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新江ノ島水族館

 通称「えのすい」こと『新江ノ島水族館』は、それまであった「江の島水族館」を建て替え、平成16年4月にオープンした水族館となります。

 
 自分には、前身である「江の島水族館」の方が思い出が深いもので、国道134号線を挟んで「水族館」と「マリンランド」・「海の動物園」の3つの建物があり、行き来は、国道134号線の地下にある通路を通って行っていました。おせじにも立派とも広いも言えなく、「水族館」は、妙にクラゲだけ充実していたり、「海の動物園」は、ほとんど混みあうこともなかったけど、その分じっくりと見ることが出来、親しみさを感じ、自分は好きで、何回も行った記憶があります^^


 さて、この新しい『新江ノ島水族館』なんですが、最初にいった時には、「随分とまぁ立派になったもんだ!」と感心する程、見事な水族館になりました。




 『新江ノ島水族館』




 「相模湾大水槽」 


 巨大水槽の中を数多くの魚がさながら相模湾の中に居るかのように泳ぎます。



 「タカアシガニ」


 迫力満点ですな^^:
 ちょっと、怖いかも


 「イルカショー」・・・人とイルカが跳んでおりまする^^





 個人的には、ペンギンが好きですね^^

 
 
 『新江ノ島水族館』の近くには、『江ノ島』も近く、また、建物自体も「湘南海岸公園」内にあり、目の前は、片瀬西浜海岸となります。
 皆さんも寄られた次いでに、こちらにも立ち寄ってみては如何ですか^^
 また、3月中は、学生の方はなんと半額で見れるそうですね!羨ましいですね^^:
 羨ましい大人の方には、年間パスポートなんてものもあります^^。
 パスポートは、4000円しますが、水族館好きな方には、お勧めですよ^^
 ちなみに自分も持っておりまする(^O^)/



 「新江ノ島水族館から江ノ島を眺める」



 「片瀬西浜海岸」・・・天気が良ければ、この通り富士山の姿も見えます。海を眺めてぼんやりするのも良いですよ^^



 

   『新江ノ島水族館』のHP →  ここ



『新江ノ島水族館』

住   所:神奈川県藤沢市片瀬海岸2-19-1
電   話:0466-29-9960
営業時間:3月~11月  9時~17時
      12月~2月 10時~17時
      *詳細は、水族館HPを参照の事
休   日: なし
料   金: 大人(中学生以上)2000円 こども(小学生以上)1000円 幼児600円
      *ただし、4月~変更となり、中学生は1000円、高校生は1500円
アクセス
     ①小田急線「片瀬江ノ島駅」下車、徒歩3分
     ②江ノ電「江ノ島駅」下車、徒歩10分
     ③湘南モノレール「湘南江の島駅」下車、徒歩11分
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鎌倉観光いちご園

 『鎌倉観光いちご園』は、鎌倉市内で唯一のいちご狩りができる場所となります。
ここで栽培されている品種は、「紅静」と言い、あまり、スーパー等でも見かけない品種だと思いますが、果実は、やや小粒であり、程良い酸味もあり、自分の好みのいちごですね^^

 
 「鎌倉観光いちご園」



ここ鎌倉観光いちご園では、水耕棚栽培で作っているため、いちごがある所までの高さが約80センチ余りと、摘み取るに屈まなくても良いので、そこも嬉しい限りです。また、所々には、いちごのへたを捨てる場所も設置されているのもGOOD!!ですね^^


 「ビニールハウス内」


 当日は最終日との事で、時間無制限の上、コンデンスミルクもお替りし放題でした。いちご園の方曰く「お客さんの満足感重視なんで・・・」との嬉しい限りのお言葉です。



 「紅静」という品種だそうです。




鎌倉の観光で、いちご狩りを愉しんで見るのもありなんじゃないかと思いますよ^^
ちなみに、いちご園の方に聞いたところ、今年は猛暑と冬場の乾燥が酷かったのが影響して、いちごが不作との事もあり、1月29日の午前中を持って終了とのこと^^:
 ビニールハウス3棟の小規模な農園ですしね・・・こればかりは仕方がないですよね^^:
 また来年ですかね。(一応、確認してみてくださいね^^)

 
 「鎌倉観光いちご園」のHP → ここ  ← HPはなくなったようです。H25年は、1/12からです。


『行き方』
(1)バス
①京浜急行バス
「JR鎌倉駅東口」下車、6番乗場より、「船7~9 大船」行きで、「深沢」下車
②江ノ電バス
「JR鎌倉駅東口」下車、1番乗場より、「藤沢駅」行きで、「深沢」下車
①、②共、下車後は、「深沢」の交差点を左折したら、真っ直ぐ行くとY字路にぶつかりますので、その右手になります。バス停から徒歩で8分程になります。
(2)湘南モノレール
「湘南深沢駅」下車、約12分程になります。下車後、南方面に進み「深沢支所西」の交差点を左折し、「深沢」の交差点を真っ直ぐに進みます。やがてY字路にぶつかりますので、その右手になります。


『鎌倉観光いちご園』
住所:鎌倉市笛田2-11
電話:0467(31)5339
営業時間:10:00~16:00   ※ 午前中の来園をお勧めします。
休日:月曜~金曜日
※休日の場合あるので、事前に確認の電話をするのをお勧めします。
料金:2000円(30分)
  ※時期によって料金に違いあり。また、未就学児料金あり。

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獅子巖

 『獅子舞』で触れた「獅子巖」について、早速探しに行ってまいりました^^。

 「新編鎌倉誌」にある「獅子巖は永福寺跡の北にある山頂にあり。巖の形がまるで獅子の様なので、その様に呼ばれている・・・」との記載を頼りに、「獅子に似た岩はねえが~♪岩はねえが~♪・・」と呟きながら探し続ける事、二日と二晩・・・、いや実際には2時間余りの結果・・・見つけました^^

 よく言えば想像力が豊か、悪く言えば妄想癖がある自分ですが、周辺の岩の中で獅子を想像させる岩は見当たらなかったのですが、これを見た時は、思わず獅子おったど~と叫んだものでした。また場所も「永福寺跡の北にある山頂・・」という「新編鎌倉誌」の記載にも合致していますしね。
 
 

「獅子巖」・・・写真だと分かりにくいですが、現地で見るともうちょっと分かりやすいです。



 どうですか?左向いて蹲っている獅子の様に見えませんか。手前の岩は獅子の左前足となります。
 草や木が無いと思って想像してみてください。


 ただし、この岩が「獅子巖」である保障はなく、自分はそう考えているだけなので、皆さんも現地に足を運んだ際には、その目で確かめて見て下さいね^^
 推定「獅子巖」は「獅子舞」を進み、登りきった処にある岩山です。眺望もとても良いですよ^^

 「獅子巖より望む」

 
 

「獅子舞の紅葉」・・・まだ一部で紅葉が見れていました。



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獅子舞

 鎌倉の紅葉のシーズンは11月末頃から12月上旬までとなり、先週末に、自分も紅葉巡りに出掛けてきました。

 鎌倉の紅葉の名所と呼ばれる所は幾つもありますが、そのなかでも、今回は、自分のお気に入りの『獅子舞』を紹介いたします。


 『獅子舞の紅葉』・・・見事ですね
   




 「獅子舞までの道」・・・雨が降った後は遠慮しましょう。かなりぬかるみます。





さて、『獅子舞』の名前の由来なんですが、「新編鎌倉誌」によると、以下の通りとなります。

 『獅子巖は永福寺跡の北にある山頂にあり。巖の形がまるで獅子の様なので、その様に呼ばれている。
 護法録(*①)には、浦江県(*②)の東南35里に山があり、その形がうずくまっている獅子の様なので獅子岩(*③)と云われているとある。日本でも異国でも同様である。
 地元では、「二階堂の獅子舞の峯」と云われている。昔は永福寺の寺域内であり、永福寺内に二階堂(*④)があった繁栄していた頃は、寺域は広くて、この辺より、はるか東南の村までを二階堂村といっていた。
 この獅子巖の南方に永福寺の礎石があるのを踏まえてみると(*⑤)、吾妻鏡の正嘉元年(1257年)8月18日の記載に、陰陽師等が夜明けに西御門の山に登って見ると、ちょうど残月が西にあり、太陽が東に出ており、あれこれ方角を確認にしたところ、最明寺(⑥)と永福寺は、東西に位置し、大慈寺(⑦)と最明寺とは、東南東と西北西に位置していたと。
 著者が、この編纂のため、この地に来て、この山の上に登って方角を見てみると、この獅子巖の山の南方と禅興寺(*⑥)とはまさに東西にあたっていたと。』


 *①中国の元末明初の居士、宋濂(1310-81)の文集より、仏教関係の作品を選んだもの。

 *②中国の浙江省金華市浦江県

 *③調べてみたのですがよくわかりません^^:。
  しかし、元の時代の高名な禅僧である「中峰明本(1263~1323)」が修行した西天目山(浙江省広州市の西)の「獅子巖」ではないかと自分は思っています。中峰明本所縁の地であれば護法録に記載されても不思議ではないし、距離も合致していますので。ただ、方角が浦江県の南東ではなく、浦江県の方が南東の位置になるのですがね・・・^^:

 *④「永福寺」は、平泉にある「中尊寺の二階堂大長寺院」を模して建立された寺院であり、建物が2階建てであった事から、「二階堂」とも云われました。

 「永福寺のイメージCG」 → こちら

 *⑤鎌倉の地図を見ると、永福寺跡と最明寺・禅興寺の位置は東西のライン上に無いかと思うかもしれませんが、記載にある通り、昔は永福寺の敷地が広く獅子巖の南に永福寺の建物の礎石があったので、現在の地図の永福寺跡と記載されている地点より、もっと北側の地点をイメージしてもらえれば、記載通りとなりますよ^^

 *⑥「最明寺」は、「北条時頼」が、現在の明月院のある辺りに建立した寺院。時頼の死後、一時廃寺となったが、時頼の息子「北条時宗」が「蘭渓道隆」を開山として迎えて再建したのが「禅興寺」となります。有名な「明月院」は、この「禅興寺」の塔頭の一院ですが、明治に「禅興寺」が廃寺となった際に、「明月院」のみ残り、現在に至ります。

 *⑦1212年に源実朝により創建された寺院。場所は、明王院と光触寺の間の二つ橋周辺にあった。


   
 う~ん、名前の由来は良いとして、では「獅子巖」なる巖は、一体何処にあるのでしょうかね。
 記載にある通り、永福寺の北の山頂辺りで獅子舞との繋ぎで考えると、獅子舞を登りきった処に眺めの良い岩場がありますが、そこになるのでしょうか?


 「岩場」・・・ちょっと離れた場所から取ったのしかなくてすみません。後日、撮り直します。(『獅子巖』を参照)



 「岩場からの眺望」・・・う~ん、絶景かな^^



 「峠の茶屋」・・・岩場から1分位の所にあります。お汁粉やおでん等もあるので、寄ってみられては^^



 鎌倉の紅葉を愉しみつつ、ついでに謎の獅子巖を探して見てはいかがでしょうか。
 そして、もしわかったら、教えて下さいね^^


 

「行き方」
①バス(鎌倉駅東口より)
京浜急行バス20番系統「鎌倉宮(大塔宮)」行きで終点下車。
 「鎌倉宮」を左手に眺めながら、沿うように進みます。


②「通玄橋」が見えてきますので、橋の手前を左折します。なお、橋をそのまま進むと「瑞泉寺」に向かいます。なお、左手の空き地は「永福寺跡」となります。


③「二階堂川」を渡る橋を越えたら、後はそのまま進んで行くと「獅子舞」に到着します。



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一升桝遺跡

 『一升桝遺跡』は、平成19年2月に国の指定史跡になったばかりの遺跡となります。
 この一升桝遺跡は、極楽寺地区と大仏切通を結ぶ交通路を防衛する土塁で囲まれた方形桝形の砦跡となり、鎌倉時代のものとなります。
 きっと、1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には防衛する鎌倉幕府側の一拠点だったのでしょうか。


『一升桝遺跡』・・・現在は訪れる人もほとんどなく、とても静かな場所であるため、保存状態も良好です。


正面と右側は、土塁となります。



正面と左右は、土塁で囲まれています。



土塁を近くで撮ってみました。



これまた近くで撮ってみたものです。



 写真では、なかなか全体像が掴みにくいかもしれませんが、現地に行ってみると、はっきりと方形枡型の遺跡であることを確認できます。
 国のデータによると、その大きさは、東側32.5m、西側35m、南側27.5m、北側18mで、南側に広がる台形状となり、南西部には出入り口と見られる土塁がない空間も見受けられます。



「行き方」
①江ノ電「長谷駅」下車。
 改札を出たら、右手に進み、「長谷観音前」の交差点を越え、「鎌倉の大仏」方面に進みます。



②鎌倉の大仏がある「高徳院」も右手に見つつ、スルーして行きます。



③やがて、トンネルが見えて来ますので、通り抜けずに、右手前にある階段を昇ります。



④階段を登ると、案内板があります。このまま登ると「大仏坂ハイキングコース」になりますが、ここは左の「長谷配水池」方面に向かいます。



⑤「長谷配水池」脇の道を進んで行きます。

「長谷配水池にある休憩所」



「休憩所」脇の道・・・か細い道となります。長谷配水池に沿って進みます。



「一升桝遺跡」は、方角としては南の方角になりますので、それを意識しながら、途中の分岐点が何箇所かありますが、クリアしましょう
 ちなみに、途中は、こんな道も通りながら、歩くこと10~15分程(⑤の地点から)で到着します。

「竹の生い茂る坂道」



「藪道」・・丈が低いので、屈まないとなりません^^:




 『一升桝遺跡』に行くのは、ちょっと難しく、またとても寂しい場所になりますので、行く際には、充分気をつけてください。 なお、自分は一人でしか行ったことはありませんが、出来れば、誰か複数の人と行った方が良いですよ。
 それと、遺跡好きの方とかでないと、苦労して行っても苦労が報われないかもしれませんね^^:


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源平池

 『源平池』は、「吾妻鏡」の1182年4月24日の項目によると、源頼朝が専光坊良暹と大庭景義等に命じて、鶴岡八幡宮の若宮近くの水田(絃巻田(*1))3町余りの耕作を止めて池(※2)に改修したとあります。
 「新編鎌倉誌」によると、当初は、池の東西に4箇所づつ島があった所、北条政子が、東方(源氏)が平家を滅ぼすことを祈念して、東の島を3つにしたそうです。3は「産」を意味し、西(平家)の池にある4つの島の4は「死」を意味するためです。
 この池こそが、『源平池』となり、3つの島のある東の池は「源氏池」、4つの島のある西の池は「平家池」となります。

※1・・・絃を巻くように渦巻き状に苗を植える田で、神様に奉る米を作る田のこと
※2・・・放生会を行うための池となり、放生会は、仏教の殺生戒を基とし、捕らえた生き物を池や野に放つ儀式



「太鼓橋(赤橋)」
 太鼓橋を越えて東側にある池が「源氏池」となり、西側にある池は、「平家池」となります。




「源氏池」・・・池の中には3つの島があり、橋を越えた先にある島には、「旗上弁天社」があります。




「旗上弁天社」
 創建された年ははっきりしませんが、『源平池』が造られた頃に「北条政子」によって建立されたと云われています。明治期になって神仏分離令によって、一時期廃社となりますが、戦後の昭和31年に復興し、現在の社は昭和55年に建立されたものです。
 なお、祀られている「弁財天坐像」は、運慶の作と云われ、国の重要文化財となり、「鎌倉国宝館」に収蔵されております。
 ところで、「新編鎌倉誌」には、坐像の持つ琵琶は、小松大臣(*3)の所有していたものとありますが、一体それは何処にいったのでしょうか?国宝館で見た際には無かったような気が・・・

※3・・・平重盛のこと




「政子石」
 姫石とも云われ、源頼朝が妻・政子の安産を祈ったとされる祈願石であり、縁結び、夫婦円満にご利益があるそうです。「旗上弁天社」の真後ろにあります。




 両端にあるのが他の2島になりますが、池一面、蓮の葉で覆われていて、何だかよくわかりませんね^^:



「蓮の花」
 当初は源氏・平家の旗色である白(源氏)と赤(平氏)の蓮の花が、それぞれの池に配されたと云われますが、現在は、混ざりあっていますね^^:





「平家池」・・・「源氏池」の反対の位置にあります。向こう側に見える白い建物は、「神奈川県立近代美術館 鎌倉館」となります。こちらも蓮の葉に覆われています。




 池を眺めていたら、泳いでいた亀さんが、蓮の葉に乗って休憩しようとしてました。




なんだか、沈んでいるような気が・・^^:



 元々『源平池』は、現在のよりもっと広大であり、大体、流鏑馬馬場の南辺りまであったそうです。また、「源平池」という名前も、正式な記録で残されているのが大正8年以降となり、それまでは「御池」とか「蓮池」等と云われていたそうです。
 しかし、やはり『源平池』と呼ぶ方がなんだかしっくりくるような感じがしますね。



『源平池』
「行き方」
 鶴岡八幡宮の敷地内になります。「太鼓橋」を越えたら右側が「源氏池」、左側が「平家池」となります。

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鎌倉国宝館

 先日、『青梅聖天』で紹介した「観喜天立像」を観に『鎌倉国宝館』に行ってまいりました。『鎌倉国宝館』は、1923年(大正12年)の関東大震災で鎌倉の寺社の多くが倒壊し、多くの文化財が損失したのを受け、二度と災害から損失を受けなくてすむようにと、また、鎌倉に訪れる観光客の方達が、あちこち歩き回らないようにすむよう一堂に展示するという趣旨のもと1928年(昭和3年)に設立されました。



「鎌倉国宝館」・・・建物は国登録有形文化財に指定されています。



「本館」・・・奈良・正倉院を模した高床式校倉風建築となります。奥の建物は新館で収蔵庫になります。





 最初に自分が訪れた時には、「狭っ!」と思い、次に「少なっ!」と思ったのを今でもよく覚えていますが、最近は、慣れたというか、よく考えてみれば鎌倉には観光名所が多いので、これ位コンパクトの方が、あまり時間も取られないので気軽に寄れるし、その分他の観光スポットにも寄れたりするわけで、むしろ観光客の方に配慮にされた親切設計だともいえるわけです^^:

 なお、今回の目的であった「観喜天立像」は、特別展「美術の中の動物たち」(期間:前期:7月16日 (木)~8月9日(日)後期:8月11日(火)~9月6日(日))で、現在拝観できますが、7月25・26日には展示されませんので、あしからず。


 「鎌倉国宝館」で収蔵されている文化財については、「鎌倉国宝館」のHPをご覧ください。
 
 「鎌倉国宝館のHP」→こちら
 

「行き方」
『鶴岡八幡宮』の敷地内にあります。


『鎌倉国宝館』
住所:鎌倉市雪ノ下2-1-1
電話:0467ー22-0753
拝観料:300円(常設展示・特別陳列)
      別料金でその都度で変わる(特別展)
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日(休日の場合は次の平日)、年末年始等
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阿仏尼の墓・阿仏邸旧蹟

 『十六夜日記』の著者で知られる、鎌倉時代の女流歌人である『阿仏尼(1222頃~1283)』に関連した旧跡が鎌倉にはあります。
 阿仏尼は、平度繁の娘とも養女とも云われており、十代半ばの頃に、「安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)」に四条という名で仕えていましたが、失恋のショックで、仏門に入ってしまいます。この経緯については、『うたたね』という作品に阿仏尼自ら書き記しておりますので、興味のある方は読んでみてください。
 さて、三十歳の頃、歌道の大家「藤原為家」の後妻として、『浄光明寺(後編)』で触れた「冷泉為相」や狂歌の祖とも云われている「冷泉為守」をもうけます。
 夫の死後、夫が遺した播磨国の細川庄を巡り、先妻の子である二条為氏と遺産争いを起こしますが、いつまでたっても埒のあかぬことに耐えかね、1279年に鎌倉幕府に訴えようと都から鎌倉までわざわざ下向してくるのですが、『十六夜日記』とは、この旅の日記と鎌倉での滞在日記となります。 なお、阿仏尼は、裁判の決着を見ぬままに亡くなってしまいます。
 *ちなみに、裁判の結果は、1313年に冷泉為相の勝利で終わります。


 鎌倉に到着した「阿仏尼」は、極楽寺近くの「月影ヶ谷」に居を構えます。阿仏尼は、「十六夜日記」にて月影ヶ谷について、「浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかに、すごくて、浪の音、松風たえず。」と記しています。なお、山寺とは「極楽寺」になります。

「阿仏邸旧蹟」

 この石碑の場所に住んでいたわけではありませんが、この先が「月影ヶ谷」となります。この谷の何処かに居を構えていたようです。


「成就院より市内を望む」


 月影ヶ谷に住んでいた「阿仏尼」は、極楽寺坂切通しから鎌倉市中(鎌倉幕府の問注所)に入ったと思われます。当時の極楽寺坂切通しは、現在よりもっと高所にあり、成就院のちょっと下辺りを通っていたと考えられております。きっと阿仏尼も上の写真のような景色を見たのでしょうか。また、どのような思いでこの景色を見たのかと思うと趣き深いものがあります^^。



 また、『英勝寺』の近くには「阿仏尼の墓」もあります。

「阿仏尼の墓」



 阿仏尼の墓は、『浄光明寺』にある息子「冷泉為相の墓」と向かいあっていると云われています。

「阿仏尼墓より浄光明寺方面を眺める」・・・う~ん、見あたりませんね^^:

 


「行き方」
「阿仏邸旧蹟」
①江ノ電「極楽寺」駅下車後、右手に向かいます。


「極楽寺駅」



②やがて、鎌倉十橋の一つ「針磨橋」がありますので、右手に進んだ線路を越えた所にあります。



「阿仏尼墓」
英勝寺』前の道を線路沿いに北鎌倉方面に進みます。『英勝寺』からは、1,2分もあれば到着できます。

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和賀江嶋(続編)

 既に『和賀江嶋』については、当ブログにてご紹介した所ですが、潮位が低い時の写真を撮ってみましたので、ご紹介します。



確か・・・潮位は23センチ・・・だった様な気が・・・
なにせ正直な話、もう何ヶ月も前に撮りに行ったものなので、あまり覚えていないのです(>_<)



潮位が高い時の『和賀江嶋』の写真と比べてみてください。
確かにこれを見ると島だなぁ~と思いませんか(^O^)




大きい石がごろごろしています。安定していないので危ない限りです




思いきってぎりぎりの所まで来ました。振り返ると・・・向こうに見える建物は「逗子マリーナ」です。





 潮位が低いと『和賀江嶋』は、結構、歩いていけちゃいます。ただし、行く際には、まず長靴は必須となりますし、また足場は不安定で相当悪いので、転倒の危険性大ですので、覚悟した上で気をつけて行ってきて下さいね。






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覚賢塔(亀ヶ谷にて彷徨う)

 『覚賢塔』からの帰りは、来る途中で遭遇した「熊おじさん」の跡を追って亀ヶ谷方面に進んだのでした。


 熊おじさんと別れた分岐(『覚賢塔』を参照して下さい)を亀ケ谷方面に進むと、じきに立派なやぐら群にぶつかります。


「やぐら群」・・・「新編鎌倉誌」によるとこの周辺は「勝縁寺谷」と云い、昔は寺院があったそうです。ここのやぐらはその寺のゆかりのものでしょうか?






 このやぐら群の脇にある階段を登ると、その上には祠があります。先のやぐら群同様、どのような云われがあるのでしょうか。


右の階段を上がると、祠にたどり着きます。亀ヶ谷方面は、真っ直ぐに進みます。



「祠」・・・やぐらの上の少し拓けた場所にあります。自分が思うに「新編鎌倉誌」に記載のある勝縁寺谷にある天神の小祠とは、ここのことなのでしょうか。



 そのまま亀ヶ谷方面に進んで行くと、「禅居院」墓地の裏山にでます。墓地から裏山に登る道も見え、自分もさっとそこから降りたかったのですが、「禅居院」は非公開の寺院なので、降りる訳にもいかず、そのまま進むことに(>_<)

「禅居院」



 途中、小高い山腹にまた祠がありました。天神の小祠はここのことか?迷います^^:



謎の歌碑に遭遇




大正天皇陛下の碑




 どうも碑の内容を見ると、大正天皇がまだ東宮(皇太子)の時代にこの地を訪れ、大正時代に建てられた記念碑のようです。先の歌碑もその際に建てられたようです。
 何故、この地に大正天皇が訪れたのかは、よくわかりませんが、ひょっとしたら、亀ヶ谷に当時あったカメリア温泉に温泉療養にでも来たのでしょうか。謎が深まりますね。



 実は、この歌碑や天皇陛下の碑は、道がわからずにさ迷っている内に発見したもので、つまり、これらに遭遇するのは、他でもなく迷い子になっていることなので、皆さんも大いに慌てましょう(T_T)
その場合は、元の道に戻り(登ります)、周囲を注意深く見ると、ロープが降りている道(崖)がありますので、そのロープにつかまり降りて行くと、『亀ヶ谷の切通し』に到着します。


ロープがよく見るとありますので、これを頼りに下っていきます。


ロープを降りると「亀ヶ谷切通し」に出ます。こんな所から人が飛び出てきたので、道行く人達を驚かせてしまいました^^:



 この道は、迷うわ、危ないわと散々な道なので、お勧め度は0どころかマイナスなので、悪いことは言わないので、行かないことをアドバイスして終わりとします。
 ちなみに、熊おじさんもの姿も見当たらなかったので、無事に降りてこれたようですね^^

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