鎌倉を愛する鎌倉市民により、鎌倉のグルメ・歴史・観光名所を紹介します。
鎌倉虎の巻
草鹿
『草鹿(くさじし)』は、毎年5月5日の端午の節句に『鎌倉宮』で行われる行事で、その起源は、鎌倉時代まで遡る事ができ、源頼朝が富士で開催した巻狩り*1の際、参加した御家人達が獲物を逃す事が多かったため、弓の名人であった「小笠原長清」に相談した所、長清は、同じく弓の名人であった武田信光と相談の結果、草を集め、鹿の形にして稽古させた事が「草鹿」の始まりと云われています。
「草鹿」は、馬に乗って的を射る「流鏑馬」に対して、歩射という形になります。
「吾妻鏡」によると、建久3年8月20日に源頼朝が御産所に渡り、父母の揃っている射手を召しだし、草鹿の勝負をおこなったとあります。ちなみに御産所に渡ったとあるのは、同月9日に、源実朝が誕生したばかりのためです。
さて、話を戻すと、その際の射手は、一番 梶原景季―比企時員 二番 三浦義村―三浦景連 三番 千葉常秀―梶原景定とあります。ただし、勝敗については記載がありません。
*1 富士の巻狩
1193年に源頼朝が上洛と帰還の際に、富士の裾野付近を中心として行われた壮大な巻狩になり、曽我兄弟の敵討ちが行われたのもこの時になります。ただし、上記の通り「吾妻鏡」の1192年8月に「草鹿」の記載がある事からも、実際は、それ以前に行われた巻狩りの際の出来事だと思われます。
自分が2年前に見に行った祭には、天候不良のため、開始時間が繰り上がり、内容もかなり省略されてしまいましたが、今年は、快晴でないまでも曇天でしたので、通常通りに行われました。
これが標的となります。つぶらな瞳が何だか可愛いらしい姿ですね^^
体にある白い部分は、的になりますが、それぞれ名称があり射手は、何処を当てたか聞かれたりするので、きちんと把握していないといけません。
今回の対戦チームとなります。各チームは、前衛4人づつに大将を加えた計5人チームとなります。1人2本づつ矢を放ち、得点を競う競技となります。
①前弓チーム
男性ばかりで構成されているチームになります。
②後弓チーム
対照的に、女性の構成率が高いチームとなります。世相を反映して、やはり女性の方が強いのでしょうか。
『草鹿』の手順は以下の通りです。
①一人づつ、射手は的に向けて矢を放ちます。
②的に当たっても浮かれてはいけません。なぜなら、それだけでは得点は成立しないからです。
ちなみに、お尻辺りに矢が当たっております。
③奉行からの問いに対し、上手に答えないと得点はもらえません。逆に的に当たらなくても、射手の作法や射術が良ければ得点を認めてくれる事もあります。
奉行:「控えい」
「御矢はよく候いつるか」
射手:「只今の矢は、紛れもなく良き矢にて候」
奉行:「さらば、誓言そうらえい」
射手:「弓矢八幡、わけても鎌倉宮のご祭神もご照覧あれ。親疎あるまじく候」
「奉行」
「射手」
上記は、その問答の一例になります。これ以外にも矢の当たった部位を聞くものもあり、その際、異なった部位を答えようものならば得点は認めてくれません。
④①から③までを四人繰り返し、その後は一人づつ得点に応じて、数塚に串を挿していきます。この際にも足の運び等に作法があり、作法通りでないと、得点を減点されてしまいます。
⑤最後は、大将戦になります。大将戦は得点も2倍になるため、ここで逆転勝利もあるわけです。
さすがは大将!風格があります。
⑥勝利したチームは、鎌倉宮の神官より賞品をいただきます。今回の賞品は、端午の節句にちなみ、菖蒲となります。
う~ん、ささやか・・じゃなく風流ですね^^
⑦勝負を終えた後は、勝利チーム(今回は後弓チーム)を先頭に帰っていきます。
「記念撮影」
競技終了後は、勝敗に係わらず、皆で仲良く一堂揃っての記念撮影となります。競技中は緊張した面差しも、ここでは表情も和らいでおります^^
「草鹿」は、最初は訳わからなくても、しっかり解説もついているので、誰でも分かり易く見させてくれる行事だと思います。鎌倉時代の装束に身を包んだ射手達が弓を競う優雅な儀式、ご覧になってみては如何ですか。
『草鹿』
日程:毎年5月5日 午後1時~午後2時半頃
場所:鎌倉宮境内
「草鹿」は、馬に乗って的を射る「流鏑馬」に対して、歩射という形になります。
「吾妻鏡」によると、建久3年8月20日に源頼朝が御産所に渡り、父母の揃っている射手を召しだし、草鹿の勝負をおこなったとあります。ちなみに御産所に渡ったとあるのは、同月9日に、源実朝が誕生したばかりのためです。
さて、話を戻すと、その際の射手は、一番 梶原景季―比企時員 二番 三浦義村―三浦景連 三番 千葉常秀―梶原景定とあります。ただし、勝敗については記載がありません。
*1 富士の巻狩
1193年に源頼朝が上洛と帰還の際に、富士の裾野付近を中心として行われた壮大な巻狩になり、曽我兄弟の敵討ちが行われたのもこの時になります。ただし、上記の通り「吾妻鏡」の1192年8月に「草鹿」の記載がある事からも、実際は、それ以前に行われた巻狩りの際の出来事だと思われます。
自分が2年前に見に行った祭には、天候不良のため、開始時間が繰り上がり、内容もかなり省略されてしまいましたが、今年は、快晴でないまでも曇天でしたので、通常通りに行われました。
これが標的となります。つぶらな瞳が何だか可愛いらしい姿ですね^^
体にある白い部分は、的になりますが、それぞれ名称があり射手は、何処を当てたか聞かれたりするので、きちんと把握していないといけません。
今回の対戦チームとなります。各チームは、前衛4人づつに大将を加えた計5人チームとなります。1人2本づつ矢を放ち、得点を競う競技となります。
①前弓チーム
男性ばかりで構成されているチームになります。
②後弓チーム
対照的に、女性の構成率が高いチームとなります。世相を反映して、やはり女性の方が強いのでしょうか。
『草鹿』の手順は以下の通りです。
①一人づつ、射手は的に向けて矢を放ちます。
②的に当たっても浮かれてはいけません。なぜなら、それだけでは得点は成立しないからです。
ちなみに、お尻辺りに矢が当たっております。
③奉行からの問いに対し、上手に答えないと得点はもらえません。逆に的に当たらなくても、射手の作法や射術が良ければ得点を認めてくれる事もあります。
奉行:「控えい」
「御矢はよく候いつるか」
射手:「只今の矢は、紛れもなく良き矢にて候」
奉行:「さらば、誓言そうらえい」
射手:「弓矢八幡、わけても鎌倉宮のご祭神もご照覧あれ。親疎あるまじく候」
「奉行」
「射手」
上記は、その問答の一例になります。これ以外にも矢の当たった部位を聞くものもあり、その際、異なった部位を答えようものならば得点は認めてくれません。
④①から③までを四人繰り返し、その後は一人づつ得点に応じて、数塚に串を挿していきます。この際にも足の運び等に作法があり、作法通りでないと、得点を減点されてしまいます。
⑤最後は、大将戦になります。大将戦は得点も2倍になるため、ここで逆転勝利もあるわけです。
さすがは大将!風格があります。
⑥勝利したチームは、鎌倉宮の神官より賞品をいただきます。今回の賞品は、端午の節句にちなみ、菖蒲となります。
う~ん、ささやか・・じゃなく風流ですね^^
⑦勝負を終えた後は、勝利チーム(今回は後弓チーム)を先頭に帰っていきます。
「記念撮影」
競技終了後は、勝敗に係わらず、皆で仲良く一堂揃っての記念撮影となります。競技中は緊張した面差しも、ここでは表情も和らいでおります^^
「草鹿」は、最初は訳わからなくても、しっかり解説もついているので、誰でも分かり易く見させてくれる行事だと思います。鎌倉時代の装束に身を包んだ射手達が弓を競う優雅な儀式、ご覧になってみては如何ですか。
『草鹿』
日程:毎年5月5日 午後1時~午後2時半頃
場所:鎌倉宮境内
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御霊神社(梶原)
『 御霊神社(坂ノ下)』で触れたように、市内には、もう一ヶ所の御霊神社があり、それが梶原の地にある御霊(ごりょう)神社となります。
祭神は、坂ノ下の御霊神社と同様、「鎌倉権五郎景政」となります。
『御霊神社』
深沢小学校脇にある閑静な神社となり、訪れる観光客もほとんどいません。
『拝殿』
神社の由緒を見てみると、ここでは鎌倉権五郎景政は、「後三年の役」ではなく、「前九年の役」に従事したと記載されております。これは一体どういうことでしょうか?謎ですね。
それはそうと、この神社は、1190年に梶原景時*1によって建立されたとあります。梶原氏は、鎌倉党にあたり、ここ梶原の地を領した所から梶原氏を名乗るようになります。
*1梶原景時(1140?~1200)
石橋山の戦いで敗れ、洞窟に隠れていた源頼朝を救ったことから重用され、また、和歌も嗜んだりと教養もあり、頼朝の信頼が厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」と称されていた。一方で、源義経を始め、数々の讒言をおこなった事から、周りの同僚の御家人からは嫌われ、「げじげじ殿」と云われていたそうです。頼朝の死後、直に追放され、一族とともに滅ぼされます。
『拝殿脇にある五輪塔』
左から2番目の五輪塔には、「建武元年十二月廿三日」と刻まれております。建武元年とは1334年となり、鎌倉幕府滅亡の翌年となります。
『本殿』
祭神である「鎌倉権五郎景政」が祀られております。また、景政夫婦や梶原景時の像も安置されているそうです。
「新編鎌倉誌」によると、坂ノ下にある御霊神社は、元は梶原の御霊神社であったとされ、そのため、坂ノ下にある御霊神社の祭礼には、梶原の御霊神社の神主が加わったとされます。
ここ御霊神社から、元々あったとされる葛原岡神社までの道の途中には、「御堂屋敷」とか「みず屋敷」と呼ばれる場所があり、梶原景時の屋敷があったと云われております。梶原景時屋敷は十二所にもあったとの説もありますが、梶原の地に屋敷又は、別宅があった可能性は十分に考えられるかなと思いますね^^
「御堂屋敷」、「みず屋敷」と呼ばれていた一帯。
はっきりどこかは分かりません。ただ、このゆるやかな傾斜地辺りの何処かにあったのかと想像してみるのも愉しいものです^^
『御霊神社(梶原)』
住所:鎌倉市梶原1-18-27
拝観料:境内自由
行き方」
湘南モノレール「湘南深沢駅」下車
①駅を出たら、そのまま江ノ島方面に真っ直ぐに進みます。2分歩いたら「深沢支所西」の交差点の手前の道を左折します。
②郵便局や深沢支所を左手に見ながら、真っ直ぐに進み、深沢小学校が左手に見えるまで行きます。
深沢小学校のグランドに沿うように左手に曲がったら、突き当たりを左に進むと到着します。駅からだと約7分位です。
祭神は、坂ノ下の御霊神社と同様、「鎌倉権五郎景政」となります。
『御霊神社』
深沢小学校脇にある閑静な神社となり、訪れる観光客もほとんどいません。
『拝殿』
神社の由緒を見てみると、ここでは鎌倉権五郎景政は、「後三年の役」ではなく、「前九年の役」に従事したと記載されております。これは一体どういうことでしょうか?謎ですね。
それはそうと、この神社は、1190年に梶原景時*1によって建立されたとあります。梶原氏は、鎌倉党にあたり、ここ梶原の地を領した所から梶原氏を名乗るようになります。
*1梶原景時(1140?~1200)
石橋山の戦いで敗れ、洞窟に隠れていた源頼朝を救ったことから重用され、また、和歌も嗜んだりと教養もあり、頼朝の信頼が厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」と称されていた。一方で、源義経を始め、数々の讒言をおこなった事から、周りの同僚の御家人からは嫌われ、「げじげじ殿」と云われていたそうです。頼朝の死後、直に追放され、一族とともに滅ぼされます。
『拝殿脇にある五輪塔』
左から2番目の五輪塔には、「建武元年十二月廿三日」と刻まれております。建武元年とは1334年となり、鎌倉幕府滅亡の翌年となります。
『本殿』
祭神である「鎌倉権五郎景政」が祀られております。また、景政夫婦や梶原景時の像も安置されているそうです。
「新編鎌倉誌」によると、坂ノ下にある御霊神社は、元は梶原の御霊神社であったとされ、そのため、坂ノ下にある御霊神社の祭礼には、梶原の御霊神社の神主が加わったとされます。
ここ御霊神社から、元々あったとされる葛原岡神社までの道の途中には、「御堂屋敷」とか「みず屋敷」と呼ばれる場所があり、梶原景時の屋敷があったと云われております。梶原景時屋敷は十二所にもあったとの説もありますが、梶原の地に屋敷又は、別宅があった可能性は十分に考えられるかなと思いますね^^
「御堂屋敷」、「みず屋敷」と呼ばれていた一帯。
はっきりどこかは分かりません。ただ、このゆるやかな傾斜地辺りの何処かにあったのかと想像してみるのも愉しいものです^^
『御霊神社(梶原)』
住所:鎌倉市梶原1-18-27
拝観料:境内自由
行き方」
湘南モノレール「湘南深沢駅」下車
①駅を出たら、そのまま江ノ島方面に真っ直ぐに進みます。2分歩いたら「深沢支所西」の交差点の手前の道を左折します。
②郵便局や深沢支所を左手に見ながら、真っ直ぐに進み、深沢小学校が左手に見えるまで行きます。
深沢小学校のグランドに沿うように左手に曲がったら、突き当たりを左に進むと到着します。駅からだと約7分位です。
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