に派遣しますが、鎌倉入りは出来ずに、ここ伊豆韮山の地に御所を構えたのが「堀越公方」となります。
 堀越公坊は、政知の死後の家督争いの混乱を、伊勢宗端(北条早雲)に浸かれ、1493年に滅びます。



 『成福寺』や『北条政子産湯の井戸』に関する鎌倉時代の北条氏と、『堀越御所跡』に関する北条早雲の北条氏とは、子孫でもなく、全く関係がありませんが、同じ北条の名を持つ両氏が、こうやってこの韮山の地でリンクするのも、何だかとても興味深いものですね。


『成福寺』
住所:静岡県伊豆の国市四日町981
電話:055-949-1099
拝観時間:特になし
拝観料:無料
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鎌倉五山

 北鎌倉周辺には美味しいお食事処がいくつもありますが、地元建長寺と縁の深い「けんちんうどん」を頂くなら、ここ『鎌倉五山』がお薦めです。

 けんちん汁とは、、崩した豆腐と千切りにしたゴボウを代表とした根菜類、他野菜などをごま油で炒めたものを入れた汁物を言いますが、建長寺の開山「蘭渓道隆」が崩れてしまった豆腐と野菜を煮込んで作ったのが由来とされ、「建長汁(けんちょうじる)」が訛って、「けんちん汁」と云われたとされています。(ただし、普茶料理の巻繊を由来とする別説あり。)


「建長うどんセット」・・・1,050円なり。あじさいご飯もついています。



 うどん自体は普通ですが、大根、ながねぎ、豆腐、こんにゃく、ごぼう、油あげなど具沢山の上に、ごま油の風味が効いたほうれん草がたっぷり入っています。
お汁はかつおだしがベースなんだと思います。なんといっても、ほうれん草を口に入れた際に口の中に広がるごま油の香ばしさは格別で、また、ほんのり柚子も効いていたりと、味のバランスが絶妙!

 ちなみに『建長寺』門前にも「鎌倉五山別館」がありますが、こちらは味が結構違っており、どちらが好みかは意見が別れるところでしょうが、自分の個人的な好みを言えば、やはり本店のごま油の香ばしいほうれんそうがある方が好きですね^^



「行き方」

 JR北鎌倉駅常設改札口を出たら、鎌倉街道を左に進みます。
 横須賀線の踏み切りを越えたらすぐ右手になります。駅から5~6分になります。





「鎌倉五山」
住所:鎌倉市山ノ内1435
電話:0467-25-1476
営業日:無休
営業時間:10:00~16:30

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青梅聖天

 『覚賢塔』で触れた『青梅聖天(おうめしょうてん)』について紹介いたします。
 『青梅聖天』の由来については「新編鎌倉誌」によると以下の通りとなります。

 「青梅聖天は雪の下より小袋坂へ登る左の小坂にあり、巖窟の内に聖天の宮があるため、この小坂は聖天坂と云われます。この宮を聖天の青梅と云うのは、鎌倉の将軍がある日、病が重くなり、季節外れの青梅を望み、諸方に探し求めた所、この『青梅聖天』前の青梅がにわかに実ったため、将軍に奉じた所、病が治ったためと云われています。」

 なお、聖天とは『大聖歓喜天』のことで、諸願を叶えてくれる象頭人身の姿をした男女が抱き合っている姿をした仏教の神様となります。


「青梅聖天」・・・「新編鎌倉誌」にある巖窟は、今はないようです。



「丸山稲荷」・・・境内の一角にあります。扉が壊れていますね。先日行った時には、壊れていなかったけど、大丈夫かな^^:



 「聖天坂」・・・今は階段となっていますが,昔はここが聖天坂だったかと思われます。



覚賢塔」や泉ヶ谷に抜ける脇道はこの手すりの間の所から行けます。



「行き方」
①鶴岡八幡宮西側にある「車祓所」の向かいの道を進みます。


②「里のうどん」脇の道が昔の「巨福呂(こぶくろ)坂の切通し」となります。ここを進んで行きます。


「巨福呂坂の切通し」・・・往時を偲ぶものはあまりないですね。


③「青梅聖天」前に到着です。左手の「聖天坂」の階段を登ります。



『青梅聖天』
住所:鎌倉市雪ノ下2-6
拝観時間:いつでも
拝観料:無料

 『青梅聖天』は、場所柄もあり、観光客の方もほとんど訪れることのない静かな神社となります。
 なお、『青梅聖天』のご本尊『歓喜天立像』は、鎌倉国宝館に収蔵されております。今年度は、7月16日(木)~9月6日(日)「美術のなかの動物たち」にて展示予定となっておりますので、ご興味のある方は、国宝館にも一度足を運んでみてくださいね^^

 鎌倉国宝館のHP       
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/index.htm
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覚賢塔

 『覚賢塔』は、『浄光明寺』の裏山にある塔となり、その昔、『浄光明寺』の隣にあった『多宝寺』の長老となる『覚賢』の墓となります。
 『多宝寺』は、山号は「扇谷山」、開基は「北条業時」、開山は「忍性」と云われています。創建は、1262年頃と考えられており、いつ頃まで存続していたかは不明の、現在は廃寺となっています。

 北条業時(1241~1287)は、「極楽寺」の開基である「北条重時」の子となり、「浄光明寺」で紹介した「北条長時」の弟になります。普恩寺という寺院(鎌倉にあったが所在は不明)を建立したことから、北条業時の家系は「普恩寺流北条家」と云われ、最期の六波羅探題北方の長官である「北条仲時」は、業時の曾孫にあたります。


  「覚賢塔」


「覚賢塔」・・・「新編鎌倉誌」によると、「忍性」の墓とされていましたが、関東大震災時に塔が倒れたりして、昭和51年に修復した際、内部から「多宝寺覚賢長老遺骨也」と記された納骨壺が見つかり、覚賢の墓と判明しました。写真では判りにくいですが、高さは3m近くもある巨大なものです。

 「覚賢塔」は国の重要文化財になります。戦前は国宝でした。



 「覚賢塔」周辺には、「多宝寺址やぐら群」と呼ばれるやぐらが点在しております。



 「覚賢塔」の上にある平場・・・う~ん、ここも何かあったんでしょうね。



 『覚賢塔』に行くには、春に開催される鎌倉まつり(4月第2日曜~第3日曜日)の際、「冷泉為相の墓」裏の木戸が開放されるので、その際に行くことができます。

 「冷泉為相の墓」(浄光明寺内)・・・裏の木戸が鎌倉まつりの際に解放されます。ここからだと数分で「覚賢塔」で到着します。



 「冷泉為相の墓」の背後にあるやぐら群も見れます。




 春まで待てないとか、鎌倉まつりの時は都合が・・・という方のために、別の行き方も紹介しますが、道はかなりひどく、危ない上に迷いますので、正直お勧めはできませんので、行かれる際には、自己責任でお願いします^^:


「行き方」
青梅聖天』から行く方法もありますが、せっかくですので、『浄光明寺』から行ってみましょう。

*「浄光明寺」までの行き方は「浄光明寺(前編)」を参照。
①左に曲がり「浄光明寺」に入らずに、そのまま道を直進します。


②真っ直ぐに進むと、行き止まりの看板がありますが、構わずに突き進みます。


③途中、左右に分かれる分岐点があります。左手は木戸があるので遠慮して、右に進みます。すると尾根に到着します。
写真だとわかりにくいですが、行けばわかるさ~^^

 「尾根」・・・左の道が「覚賢塔」への道となります。右に行くと何処かの民家に着きますので、こちらには行かないでください。



④ちなみに尾根を真っ直ぐ降りていくと、すぐに「青梅聖天」に到着します。

真っ直ぐに降りていくとすぐに「青梅聖天」の階段にぶつかります。赤いのは階段の手すりになります。


⑤(③の続き)しばらく進むと右に曲がる分岐点に着きます。右に行くと「亀ヶ谷切通し」方面に向かいます。なので、右に行かずに真っ直ぐに進みます。
 「分岐点」・・・わかりにくいって!行けばわかるさ^^


 ちなみに、自分はこの分岐点に来た時に、彼方からガサッガサッと音がするではないですか!!
 「ひょっとして熊か!^^:」とおろおろと身構えたところ、熊の割には毛の薄い熊・・ではなく、初老のおじさんでした。
 冷静に考えれば熊なんて鎌倉に居るわけないんですよね^^:
 おじさん曰く「亀ヶ谷の切通しに抜けたいんだけど、この道で良いのかな?」と聞かれる自分。
 行った事ないからわからないながら、地図を広げておじさんと話し込むこと数分・・・「亀ヶ谷の切通しに行きます!」と結論付けた自分は、熊・・・改め、おじさんと別れを告げたのです。


⑥そのまま進んでいると、ちょこっと「覚賢塔」の先が見えてきます。ここで到着です。結構、ここまで時間が掛かりますね。


 ちなみに帰り道は、熊おじさんの事が気になり、自分も「亀ヶ谷の切通し」方面の道に行きましたが、その様子は、「覚賢塔(亀ヶ谷にて彷徨う)」で、また紹介します。


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円成寺跡(北条氏邸跡)・・・伊豆韮山

 成福寺」の項目で触れた「覚海円成」は、北条貞時の側室となります。父は、安達泰宗なり、北条高時、北条泰家の母となります。夫の北条貞時が亡くなった際に落飾し、「覚海円成」は法号となります。

 1333年、鎌倉幕府が滅亡した際、「覚海円成」は、鎌倉の地から北条一門の婦女子を引き連れ、北条氏発祥の地である伊豆北條(伊豆韮山)の地に移り、「円成寺」を建立し、北条一門の菩提を弔ったそうです。


「円成寺跡」・・・北条氏屋敷跡に建立された尼寺となり、江戸時代まで続きました。今はご覧の通り何もありません。数年の内には、史跡公園として整備される予定となっています。



「円成寺跡(北条氏屋敷跡)」は、守山の麓に位置しております。守山の東には、北条時政が建立した『願成就院』があります。守山を登ってみると、頂上には展望台があり、韮山の地を一望できます。

 「守山」周辺写真


 「守山」頂上付近の展望台



 「蛭ヶ小島」を展望台より望む・・・蛭ヶ小島は源頼朝が流されていた場所となります。昔は狩野川の中州の島だったそうです。北条政子は、頼朝に会いにこの「蛭ヶ小島」に忍んで会いに行っていたそうです。



 「江間の地を展望台から望む」・・・江間は、北条義時の所領であり、義時は「江間四郎」と呼ばれていました。



 伊豆韮山の地は、北条氏発祥の地であり、また源頼朝の所縁の地でもあるため、何だか鎌倉とはとても縁深い地に思えてならず、自分は思わず、何度かこの地を訪れてしまいます。
 伊豆韮山の地は温泉にも恵まれておりますので、皆さんも、日頃の疲れを癒すついでに行かれてみてはいかがでしょうか^^

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浄光明寺(後編)

  『浄光明寺(前編)』の続きとなります。

 
 天気の良い木・土・日曜日・祝日には、阿弥陀堂、収蔵堂が拝観できます。200円を納めると、寺の方が親切にも説明してくれます。
 阿弥陀堂に隣接する収蔵庫には、国指定の重要文化財である「阿弥陀三尊像」が安置されています。阿弥陀如来像は、1299年に北条久時(長時の孫)が願主となり造立されたもので、土を型抜きしたものを木像に貼り付けるという「土紋装飾」という珍しい鎌倉でのみ見られる技法が施されております。
 なお、足利直義の守り本尊「矢拾地蔵」も見ることができます。「矢拾地蔵」は、足利直義が中先代の乱の際、矢が不足し困っていたところ、何処からともなく小僧が現れて矢を拾い集めてきてくれるのですが、その小僧こそ、直義が日頃から信仰していた地蔵尊だったということです。

 

 「阿弥陀堂」



 「槙の木」・・・阿弥陀堂前にある老木で、樹齢750年余りということなので、「浄光明寺」の建立から、この地にあります。



 裏の一段高い所には平場があり、やぐら内には「網引き地蔵」が祀られています。

 「網引き地蔵」・・・背面には正和三年(1313年)の銘が刻まれており、冷泉為相の造立と云われています。地蔵尊の背後には納骨穴があり、天井には天蓋の跡と思われるものが見られます。この地蔵尊は、後年、何処からかこの場所に移されたものなのでしょうか?




 「冷泉為相」の墓・・・「網引き地蔵」の上にあります。


 「冷泉為相」は、藤原定家の孫にあたり、和歌で有名な冷泉家の祖になります。母は、「十六夜日記」で有名な「阿仏尼」となり、為相は、晩年、浄光名寺の北西にある藤ヶ谷(ふじがやつ)に居住していたことから、「藤谷黄門(ふじたにこうもん)」とも呼ばれたそうです。
*黄門は、中納言の唐名になり、為相は権中納言の官位にありました。水戸黄門も同様で、水戸家の権中納言という意味です。


 「網引き地蔵」のある平場については、寺の方に聞いても何かはあったようだが、よく判らないとの事でした。1335年頃に作成された「浄光明寺絵図」を見ると、この平場の北西部に「地蔵堂」がある事からも、自分としては、「網引き地蔵」は、元々、地蔵堂にあったものを、現在の位置に移してきたのではないかと考えたりします。とすると、この「網引き地蔵」のあるやぐらは、この規模の大きさからいって、元々は、「北条長時」始めとする赤橋流北条家の墓(吾妻鏡に記されている「泉谷新造堂」)なのではと、自分勝手な妄想、願望を膨らませたりしてしまいます^^:。
 

「平場」




 地蔵堂があったと思われる場所にある遺構・・・何でしょうか?



  「浄光明寺」は、北条家所縁の寺院だけでなく、足利将軍家所縁の寺院でもあります。足利尊氏の妻は北条(赤橋流)守時の妹の登子であり、その縁もあって、足利尊氏は、後醍醐天皇の勅許を得ずに鎌倉入りした際に、蟄居していた寺は、この「浄光明寺」となります。
 このような歴史と見事な仏像等に出会える「浄光明寺」は、訪れる観光客も比較的に少なく、ちょっと穴場とも言える寺院となり、自分のお気に入りの寺院であります。


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